カラーチ
新世紀一八年二月、ホルムズ海峡の安全が確保されたとして、日本政府は各国に海峡の通過を認める旨の発表を行っている。セラー半島全域を確保し、対岸のラームアレスからイスパイア帝国軍を駆逐することに成功していたからである。つまり、イスパイア帝国軍は最初の上陸地点であるカラーチに撤退していた。半島での戦闘の終結後、瑠都瑠伊方面軍司令部では空軍による対地攻撃、その多くは通常爆弾による空爆であった、を続行し、結果として、イスパイア帝国軍を撤退させることに成功していたのである。
また、捕虜となった一五八七名を一月末にはカラーチに送還していた。これは、高級士官が大尉クラスであったことで、その情報は大して重要なものではなかったこともあるが、域内に敵軍人を抱えておくことに不安を表明したセラク共和国政府の要求によるものであった。そういうわけで、セラージ近郊は安定化していたといえる。
この戦いで、瑠都瑠伊方面軍は貴重な体験をすることができたといえるだろう。中でも、新開発の機体を投入してその性能を確認できたこと、実戦経験のなかった第三六師団が実戦を体験したこと、司令部の稼働状況が確認できたことなどであった。同じことはセラク共和国軍にも言えたかもしれない。こちらは、初めての先進国との戦闘を体験したということに尽きるだろう。少なくとも、日本の影響下にある国の中で、日本以外の先進国との戦闘を経験した国は存在しないといえるからである。
もっとも、イスパイア帝国軍がカラーチまで撤退したのには他の理由もあったようだ。それは、ラームルとの武装衝突にあったようで、多くの食料や武器弾薬を焼失した今、ラームアレスでの戦闘継続が不可能になったからであろうといわれている。約三〇〇〇で三万を超えるラームル軍との戦闘では十分な兵力と武器弾薬、食料があれば可能であろうが、そのいずれもが十分ではない以上、不利であると悟ったからだとされた。捕虜の送還の際、上陸軍指揮代行者、階級は大佐であったようだ、との対談、ほんの三分ほど、で得た情報であったといわれる。
つまり、このとき、日本軍は初めてイスパイア帝国軍高級軍人と対面した、そういえるのである。そして、平和的に送還が受け入れられたとされる。ちなみに、この捕虜送還の責任者とされた第三六師団参謀の向島忠則中佐によれば、この指揮官、フランコ・ドレーズと名乗った、は叩き上げの佐官らしく、高齢であったと証言している。また、人道的な処置として瑠都瑠伊方面軍で決定された医薬品の提供に関しては謝意を表したともいう。しかし、戦闘停止とイスパイア帝国政府との対話などについて、一瞬考えた後、応じられない、そう返答したという。
捕虜の事情聴取を除けば、これが始めての軍人同士の接触でもあった。そして、向島中佐は予想していたイスパイア帝国軍軍人とは違った雰囲気を持っていたとも話している。このころ、瑠都瑠伊方面軍司令部では、というよりも、日本軍および政府上層部では、旧大日本帝国陸軍の多くのような軍人、あるいは赤い半島の軍人を想像していたのかもしれない。というのも、これまで得た情報によれば、イスパイア帝国は軍主導の全体主義国家というものであり、多くの日本人は旧大日本帝国そのものを想像していたといえるからである。
そうして、向島中佐は件の大佐、フランコ・ドレーズに瑠都瑠伊の意思を明確に伝えることとなった。すなわち、日本政府および軍はイスパイア帝国との対話を望むこと、今回の侵略に対して謝罪し、賠償に応じるなら平和的に解決することが可能であろう、ただし、今後も継続して敵対行動を取るならば、徹底的に抗戦するであろう、としたのである。さらに、交戦中の二国と直ちに停戦し、対話による解決がなされれば、石油の禁輸は解かれるだろう、ともしていた。対して、本国に伝える、というのがドレーズ大佐の返答であったという。
しかし、向島中佐は師団司令部を通じて、別の情報をも伝えてきていた。それは、カラーチの多くのイスパイア帝国軍人がホッとした表情をしていたのに対して、若い幾人かの将校、多くは少尉あるいは中尉がフランコ大佐に捕虜にすべきだ、捕虜となった軍人など受け入れる必要はない、などと食ってかかる光景を目にしたというものであった。むろん、向島中佐のいる前ではなく、彼が輸送船に戻ろうとしたときのことであったとしている。そして、彼らは軍による純粋培養されたエリートではないか、とも伝えている。
その後は瑠都瑠伊方面軍は彼らイスパイア帝国軍に対しては航空機による監視と情報収集、電子戦機による、を実施し、あえてカラーチを攻撃することはしなかった。彼らに輸送船はなく、本国からの支援を待つことしかできない、そう判断していたからである。ちなみに、無線傍受によれば、ドレーズ大佐は確かに瑠都瑠伊の意向を本国に伝えていることが確認されていた。それに対する返答も傍受されている。ノーであった。また、カラーチに対する支援は当分の間停止されるようでもあった。つまり、彼らは見捨てられたのではないか、というのが瑠都瑠伊の判断であったようだ。
二月中旬、電子戦機がカラーチでの異変を探知していた。部隊内での交戦であった。むろん、無線傍受によるものであったが、詳細な情報までは不明であった。さらに、対潜哨戒機によれば、カラーチ北方での戦闘発生を捉えてもいた。これは、ラームルの軍勢とイスパイア帝国軍との戦闘であることがすぐに判明している。このときは小規模な衝突であり、すぐに戦闘は収拾していた。
ホルムズ海峡対岸のラームアレスとは異なり、カラーチには十分な食料と武器弾薬が備蓄されているようで、余裕を持って撃退しているように思えるものであった。ちなみに、ここには、後方支援という役割を持つのか、三〇〇〇人ほどの軍勢が残っており、カラーチのイスパイア帝国軍は総数八〇〇〇名ほどの兵力であると推定されていた。とはいうものの、弾薬などは無限ではないため、ラームルが人海戦術で攻めてきた場合、そう長くは持たないだろう、というのが瑠都瑠伊方面軍司令部の判断であったとされる。
結局のところ、カラーチに上陸した部隊は日本をペルシャ湾に釘付けにするための陽動ではないか、そう考える瑠都瑠伊司令要員が多かったといわれる。なぜなら、このとき、南大西洋やローレシア方面ではイスパイア帝国の一大攻勢が始まっていたからであった。つまり、マダガスカル島ではローレシアに近すぎ、部隊を撃破されれば、ローレシア戦線に介入される可能性があり、南大西洋に進出されれば、二方面作戦が三方面作戦になってしまうと考えていたのではないか、というのである。
それならば、日本軍を中東方面に引き付けておき、その間に二方面でのいずれかの戦いを終結させ、インド洋を北上するという作戦ではないか、というのである。ロンデリアの参入がなければ、おそらくローレシア戦線に集中し、ローレシアを征服してから中東を、と考えていたのではないかというのである。今村や安西、鳩村といった大陸調査団から経験を積んでいる軍人たちの見解はまた異なっていたという。
仮に、ロンデリアが参戦していなければ、南大西洋とマダガスカル島で戦闘が発生していただろう、そういうのである。実のところ、南米大陸を征服しあぐねている現状では、ローレシアを含めて二ヶ国も三ヶ国も相手にできないと考えていたはずだというのである。もっとも、イスパイア帝国側は日本の戦力を見誤っている点があり、セラージに対する侵攻がこうもやすやすと阻止されるとは考えていなかっただろう、という意見も多い。
いずれにしろ、日本政府や日本軍上層部はこの時点でイスパイア帝国と全面的な戦争を行うことは考えていなかったようで、それがカラーチのイスパイア軍に対する宣言に現れているといえただろう。全面的な戦争に移行するなら、カラーチのイスパイア帝国軍は現在のように自由に行動できていないはずだからである。そして、ローレシアやロンデリアとイスパイア帝国との対話による問題解決を望んでいたのは日本だけでなかったはずである。
ただし、アメリカと英国は対話による問題解決はありえない、とする意見が強かったといえる。全体主義国家、軍事国家であれば、かっての大日本帝国やナチスドイツなどのように、徹底的に敗戦に追い込まない限り、国内の改革は起こりえない、そういう判断をしていたといえるだろう。事実、アメリカや英国、フランスといった国連理事国は日本政府にそう断言し、戦争による解決を迫っていたのである。アメリカや英国はともかくとして、フランスが加わっているのは太平洋の島々、インド洋の島々という、イスパイア帝国が進出しそうな領土を持っていたからに他ならない。
先の戦闘発生以後、カラーチではこれといった戦闘も発生せず、平穏であったといえる。稀に発生する戦闘はあくまでもラームルとの紛争のようであり、それも圧倒的な兵器格差で撃退しているようであった。そうして、これまでとは異なり、周辺各地、主に北部からの住民を拘束し、住居建設などを行っているように見えた。日本軍の攻撃を逃れて生き残った重機を用いての都市づくりも進められているように思えたのである。あれほど発信していた電波も稀にしか発信せず、多くは受信のみであったといわれる。向島中佐との接触以後、日本軍とは接触しておらず、上陸地点の開発を行っているようであった。これといった資源がないにも関わらず、である。
結局、瑠都瑠伊側の監視もその頻度を減少させていくこととなった。もっとも近いセラー半島に臨時に設置された通信施設による無線傍受が中心となり、電子戦機の飛ばす回数は減り、対潜哨戒機の飛行コースも二回に一回は外されることとなっていった。四月からはセラージに向かう船舶、多くは東南アジアからのタンカーであった、の近海通過時以外は、週一回の対潜哨戒機の接近飛行になっていった。