予想しなかった出来事
新世紀一七年八月、セラク共和国ペルシャ湾沿岸のセラージでは、産油施設や発電所が本格的に稼動し、セーザンにはおよばないものの、この地域一帯では発展の兆しをみせていたといえる。ペルシャ湾は先にも述べたように、真北に向かって長さ一二○○km、最大幅六〇〇kmあり、ホルムズ海峡はこの世界でも存在するが、移転前ほど複雑で狭いものではなく、幅は一〇〇kmほどあった。
ペルシャ湾の対岸はラームルとされ、この時点で、セラン神聖帝国はペルシャ湾の西側北部に追いやられている状態であった。神聖帝国側はセラク共和国とされた領土を奪還しようと幾度か攻撃を仕掛けてきていたが、セラク軍はより進んだ瑠都瑠伊製の装備をもって追い払っている。フセールは今村に進言されたとおり、現状では逆侵攻を考えず、防衛戦に徹していた。
セラージは移転前でいえば、アラブ首長国連邦の位置にあるといえた。この時点ではまだ三本の油井が稼動しているだけで、ビルの建設が進められている、そういう状況であった。港湾の整備もまだ進められている段階であったが、それでも、多くのタンカーが原油の積み出しに訪れていた。その多くは日本を始め、西太平洋各地の国のものが多かったが、イスパイア帝国の船も見られる。
ちなみにセーザンは約二〇〇〇kmほど離れた紅海とインド洋の繋がる沿岸部、移転前でいえば、サウジアラビア南部にある。この世界ではイエメンにあたる地域は存在しないため、直接インド洋に繋がることとなる。そして、アフリカ大陸のソマリアやエチオピアの一部に当たる地域が存在せず、アデン湾は半円形の形状をしており、そのほぼ中央にソコトラ島が存在する。このあたりは移転前ともっとも異なる地域のひとつといえるだろう。
新世紀一七年九月一日、南大西洋を航行中のロンデリア王国海軍艦艇とイスパイア帝国軍艦との間で砲撃戦が発生した、との報が瑠都瑠伊方面軍司令部にもたらされた。ロンデリア側軍艦はセントヘレナ島やアセンション島、トリスタン・ダ・クーニャ諸島の調査に訪れていた、と公表し、問答無用で攻撃を受けたとしている。対して、イスパイア帝国側は領海侵犯と警告を無視したため、やむを得ず攻撃したとしている。ロンデリアとしても、これら地域がイスパイア帝国に占領されていることは情報として得ていたはずであり、何らかの意図を持って接近したものと思われたが、それは公表されていない。
そして、ほぼ同じころ、ローレシアとイスパイア帝国との間で戦端が開かれることとなった。イスパイア帝国軍艦によるローレシア国船舶への攻撃であった。この攻撃されたローレシア側の船舶は、同国軍が情報収集のためにセントヘレナ島やアセンション島、トリスタン・ダ・クーニャ諸島近海に派遣していたものであり、外見は民間船舶を装っていたが中身は古いとはいえ、巡洋艦であった。イスパイア側はスパイ船を追跡補足、攻撃したと公表している。
さらに、その二週間後、ペルシャ湾入り口、ホルムズ海峡の東岸、移転前でいえば、イランとパキスタンの国境付近、にイスパイア帝国軍が上陸、橋頭堡を築き、物資を陸揚げし始めたのである。こちらは海峡通過時に、ラームルから攻撃をうけ、船舶に損害が出たため、その報復攻撃である、そう公表している。ただし、セラージでは砲撃音など確認しておらず、また、ラームル側に船舶を攻撃できるような戦力がないことを知っていたため、実際に攻撃を受けたかどうかは判断できないものであった。
瑠都瑠伊方面軍司令部ではロンデリアの艦船が攻撃を受けたこと、イスパイア帝国軍のペルシャ湾の対岸への上陸は予想外の出来事であった。ローレシアの艦船への攻撃は予想していたものの、それ以外は意表をつかれたといえた。そして、ローレシア艦船、砲撃を受く、との報で動こうとしていた瑠都瑠伊方面軍は動くことができなくなってしまったといえる。
ペルシャ湾の対岸への上陸の意図は明白であったかもしれない。おそらく、彼らの移転前の世界でも、これら地域と似た地域は存在しており、石油が出ることを知っていたと考えられた。そう、自らの手で油田を掘り当てよう、とする意図が丸見えであったといえる。少なくとも、方面軍司令官の今村はそう考えていた。
この時点では、イスパイア帝国の移転前の世界は何もわかってはいなかったが、これまでの商館設置を執拗に求めてきたこと、セーザンよりもセラージに固執していたことなどから、そう判断できるというのである。当初、誰もが疑問に思ってはいたが、結局はそれがもっとも妥当な意味であろう、との判断が下されることとなった。そして、日本本国が混乱して結論を出せないうちに瑠都瑠伊方面軍が動き出すこととなった。
いくら世界が変わったとはいえ、日本の政治家ののんきさは変わらないといえた。むろん、すべてがそうであるとはいわないが、多くの政治家や官僚がそうであると思われた。その点、志願して国を出た人たちはやはり異なる考えを持つ人たちであったといえるかもしれない。そして、瑠都瑠伊にはそういった人間が集まっていたといえるだろう。だからこそ、本国の判断を待つことなく動けたといえる。
もっとも、文民統制の面からいって歓迎されるべきではないといわれそうであるが、瑠都瑠伊の文民最高指揮者である佐藤が自ら下したとなれば、軍による独断横行とはいえないであろう。この場合、もっとも優先されるべきは、産油施設のあるセラージの安全確保であったが、そのため、一週間後には陸軍一個旅団規模の軍を瑠都瑠伊からセラージに移動させている。海軍もP-3C<オライオン>の派生型、電子情報収集機、遠距離画像情報収集機を派遣していた。空軍においては、格納庫に不備があるとして、派遣が見送られている。P-3C<オライオン>を派遣したことで、空港の格納庫が満杯となってしまったからである。
この場合、陸軍兵力の移動は不測の事態に備えて必要であろうし、緊急展開とされ、瑠都瑠伊にあったC-2輸送機四機をフルに活用してのものであった。結果的に、C-2輸送機は各機とも一〇往復以上したことで、展開終了時には機体はエンジン分解整備に回さざるを得ず、その後一週間は使用不可能となっていたといわれる。その後は緊急輸送に備えて待機とされた。
海軍は航空機二機を派遣したが、これは情報収集のためであり、多くは通信傍受のためであった。衛星通信が不可能なイスパイア帝国軍はインド洋に通信中継船を配置していると考えられたからである。後に対潜哨戒機も四機派遣されている。これは中継船に潜水艦を使っている可能性を考慮してのものであった。機体保護のため、施設部隊が簡易格納庫を数棟設置してもいた。艦船の派遣は駆逐艦二隻が派遣されており、沿岸警備と対潜哨戒のためであった。陸軍展開より数日遅れて到着している。セラージには巡視船四隻しか配備されていなかったためであった。ラームルの海上戦力は確認されておらず、さらにいえば、漁船は手漕ぎ式しか確認されていなかったから、巡視船だけで十分対応が可能だとされていたのである。海軍からは駆逐艦二隻を、といわれていたが、陸軍所属である今村はその点に限って失策を犯していたといえる。
空軍の派遣が見送られたのは、上陸部隊および支援艦船に航空機を運用する艦、航空母艦や揚陸艦が確認されていなかったからである。イスパイア帝国軍も上陸に関しては航空機支援の必要性を認めなかった、ということになるだろう。この世界では航空機という概念がないから当然といえたかもしれない。自動車すら開発されていない世界で、航空機が開発されているはずがなかったからである。しかし、ヘリコプターを含んで航空機が出現すれば、緊急展開部隊として四機が派遣されるであろうし、空港にもそれなりの設備が新規に設置されてもいたのである。
一連の事件発生から一ヶ月後、ようやく、という形で日本本国から指令が届くこととなった。内容は、セラージの安全確保および友好国支援のための最善と思われる策を講じること、であった。これは本国では結論が出ず、瑠都瑠伊方面軍の動きを見て追指令してきたに過ぎない。なぜなら、事件発生時に今村が本国に宛てた上申、作戦指令書そのままであったからである。むろん、文面は変えられているが、主旨自体はなんら変わることがないものであった。
以後、瑠都瑠伊方面軍は佐藤知事と図って必要がない限りは独自に動くことを確認している。緊急事態において、本国の指示を待つことは作戦の遅れが生じることであり、最悪の場合、対応が取れなくなるということもあるからである。今村としては、もし、日本の領土が攻撃を受けた場合はどこまで反撃していいのか、それを上層部に確認しており、佐藤も政府に確認を取っている。
つまるところ、このころから日本本国と瑠都瑠伊との溝が深まっていくこととなったのかもしれない、といわれることが多い。日本近隣だけを見ていればいい本国と異なり、周辺各国を見ていかなければならない地域との差であったかもしれない。移転前に、各地に領土を持っていた英国やフランス、世界に軍を展開していた米国とは異なり、日本列島だけしか統治経験のない日本が、遠く離れた領土を統治できるわけではないのだ、という意見が多く出されることとなった。