新大陸
新世紀一六年九月になって、ロンデリア王国首都ランデンに日本側大使館が、東京特別区にロンデリア王国大使館が設置されたころ、北米大陸で事件が発生することとなった。このとき、北米にはアメリカ合衆国が入植していたが、ロンデリア王国からの移民、その多くは彼らの世界でのアメリカ連合共和国からの滞在者、が上陸し、接触したのである。
つまり、移転前には北米大陸に祖国を持っていた国家がこの世界の北米大陸で接触したということになる。むろん、双方ともにお互いの情報は得ており、ともに白人、アングロ系であったため、武力衝突には至らなかった。しかし、その思想には若干の相違があった。また、規模的に見ても、アメリカ合衆国側は一〇万人弱、対してアメリカ連合共和国側は五○万人であり、その差は歴然としていた。結局、住み分けという形で共同での開発に向かうこととなった。とはいえ、双方に若干の不満を残していたのは事実であった。
そして、グアムの米軍も一部がパナマ海峡を通過して北大西洋へと向かうこととなった。むろん、米軍の根拠地はグアムであり、政府もグアムに置かれていたが、北米中央部は自己の領土として認識しており、国連もそれを認めていた。そこに、異世界から出現した同じ民族が上陸してきたのである。内心穏やかではいられなかっただろう。とはいえ、先に入植していたアメリカ合衆国側は人手不足もあり、それほど開拓が進んでいなかったという状況であり、新たな入植者との共同開拓はある意味で救いの神と言えたかもしれない。
日本にしても南米に出現したイスパイア帝国の膨張に対する備えとして、北米の開発は急務と考えてもいた。しかし、開拓民の規模が少ない上に自らの領土の防衛を第一に考えなければならず、人的支援は不可能であったといえる。なにしろ、中東に出現するイスパイア船籍のタンカーや貨物船がある以上、そちらに傾注しなければならなかったからである。
また、別の意味で日本は北米に注目せざるをえないといえた。異なる二つの世界から現れた住民たちが、同じ土壌で共同開拓できるかどうか、ということもあった。ただし、主義的には若干の相違が確認されており、人種差別の格差が大きいといえた。有色人種、特に、黒人に対する差別意識はかなり強いと感じられた、とは瑞穂国人および接触した日本国外交官の弁であった。要するに、史実の南北戦争で南軍が勝利した国家だといえた。
日本としては、南米のイスパイア帝国に対する備えとして、それなりに武力を持つ地域であってほしかったということで、アメリカ連合国であろうが、アメリカ合衆国であろうが、友好国であればそれでよかったといえる。むろん、兵器などの支援は行うつもりであった。このあたりが国連との考え方の相違点であったといえるだろう。国連としては、国連の主導で世界を管理していくことを望んでいたのかもしれない。それがよく現れているのが、ロンデリア王国やプロリア帝国に対する国連の対応にあったといえる。
つまり、異なる世界からの移転国の主導で世界が管理されるのを嫌がっていた、というのがその根底にあったといえる。彼らはこの世界で出会った移転国家とは相容れない部分を感じ取っていたといえるだろう。そのあたりに移転前に世界を管理していた国際連合常任理事国の驕りがあったのかもしれない。少なくとも、日本にとっては出自はどうであれ、平和的に国家を運営できれば良かったわけで、それ以外の何も望んでいなかったといえるだろう。ようやく安定し始めた世界秩序を壊されたくなかった、その一点だけであったといえる。
イスパイア帝国やプロリア帝国にはその世界秩序を破壊するかもしれない何かを感じていたのは日本も国連も同じであったが、ロンデリア王国にはそのような何かを感じていなかったし、アメリカ連合にもそれはいえた。もっとも、その主義、有色人種に対する差別意識は強く感じてはいたが、それは何もこの世界でだけではなかった。程度の差こそあれ、移転前にもそれはあったからである。少なくとも、幾つかの問題は対話によって解決が可能だと考えており、それが不可能か難しいと考えていたのが上記二国であったといえるだろう。
とはいうものの、現状では南米大陸を北進するイスパイア帝国に対する備えが第一であり、多少の問題には目をつぶっても、侵攻してくるかの国を撃退できるだけの地域である必要があった。そのためには、民間人主体であるアメリカ連合国側よりも、軍人主体であったアメリカ合衆国側に梃入れせざるをえないというのが正直なところであったといえる。そんなわけで、日本はアメリカ合衆国側の入植地である北部にその支援を集中し、工場建設など推し進めていくこととなったのである。
そうはいっても、施設が出来上がってそこで働く人間がいなければ、何もならないことは誰にでも判ることであり、その点、民間人主体のアメリカ連合国側にはその労働力が多く存在すると考えられていた。それを両国に主張していくのが日本の役目であったといえるだろう。つまり、好む好まざるとに関わらず、日本がその間に入らなければならなかったといえる。そうして、これをうまくこなさなければ、何年か先には確実にイスパイア帝国に侵略される可能性があったのである。
そして、ようやく、という形で完成したばかりの「エンタープライズ」型原子力航空母艦一番艦『エンタープライズ』が横須賀から太平洋側のサンフランシスコに回航されたのがこの年三月のことである。トルトイで採取されたウラン鉱石を精製、あるいは再処理化できる瑠都瑠伊の精製所が完成して三年、日本で原子力動力機関がやっと完成したため、米国が発注した二隻のうちの一隻であった。もっとも、習熟訓練が始まって一年を経ていないため、未だ戦力化の途中であった。
米国としては、大西洋側のノーフォークに回航したいと考えていたのかもしれないが、パナマ海峡を通過するにはイスパイア帝国と接触する可能性があり、インド洋経由ではさらに接触する可能性が高かったため、サンフランシスコへの回航となった。もっとも、二番艦『ホーネット』はラーシア海と地中海経由で北大西洋からノーフォークに回航される予定であった。もっとも、サンフランシスコもノーフォークもそれほど開発がなされているわけではなく、何とか沖泊が可能だという程度であった。だからこそ、現在は日本、アメリカ合衆国、ロンデリア、アメリカ連合共和国の四ヶ国共同で両港とも開発が進められている。
サンフランシスコは日米が、ノーフォークはロンデリアとアメリカ連合国が中心になって開発が進められている。もちろん、港湾施設だけではなく、周辺の開発も同時に進められているが、こちらは港湾設備以上に進んでいたといえるだろう。ただし、いずれにおいても軍事施設とはほど遠いものであったとされている。特に、ノーフォークではそれは著しかったといえる。彼ら両国とも、イスパイア帝国とは接触してはいたものの、それほど危機感を抱いてはいなかったからであろうと思われた。
その理由は彼らが未だにイスパイア帝国の現状を理解していないということにあると思われた。むろん、日本側からそれとなく知らされてはいたが、彼ら自身の目でそれを確認していないことにあるといえた。この当時、イスパイア帝国は南米大陸の南一/三を完全占領し、さらに北進していたのである。元からの原住民は悲惨な目にあい、まるで虫けらのようにその命を落としていったとされる。
彼らの進撃速度が鈍っていたのは原住民の抵抗が激しかったわけではなく、単に、地形的なものであった。南米大陸は移転前と同じような地形をしていたが、中央部で東西に四〇〇〇m級の山脈が走っていたためである。衛星情報によれば、彼らは着々と侵攻準備を進めていると考えられていた。その証拠に、それまで港から動くことのなかった軍艦が動き出しており、それまで飛行することのなかった航空機が多く飛行していることが確認されていたのである。