ロンデリア王国
プロリアで反乱が発生したほぼ同じころ、紅海と地中海の交差する海域で漂流する軍艦、おそらくは駆逐艦と思われる五〇〇〇トン級の艦艇、と遭遇したのである。艦尾には国旗と思われる旗が掲揚されていたが、それはこれまで見たことのないものであった。遭遇したのは瑠都瑠伊方面軍海上保安隊所属の巡視船であった。相手が軍艦であったことから、船長は保安本部に連絡、駆逐艦および哨戒機の派遣を要請した上で、二〇〇〇mまで接近し、発光信号による対話を試みている。軍艦の艦橋に人影が多数確認されたからである。幸いにして、発光信号による対話は成功する。対話を終えたころには上空に二機の対潜哨戒機が飛来、周辺海域の哨戒についている。
それによれば、かの軍艦はロンデリア王国海軍地中海艦隊所属の駆逐艦『シンドラー』であると名乗っている。現状、機関の故障および燃料不足により、自力航行が不可能であること、食料が不足していることが判った。むろん、こちら側も名乗っており、平和的な接触が行われることになった。そうして、双方がほぼ現状を理解し終えたころ、瑠都瑠伊方面軍所属の駆逐艦『たかなみ』および『おおなみ』が到着、本格的な対話に入ることとなった。不幸にして、無線通信が不可能であり、その後も発光信号により、『たかなみ』は自艦への来艦を要請し、それが不可能であれば、そちらに乗艦を求めた。対して、『シンドラー』は艦長を含めて三名が向かうとしてきた。
双方ともに、艦後部にヘリコプターを搭載していたが、無線通信が不可能なこととシステムが異なる可能性から、今回は艦搭載の小発(『シンドラー』は搭載艇をそう呼んだ)を利用することとされた。来艦した三人はいずれも白人であり、軍装は英国海軍のそれに似ていた。双方とも艦長は中佐であり、内心はともかくとして、表面上は平和的に会談は進められた。
彼らによれば、ジブラルタル海峡を超え、彼らの世界では自らの領土であったセウタに向かったところ、そこは彼らの知る場所ではなく、開発すらされていなかったこと、さらにマルタ島まで赴いたところ、機関故障により、僚艦と逸れたこと、無線機故障による連絡が不可能なことで漂流してしまったという。そうして彼らは無線機の修理および機関の修理、食料の提供を求めた。日本側はそれを受け入れ、修理のため、瑠都瑠伊への曳航を了承させることに成功していた。
彼らの態度は接触したのが有色人種ということで、若干の尊大さをもって日本人に接していたが、瑠素路軍港に到着してからはその態度は改められていたといえる。まず彼らが目にしたのは、基準排水量で六万トンを優に超える「しょうかく」型航空母艦と大型駆逐艦(イージス駆逐艦)、『シンドラー』と同クラスの駆逐艦が係留されていたからである。さらに、本国には四隻(うち、一隻は米海軍用であった)の航空母艦が存在すると聞いたからであろう。
彼らが驚いたのは、航空母艦の存在だけではなく、搭載されている航空機にあり、それらすべてが緊急展開可能(これは今村のハッタリであり、彼は格下にみられては後が面倒だと判断していた)だと聞かされたからであろう。後に判明したところ、彼らも航空母艦は四隻有していたが、それは基準排水量四万トン、航空機搭載数で半分であり、戦闘力としてみた場合、一対二で同等と判断したからである。むろん、そのほかにも要因はあったと思われるが、彼らは多くを語ることはなかったという。
ロンデリア王国とは聞きなれない国であるが、対応した海軍軍人の誰もが、既視感を覚えたという。それは日本海軍が建軍当初から手本としていた英国海軍に似ていたこともあったと考えられる。実際、彼らの話を聞くと、まるで英国そのものと思われるからであり、艦艇の修理にかかると、細かなところは別として、ガスタービン機関搭載、マイクロ波レーダーなど、移転前の一九八〇年代後半から九〇年代前半の技術と同様のものであることが判明する。電装関係もLSIは使われてはいなかったが、ICは使われていたからである。
そして彼らの本国は北欧、移転前でいえば、スカンディナヴィア半島、のほぼ全域であるといい、移転前の世界では太平洋や大西洋、インド洋に広大な植民地を有していたという。彼らの世界では、日本という国は存在しないが、日本列島は存在し、瑞穂皇国と名乗っていたらしい。そして、彼らの本国にはその大使館があり、一〇万人ほどの滞在者もいるということであった。これらの情報はすぐに日本本国に通達され、遠くないうちに指示がなされると思われた。
日本にとっては、移転後初めての先進国とも言える国家と平和的に接触したことになる。この先については、これからの対話次第であろうが、少なくとも、それほど技術格差のない文明国と接触できたことは日本には喜ばしいことであろう、そう思われたのである。少なくとも、瑠都瑠伊では歓迎されていたといえるだろう。さらにいえば、当地には、幾人かの英国人が滞在しており、意見を求めたところ、細かな点では違いがあるものの、英国とほぼ同様の国家であると断言してもいた。むろん、所属する世界が異なっていたわけで、両国の関係はこれからが正念場になるといえた。
その後、知事の佐藤とロンデリア王国外務大臣との対談を経て、両国の外務大臣による会談、国連代表団との会談へと進み、翌年一月には日本および米国、英連邦国、ブラジル、フィリピン、インドネシアとの国交が開かれ、通商条約が締結されることとなった。なぜ、日英米だけでないかといえば、紅茶やコーヒー、香辛料、各種熱帯性果実類などといった農産物の影響があった。移転前の彼らは植民地から入手していたものの、この世界ではそれらすべてが入手できなくなっていたからであった。交易によって入手するしかなかったのである。
ちなみに、瑞穂皇国からの移転者とも対談しているが、彼らはたしかに大和民族であったが、双方ともに微妙な相違が感じられ、帰国には至らなかったとされる。結果、マルタ島(この世界では無人島であった)に移住することが決定され、瑠都瑠伊からの支援で瑞穂国が建国されるに至った。最初の移住者は約一〇万人(ここにはロンデリア人も含まれる)であった。ロンデリア側にしても、瑠都瑠伊やセーザンへの中継地として重要な位置にあるマルタ島は自国の勢力圏に置くことが重要とされ、開発が進められることとなったのである。
こうして、北欧の先進国たるロンデリア王国とは表面的には平和的な関係を築くことになった。ロンデリアとしても、東のプロリア帝国、南大西洋のイスパイア帝国の存在があるうえ、国内産業復興に必要な石油の入手を円滑にするためであろうと思われた。ちなみに、同国は人口一億○六〇〇万人、常備軍八〇万人、立憲君主制議会民主国家であり、現国王はリチャード九世であった。
もっとも、日本は彼らを見誤っていたことを後に知ることとなるのであるが、この時点では誰もそれを知ることはなかった。つまり、彼らの多くは白人至上主義者であり、それが最大の原因であろうと思われた。アメリカや英国と接触するも、米英は彼らの本質を日本よりも早く知ることとなり、ある一定の距離を置くようになっていったといわれる。覇権国家は覇権国家を知るということだったのかもしれない。
とにかく、日本やその周辺諸国にとってはそれなりに技術的に発展している国との接触、これがその後の政策に影響を与えることとなったといえる。対して、先に接触しているイスパイア帝国の場合、日本との接触後、周辺諸国が接触するか判断している間に、全体主義国家であり、軍事国家であることが判明、多くの国が接触を拒否している。そういうわけで、イスパイア帝国側に知られている国は日米英の三国だけであり、米英もその後はセーザンでの接触も避けるようになっていた。
日本としても、中東の瑠都瑠伊での警戒態勢を取り、太平洋でも警戒体制を強め、日米共同で哨戒線を形成していた。もっとも、イスパイア帝国は太平洋よりも大西洋およびインド洋への進出が目立ち、太平洋への進出はそれほど頻繁には行われていないようであった。ロンデリア王国と異なり、周辺各国が警戒感を強めていた。むろん、表面的にはそうであっても、裏で接触している可能性も考えられたが、セーザン方面ではそれは確認されておらず、太平洋側でも、日米の哨戒線にかかってはいないため、現在のところはないと判断されていた。
ともあれ、ロンデリア王国のタンカーや貨物船は瑠都瑠伊あるいはセーザンを経てインド洋や太平洋に向かうことが多くなっており、それらの港でイスパイア帝国側と接触しているため、彼らから日本および周辺各国のことが知られることが懸念されていた。もちろん、事前にイスパイア帝国のことは伝えられていたが、ロンデリア王国側がどう判断するかはまた別であった。
つまり、イスパイア帝国に対する日本の判断とロンデリア王国のイスパイア帝国に対する考え方の相違が問題であったといえる。いずれにしても、それぞれに対する対応策を講じなければならないのが瑠都瑠伊であり、日本であったといえるだろう。仮に全面戦争となった場合、日本の戦力は少なすぎると考えられていたからである。それは米軍の協力を得たとしても、である。イスパイア帝国およびロンデリア王国ともにそれほどの軍事力を有していることが確認されていたのである。ただひとつ、救いがあるといえるのは、両国とも、燃料油たる石油はセーザンおよびセラージからの輸入に頼っている、その一点にあるといえた。