緊張のインド洋
瑠都瑠伊の日本軍の緊張が緩みかけ、ローレシア国内が安定しだしたころ、新世紀一七年八月、衝撃の事実が判明することとなる。きっかけはマダガスカル島の漁船であった。彼らはマグロを求めて中部インド洋や南部インド洋、アフリカ大陸沿岸の南大西洋まで漁に出かけることが多かった。この世界でも、マグロは日本で高く取引されていたからである。
その漁船の一隻が漁からの帰途、トリスタン・ダ・クーニャ諸島の本島沖で多数のイスパイア帝国軍艦と遭遇、一時は包囲されかけたものの、日本国旗を確認すると離れていった。その後は無事にマダガスカル島に帰還している。その報を受けた瑠都瑠伊方面軍司令部は本国に報告、偵察衛星による付近一帯の調査を依頼、その結果がトリスタン・ダ・クーニャ諸島への上陸が確認されたのである。さらに範囲を広げた結果、南大西洋のセントヘレナ島、アセンション島といわれる多くの島がその影響下にあるものと判断された。移転前の英国領であり、さらにいえば、この世界に現れたロンデリアの領土でもあった。
とはいうものの、英国はこの時点ではこれら地域には標識を立てておらず、ロンデリアにいたっては、これら地域に艦船を派遣してはいなかった。ために、無人島であった、と宣言されれば、日本や英国、ロンデリアとしては何もできない、そういうことになる。ただし、ロンデリアなり、英国なりの何らかの標識があれば、話しは変わってくる。しかし、今となっては確認のしようがないのもまた事実であった。
これらの地域がイスパイア帝国の勢力下に置かれることで、ローレシアの危機感が高まることとなる。詳細は不明なれど、イスパイア本国からローレシアに侵攻しやすくなるからであった。そして、日米の潜水艦だけではなく、ロンデリアの潜水艦も南大西洋を遊弋し、情報収集に当たっていた。ロンデリアの潜水艦は通常動力潜水艦であり、日米の原子力潜水艦にはおよばないものの、それでも隠密性があったようである。ローレシアでも、艦船や航空機を飛ばしていた。
不思議なのはイスパイア帝国の潜水艦が出現していないことであった。港湾ではそれらしい艦船が確認されていたのであるが、港を出ることがなかったのである。水上艦艇ばかりであり、戦艦や空母、巡洋艦、駆逐艦、輸送艦や補給艦などの航行が確認されていた。日米の潜水艦はイスパイア帝国大西洋沿岸沖を遊弋しての情報集が任務であった。残る二隻の日本の潜水艦は太平洋側とパナマ海峡沖を遊弋、やはり情報収集に当たっていた。
そのため、港を出た艦船の行動までは監視していなかった。だからこそ、セントヘレナ島やアセンション島の海域が占領されていることを知らなかったといえる。いずれにしても、現状で米国原潜一隻と日本の原潜四隻でこれら海域の哨戒と情報収集を行わなければならず、絶対数が不足しているといえた。少なくとも、インド洋から南大西洋、太平洋では原潜には脅威は存在せず、安全であろうと判断されているが、南大西洋や地中海ではイスパイア帝国の潜水艦や艦船、ロンデリアの潜水艦や艦船と遭遇する可能性が高いため、注意を要するとされていた。
移転後一七年を経たとはいえ、日本の軍事力はそこまで増強されていないため、一国ではとても世界をカバーできるものではない。移転前の中東や黒海から太平洋全域、ラーシア海と哨戒地域は拡大しているのである。米軍を加えてもなお不足しているといえた。だからこそ、ロンデリアやローレシアなどとは友好的に進めたいと考えていたわけである。可能なら、イスパイア帝国ともそうしていたかもしれない。しかし、イスパイア帝国側がそれを拒絶している以上、日本としては仮想敵として考慮しなければならなかったわけである。そして、南大西洋の島々が占領されている今、日本としても無関心ではいられないのである。
緩みかけていた緊張感が一挙に増大することとなった。貿易が始まって僅かな期間とはいえ、ローレシアは今では日本に欠かせない地域となっていたのである。特に、自動車業界は一挙に業績が回復し、バブルのころに戻りつつあったのである。ここで、ローレシアという市場を失うことはなんとしても避けたかったし、移転前の中国の三/五近い規模の市場であり、今後も拡大が望めたからである。ここで戦争など発生した場合、貿易高が減少することは目に見えていたからであろう。むろん、人口は遥かに少ないが、中国とはことなり、国民すべてが豊であったからである。
しかし、軍事同盟なり、防衛協定なりが締結されていれば、日本としても対応が可能であったかもしれないが、現状では、日本は何の対応も取ることは不可能であったといえる。マダガスカル島なり、インド洋の島なりが攻撃されるようなら話しは別であっただろうが、それがなければ、日本は戦争に介入することが不可能である。ただし、日本人が何らかの損害を受けるようなら、介入が可能だとする意見も出ていた。あまり褒められたものではないが、以前に米国がよく使った方法である。
このとき、既にローレシアには一〇〇〇人近い日本人が入っており、もし、彼らの中に死傷者が出た場合、宣戦布告もありうる、というのである。むろん、これらの考えは瑠都瑠伊方面軍司令部でのことであって、本国ではまた違っていたといえる。今村や佐藤は何の危険もない本国と周辺の危機にさらされている瑠都瑠伊との考え方の格差に、唖然としたという。それは何も二人だけに限らず、瑠都瑠伊の地方官僚や住民にもいえることであったようだ。このころ、初めて官僚や住民から独立、という声が挙がったといわれる。
ちなみに、このころの瑠都瑠伊は本国である日本と同等の技術力を持つまでになっていたという。それは学研地域といわれるように、本国の技術提供のため、幾多の教育機関が進出していたことにその原因があるといえた。生産設備においても日本本国を超える最新設備が建設されていたのである。生産力こそ、人口が少ないため、本国には劣っていたが、それ以外には肩を並べているといえた。軍需工場も本国との距離の壁があることから、現地生産、という形で既に始まっていたのである。
少なくとも、日本というバックを失ったとしても、瑠都瑠伊は独力でやっていけるだけの地域となっていたのである。そう、僅か一〇年でそこまで発展していたといえるだろう。そして、住民の多くにも、日本本国に負けるな、という感情が芽生えていたといえる。つまり、日本はあまりにも、瑠都瑠伊に力を付けさせずぎたといえるのである。移転前のロシア連邦が極東地域を発展させなかったように、瑠都瑠伊を発展させなければ、このような感情が芽生えることはなかったはずであった。
それはともかくとして、イスパイア帝国の出方次第では、瑠都瑠伊が巻き込まれることは確実であったといえる。そもそも、瑠都瑠伊方面軍陸軍は旧大陸調査団に志願した将兵からなっており、一部を除いては、現在もそれが続いているといえた。特に、一般兵の多くは現地住民からの志願であり、将校においても、志願者がその多くを占めていた。そもそも、方面軍司令官である今村からして、志願者であったのである。
例外は海空軍に多いが、それでも、多くの若い将兵はこの地域で結婚し、子供をもうけているため、本国に戻りたがるものは少なかったといえるだろう。また、日本本国軍上層部でも、これ幸いとばかりに、そういった軍人の本国部隊への移動候補者から外していった。結果的に、瑠都瑠伊方面軍に属する三軍(海上保安隊も含めれば、四軍)は地方軍としてまとまりを見せることとなった。そう、日本防衛という意識よりも地域防衛という意識が強くなっていったといえる。そうして、彼らは本国周辺での軍事的出来事には興味を示さなく去っていたといえる。
瑠都瑠伊方面軍はローレシアに何かあった場合、まず動く軍であったといえる。しかも、一種の独立軍として、本国からの指令の前に動くことも考えられた。ちなみに、予備役兵がこの地域だけで二万人以上存在し、いざとなれば、彼らを現役に復帰させることで、二個師団の増強が可能であったといえるだろう。とはいうものの、さすがにそこまでは方面軍独自で行うことは不可能であったといえる。
また、近隣のトルトイでは三個師団、ナトルでは四個師団がそれぞれ国土防衛軍として存在し、彼らとの間には防衛協定が結ばれており、方面軍の指揮下におくことも可能であったといえる。むろん、これは本国でも知っていることであった。さらに、サージア軍五個師団が存在し、セーザン防衛にはその一部があたることも確認されている。また、セラージの防衛にはセラク軍が加わることも決定されており、こちらは一〇個師団のうちの一部があたる。これらは協定こそ結ばれてはいないが、方面軍司令部と両国軍との間で話しあわれていた。これも、本国には報告されている。
ということで、瑠都瑠伊近郊が攻撃を受けた場合、日本軍だけではなく、これらの軍が動くこととなるため、戦力的にはかなりの軍事力であるといえるだろう。もっとも、ローレシアが攻撃を受け、日本人に被害が出た場合に動けるのは日本軍だけであるといえた。瑠都瑠伊方面軍司令部は、二万人以上の予備役兵を現役に復帰させるべく、本国に計っていたのである。しかし、まだその許可は下りていなかった。
こうして、住民の知らぬ間、否、本国住民の知らぬ間に水面下では準備が進められていたのである。少なくとも、瑠都瑠伊では九月には準備が整っていたといえるだろう。そして、サージアやセラクでも準備が進められていたのである。トルトイとナトルでは軍はまだ動いてはいなかったが、政府には戦争の可能性が示唆されていた。セーザンにはサージア軍から一個師団が新たに配備され、セラージにはセラク軍が一個旅団が新たに配備された。最終的にセーザンには二個師団、セラージには一個師団が配備され、万一に備えることとなった。