激突
瑠都瑠伊方面軍陸軍がセラージに展開を終え、航路の安全確保のための海軍艦艇が到着し、曲がりなりにも即応体制が整ったといえるころ、ロンデリア海軍が動くこととなった。空母四隻、巡洋艦四隻、駆逐艦一六隻を基幹とする大艦隊が、ロンデリアが開拓に入った北アフリカのセウタに集結していることが確認された。これは、偵察衛星などからの情報ではなく、ジブラルタル海峡を通過して瑠都瑠伊に入港した民間貨物船数隻からもたらされたものであった。
さらに、元のアメリカ連合国住民が開拓している北米大陸ノーフォークには戦艦四隻、巡洋艦四隻、駆逐艦一六隻を基幹とする艦隊が入港していることがノーフォーク在住日本人より報告されていた。ちなみに、このころは、北米大陸東海岸がロンデリアからの移民、西海岸がグアムからの移民という住み分けがなされており、アメリカ合衆国軍の多くはカリフォルニアにあった。アメリカ合衆国側では当初は入植人口が少なかったが、このころには急速に人口が増えていたといわれる。
その理由はローレシアの移転により、約六○万人が取り残されたアーメリア共和国住民の移民先として、アメリカ合衆国入植地を希望するものが多くいたからであったとされる。それだけではなく、シナーイ民国やシナ民国といったこの世界からの移民もあったとされる。日本としてはアメリカ合衆国が移民募集活動を行っていることは知ってはいたが、法を犯さない限りは容認していたといえる。実は英国でもローレシア国内に在った他の大陸の住民をも受け入れていたのである。ために、人口が急増していたといえた。
むろん、これら移民は強制的に行われたわけではなく、十分な説明を受けた上で、移民を望んだ住民を受け入れていた。ちなみに、キリールやウゼルといった国からも少ないながら移民はいた。これら地域で反国王派としてクーデターに参加し、その後、隔離されることになった兵士や貴族が国を捨てて移民している。彼らの現状はわからないが、少なくとも、自由の国である移民先で生活するほうが、かっての国で暮らすよりも良かったのかも知れない。
結果的に、この世界でも、アメリカ合衆国は移民の国であり、常に移民を受け入れることとなる。ただし、移転前のアメリカとは異なり、近隣にアメリカ連合主体の住民が多数存在することで、北米に問題が発生する可能性があったといえる。ちなみに、この世界では、両国の主義の違いはほとんどないといえた。唯一の違いは有色人種(ここでは黒人を指す)に対する差別が異常に強いことであろう。そのため、アメリカ合衆国軍の黒人士官に対する風当たりは強いともいえた。また、ローレシアについてはあからさまではないが、蔑視する傾向が強いようであった。とはいうものの、中にはリベラル派の住民も少なくない数が存在していた。
ともあれ、約一年で国内の不安要素を減じることとなったローレシアは対イスパイア帝国戦への準備を進めていたといえるだろう。戦艦六隻、空母六隻、巡洋艦一二隻、駆逐艦七二隻、その他多数からなる大艦隊が稼動できるまでに準備は整えられていたといわれる。とはいうものの、日本が衛星情報で得ていたイスパイア帝国海軍兵力は、戦艦一二隻、空母八隻、巡洋艦二〇隻、駆逐艦一〇〇隻以上というものであり、ロンデリアにしても、ローレシアにしても、一国で対応するには強大すぎたかもしれない。
もっとも、技術的にはローレシアが一番進んでおり、ついでロンデリア、イスパイア帝国と判断されていた。この時点においても、イスパイア帝国の技術力は完全には掴みきれていなかったのである。しかし、セラージ近隣に上陸したことで、おおよその技術力が判明しかけていたといえる。それら情報から瑠都瑠伊方面軍司令部が判断したのは、ロンデリアと同等かやや上、というものであった。あくまでも、推測であって、直接確認されたわけではなかった。とはいえ、大きく変わることはない、というのが瑠都瑠伊の判断でもあった。
瑠都瑠伊方面軍司令部の誰もが首を傾げたのがロンデリアの出方であった。なぜなら、イスパイア帝国による、セントヘレナ・アセンションとトリスタン・ダ・クーニャの占領は情報として、瑠都瑠伊および日本から伝えられていたはずであった。そんな最中、わざわざ同地域に向かう理由がわからなかったのである。だからこそ、瑠都瑠伊や日本はロンデリアに情報提供を呼びかけていた。それに対して、当初は情報を出し渋っていたロンデリアであったが、ついに数枚の写真を公開したのである。
それによれば、トリスタン・ダ・クーニャ諸島、セントヘレナ島、アセッション島を初め、幾つかの島にロンデリアの国旗、デザイン的にはユニオンジャック(英国の国旗)と同じであるが、色違い(白地に赤のラインにブルーの縁取り)が建てられている、おそらく、日本の知らぬ間に立てていたものと思われた、が写ったものであった。ラーシア大陸西部とアフリカ大陸北部、そして南大西洋の島々が日本およびその近隣国の影響が及んでいないことを知ったロンデリア政府が領土を得ようとして立てて回ったものと思われた。その結果、イスパイア帝国と衝突したということであった。
おそらく、イスパイア帝国にとっては、ロンデリアとの衝突は予想外の出来事であろうと思われた。なぜなら、ローレシアとラームルへの上陸作戦であれば、十分可能だと考えていたと思われるからである。いくら膨張政策を取っているとはいえ、複数国家との間で戦端を開く愚は理解しているはずだからである。
結果として、イスパイア帝国にとっては戦線の組み換えが、ローレシアとロンデリアにとっては対戦国の戦力分散が望める、そういうことになったわけである。そして、日本ではもっとも東で行われている上陸作戦が中止されることもありえるだろう、とする意見も出ることとなる。が、瑠都瑠伊ではそれはないだろう、とする意見が多数を占めていた。ここで撤退しても、セーザンやセラージから原油が輸入できなくなる可能性が高い、そう考えるだろうというのである。
たしかに、日本との取り決めたルールは侵していないが、日本と国交を結んでいる二国を攻撃し、かつ、自らは国交すら結んでいないことに気づくだろう、というのである。そうした場合、自らに必要な原油を得るためには、セラージへ侵攻、占領しようとする、瑠都瑠伊ではその可能性がもっと高くなるのではないか、そういう意見も出た。つまり、セラージが攻撃されるかもしれない、そういう意見であった。対して、日本ではそのような意見は出なかったようである。
そうして、瑠都瑠伊方面軍が軍を増強している最中の一〇月八日、ついに本格的な戦闘が始まったのである。ローレシアのポートマレー軍港が空母艦載機による攻撃を受けたのである。ポートマレーでは、早期警戒管制機による索敵が稼動していたことで、航空機による迎撃が可能であった。しかし、発射された対地ミサイルおよび対艦ミサイルの一〇発が着弾、二棟の重油タンクと三隻の巡洋艦、二隻の駆逐艦に命中し、死傷者約一〇〇〇人を出す損害を受けたのである。
これは、撃ちもらした航空機によるものであり、地対空ミサイルの網をかいくぐったものであった。ちなみに、攻撃機は五〇機ほど、迎撃に上がったのは二四機であったといわれている。迎撃に挙がった戦闘機は一六機を撃墜し、一二機に損傷を負わせているが、半数が撃墜されている。これは、ローレシアの装備する対空ミサイルがこの世界で著しい性能低下を引き起こしていたことが原因であったとされる。事実、移転前では命中率が八〇パーセントを超えていたにもかかわらず、この世界では四〇パーセントまで落ち込んでいたことが判明している。その原因は不明であった。
イスパイア帝国側からは何の通告もなく、奇襲であったが、ローレシア側は翌日には宣戦布告している。こうして、両国は戦闘状態に突入することとなった。日本は両国に、直ちに戦闘を停止し、対話による解決を宣言し、仲介を申し出ているが、片方とは国交すら締結しておらず、大使館や領事館といった窓口がないため、あまり意味のないものであったといえる。このときも、トリスタン・ダ・クーニャ諸島に向けての電波発信に留まっている。以後は双方とも電波によるやり取りしかできなくなっていた。
翌一一月三日には、南大西洋で、セントヘレナ島、アセンション島、トリスタン・ダ・クーニャ諸島の奪還に向かっていたロンデリアの主力部隊、戦艦を基幹とする、が、航空攻撃を受け、駆逐艦四隻が沈没、巡洋艦二隻が大破、戦艦二隻が小破、死傷者約一二〇〇人という損害を受けている。攻撃機一二〇機のうち、一/三を撃墜、二〇機に損傷を与えている。ここでも、両国に直ちに戦闘を停止し、対話による解決を宣言し、仲介を申し出ているが、意味のないものであったといわれている。
その後、幾度か戦闘が発生、日本の警告を無視し続けるイスパイア帝国に対して、一二月一日、日本政府は最後通告をする。いわく、直ちに戦闘を停止し、停戦すること、もし応じなければ今後、原油の輸出を停止する、さらに、対話による解決に応じなければ原油の禁輸を実施する、というものであった。これは瑠都瑠伊には何の相談もなく、本国主導で通告されたのである。これに慌てたのが瑠都瑠伊方面軍司令部であった。その宣告は瑠都瑠伊には何の連絡もなく、なされたものであり、セーザンやセラージへの方面軍の増強が完了していなかったからである。
このころ、ラームルに上陸したイスパイア帝国軍は北進することなく、上陸地点から半径一〇km圏内、その北、ホルムズ海峡の東岸の半径二〇kmに留まり、輸送船や貨物船からの物資揚陸を行っていた。その場所で油田を探っているようにも見える。しかし、上陸地点では石油が出るはずもなく、ホルムズ海峡東岸の北は油田の存在する可能性はあるものの、それらしき工事を行っているようには見えないこともあり、瑠都瑠伊方面軍内ではセラージ攻略のための拠点作りではないか、そう考えられていた。
実は大陸調査団当時の瑠都瑠伊の責任者であった沢木次官は、セーザンおよびセラージを選んだのには理由があった。セーザンはインド洋に面しているが、実際はアデン湾に面しており、その南東にはソコトラ島があり、セラージはホルムズ海峡のすぐ北西側にあり、いずれも直接外洋から攻撃しにくい場所だったからでもあった。つまり、双方とも、それなりに狭い地域を通り抜けなければ港に入ることができなかったのである。今回、セラージではそれが仇となったといえる。海峡の対岸が押さえられれば、セラージへの入港が不可能となるからである。さらに一〇〇kmとはいえ、極端な話し、手濃きボートでも横断は可能であり、その侵入を見落としてしまう可能性があった。特に、セラク軍兵士にはその可能性が高かった。理由は暗視双眼鏡や暗視ゴーグルなど装備されていないからである。