大陸北部情勢
新世紀一六年七月、大陸北部の諸国(波実来およびリャトウ半島を除く)は順調に発展していたといえるだろう。その発展振りは通常では考えられないものであったといえる。むろん、日本の介入があったとはいえ、短期間で中世から一九五〇年代後半にまで発展するというのは明らかに異常ともいえた。とはいうものの、実際の日本の介入はおとなしいといえるものであったとされる。なぜなら、日本が望んで介入したわけではないとされるからである。
この当時、日本が多くの製品の輸出先として考えていたのはロンデリア王国であってこれら地域ではなかったからである。もっといえば、日本政府により、ある程度の規制が課せられており、最先端技術の詰まった製品の輸出は禁じられていた。許可されていたのは、日本国から移民として外地に出た開拓団、それも日本よりも南あるいは西に限られていたのである。
つまり、シナーイ大陸北西部の各国は日本の提供する製品の便利さにつられて資源との交換で導入したといえる。実際のところ、もっと進んだ製品も彼らの国にはあったが、未だ使いこなせていない、そうともいえたのである。そんな中で、各国とももっとも積極的に導入したのがラジオ放送であり、トランジスタラジオであった。中でもウェーダンやキリール、ウゼルでは積極的に進められていたといわれている。その理由は明確であった。彼らは情報の伝達、ここでいうのは政府のということであるが、強く関与していたのである。つまるところ、情報の統制を目指していたといえるだろう。
この三国ともにいえるのが、情報伝達の未熟さから祖国が滅亡しかけた、つまり、侵略を許してしまった、そういう過去があったからに他ならない。そして、識字率が低かったことでこれといった娯楽もなかったがゆえに、音楽やラジオ小説といった耳から得られるものが爆発的に受け入れられた、という理由が拍車をかけたのだと思われた。そうして、当初はラジオだけであったのが、このころにはラジオカセットレコーダー、いわゆるラジカセである、に移行していたといえるだろう。
それ以外にも各種通信設備の導入は進んでいたといえる。その代表といえるのが電報であり、郵便であった。特に郵便については、これまでは王族や貴族が使用人を使わすことで成り立ち、一般民にはほど遠かったものであったが、政府の梃入れで普及しつつあった。とはいうものの、その多くは鉄道沿線に限られていたが、それでも、以前に比べれば遥かに進んだといえるだろう。
また、交通機関においても格段の進歩を遂げていたといえる。大陸横断鉄道の起点からほぼ中間に至るこれら三国の沿線では、日本の地方都市以上の発展振りであった。駅周辺には一〇万から三〇万人規模の都市が出現しており、急激な人口増に行政が追いつかず、さまざまな問題をも発生させていた。それでも、以前に比べれば格段の発展振りであったといわれる。少なくとも、日本の望む輸送路はほぼ達成されていたといえる。むろん、日本のように旅客輸送が中心とはいえず、どちらかといえば、貨物輸送が主流であったが、鉄道利用の旅客もかなり増えてきていたとされる。
ウェーダン、キリール、ウゼルの三国に限れば、旅客輸送と貨物輸送が半々という状態であり、その往来は多いものであった。キリールやウゼルからは波実来への渡航客が多かったといわれるが、この両国は日本からの資本導入や貿易に積極的であり、そのための利用客増加といえただろう。事実、日本企業の多くも進出を始めていたとされている。というのも、移転前に比べれば、桁違いに労働力が安かったということ、輸送路が確保されたことが最大の要因であったからであろう。
さらにいえば、この三国では国内鉄道網も整備されつつあった。大陸横断鉄道は日本の企業が現地住民を労働力として工事を進めていたが、これら国内の鉄道網整備には日本の企業はほどんど関与していない。つまり、現地企業、多くは日本企業との合弁会社であった、が中心となって始められていたといわれる。ウゼルは別として、キリールやウェーダンでは国内の鉄道の多くはこれら企業の運営であったといわれる。その代表ともいえるのが北のラーシア海に向かう縦断鉄道であったとされる。
例外的に、大陸横断鉄道は日本の企業によって運営されているといえた。これは安全性の面もあるが、国際列車という面から、沿線各国の対立を避けるためであったといえる。トルシャールとキリール、ウェーダンとウゼル、ウェーダンとカザルの関係がまだ微妙であったからである。徐々に改善されつつあるが、民族対立が稀に発生していたからであろう。特に、トルシャールとキリールとの関係はトルトイとトルシャールと同様に同じトルシャール人でありながら分裂しているのと関連しており、難しいといわれていたからである。
これら地域では未だ自家用車は普及してはいないが、公共機関としてのバスは普及し始めており、トラックによる貨物輸送の比率も増加してきていたとされる。日本の戦後の数年をなぞっていたともいえる。これがどれほどかといえば、それまで馬や馬車以外の交通機関がなかった地域が約一〇年で数が少ないものの、バスやトラックが運航されている、その点にあった。一般民に対する免許制度はまだ許可されてはいなかったが、それでも運転免許を取得する人間が増えているのは事実であった。
とはいうものの、キリールやウェーダンの二国とも、自動車やトラックの燃料となるガソリンや軽油の元となる原油を産出する。そのため、今後はより普及していく可能性が高い地域ともいえる。少なくとも、他の地域に比べれば、その可能性は非常に高いといえるだろう。もちろん、これら地域での普及には住民に対する教育、という壁が立ちはだかるが、これも徐々に解消されつつあったといえる。未だ完全とはいえないまでも、日本を手本にした義務教育が普及し始めており、日本の教育制度を導入していたからである。瑠都瑠伊や波実来への人材派遣がそれを表していたといえるだろう。
カザルやトルシャールにおいてはバスやトラックの普及は未だ進んではいないが、それも劇的に遅れているというわけではない。先に挙げた三国には遅れているものの、徐々に普及し始めているといえた。ここでいいたいのは、いずこの国においても、日本よりも広大な面積を有する地域であるということにある。少なくとも、現在の日本であっても、五年や一〇年では不可能なほど、未開の地が多くあるということにある。それでも、確実に中世から脱却し始めている、そういうことであった。
とにかく、日本と接触してからは凄まじいといえるほどの変化であった。通信手段、交通手段ともに見違えるような変化を遂げ、人口も年率で二桁に達しているという増加率であったといわれる。これは、トルシャールとカザルを除いて日本と同じ戸籍制度を導入しているため、確実とされる数字であった。中東の瑠都瑠伊やトルトイ、ナトル共和国でも実施されており、日本ほどではないにしても、人口把握は十分になされていたといえるだろう。
ともあれ、外部からの干渉があったとはいえ、これは大いなる進歩であったといえるだろう。少なくとも、日本との出会い、というよりも、今村との出会いがなければ、このようなことは起こりえなかった、その一点に尽きるだろう。そして、良くも悪しくも近世から近代に向かっていることは日本にとっては悪いものではなかったといえるだろう。なぜなら、近い将来において、日本の良い市場となりえるからである。
むろん、良い面ばかりではないのも事実であった。しかし、日本がある程度の介入をしているため、それほどに貧困の格差は発生していないといえた。ただし、貴族階級が存在するため、ここでは一般の住民たちの間で、という意味である。少なくとも、国民皆中流という日本と同じように開発は進められていた。在日国連からは内政関与だとする批判もあるが、それは少数意見であった。少なくとも、域内の交通網に関しては、ラーシア大陸東部のロシアと遜色ない、あるいはそれ以上に発展していたといえるだろう。
ちなみに、名前の出たロシアであるが、移転前よりもインフラ整備は進んでいたが、いまひとつ発展し切れていないといえただろう。これは日本が意図的に介入を控えていたためであった。とはいっても、華南域国や朝鮮半島と同程度には介入していたとされる。つまり、シナーイ大陸北西部への介入はロシアにとって難しいといえた。理由は造船業が発達しておらず(日本の意図がここに表れているといえた)、自前での交易が不可能であったことにある。
ロシア自体は移転前よりも温暖ではあるが、日本や他の移民国家に比較すれば、寒冷であり、食料自給が難しいという理由もあった。交易はどうしてみ華南域や稜線半島からの食料輸入に頼らざるを得ないからである。国内で産出される石油を輸出し、それに対して等価分の食料を得ていうるという状態であった。そして、石油を輸出できる地域は限られていたという。なぜなら、ウェーダンやキリールでは石油が産出するから外国製の石油は必要とされないし、日本や南の移民国家は中東からの輸入で十分事足りているから、さして品質が良いとはいえないロシア産石油を購入しようとはしなかったからである。