プロリア内戦
シナーイ中央での新国家建国がなされた新世紀一六年三月、中東方面でふたつの事件が発生していた。ひとつはプロリアにおける紛争発生であり、地中海における新たな勢力との接触であった。いずれも、日本本国よりも瑠都瑠伊に与えた衝撃は大きいといえた。
プロリアでのそれは、かって閣僚として名を連ねていた幾人かとそれを支持する軍と政府軍との紛争であった。瑠都瑠伊方面軍は当初は動くことはなかったが、反乱軍が首都に迫り、滞在していた領事官に危機がおよぶと、介入せざるを得なかった。さらに、反乱軍の狙いは皇帝の拉致にあったのか、王族一家が狙われると、それにも介入せざるを得なかった。C-130<ハーキュリーズ>三機で二個中隊を派遣、王族と邦人の保護に当たらせ、ロデサに急派した一個大隊に同地の確保と防衛に当たらせたのである。
このまま反乱軍がプロリアを支配下に置くかと思われたとき、東方に配置されていた軍がプロリアの崩壊を防ぐこととなった。ミハエル・トゥルスキー大将が率いるプロリア帝国東方軍が急を知り、首都に戻ってきたのである。トゥルスキー大将は崩壊していた軍の指揮系統を掌握しながら、当面は防衛戦に徹していたが、新たな指揮系統を構築すると反撃に打って出た。そうして、グルシャ海沿岸部の工業地帯を確保すると、反乱軍を北に追いやることに成功した。
その後半年間で武器弾薬の供給を絶たれた反乱軍を撃破し、反乱の首謀者であるヨフス・ストーレンを捕らえ、プロリア全土を平定することに成功している。ストーレンは処刑され、反乱の芽は摘み取られたかに思える。その時点で、佐藤は日本の政治体制を直接王に伝え、政治改革を提案することとなる。むろん、これは内政干渉ともいえるが、国の安定のためには必要であることを伝えるだけに留めている。だからこそ、改革はなされることはなかったが、皇帝はより民衆側にたった政治を行うこととなる。
武勲をあげたトゥルスキー大将は元帥に昇進し、以後は首都にあってプロリア軍全軍を指揮することとなった。しかし、瑠都瑠伊での留学期間を終えて帰国した軍人や官僚により、同国の政治体制は大幅に改革されることとなる。これまで国政に対して蚊帳の外だった国民に参政権が与えられ、それまでとは異なり、より民主化がなされることとなった。少なくとも、第二次世界大戦前の日本と同様にまで改革されることとなったのである。とはいえ、その民族性ゆえに、移転前のロシアと同じ政策を取ることが多かったため、日本本国や瑠都瑠伊では以後も警戒態勢がとられ続けることとなる。
プロリアの工業力は、第二次世界大戦前の日本と同程度であり、純粋に軍事力の面から見れば、瑠都瑠伊方面軍の敵ではないが、人海戦術のように力押しでこられれば、それも大幅に縮まることとなる。プロリアはそれほど人口が多かったのである。未だウラルよりも東には到達していないものの、この時点で二億人、五○〇万人もの兵力の動員が可能であったからである。もっとも、海を渡る能力はそれほど高くなく、ラーシア大陸に軍を展開しない限り、日本あるいは瑠都瑠伊との軍事衝突は発生しないものと思われている。
結局、瑠都瑠伊側には、プロリア帝国が陸軍国家であることを強く印象付けることとなった。そうして、日本および周辺各国は船舶の最新技術をプロリア帝国に提供することを拒むこととなったため、瑠都瑠伊ではあえて技術提供を行っていない。もっとも、技術的情報があったとしても、現在のプロリア帝国の工業力では建造は不可能であり、工業機械の輸出がなければ、建造する心配はないといえた。また、仮に工業機械を輸出したとしても、一年や二年で建造できるものではないと思われてもいた。
仮に瑠都瑠伊での技術が反映され、船舶建造がなされることになっても、それまでは相応の時間が必要であろう、そう判断されていたのである。瑠都瑠伊での技術とは日本の最先端技術に近く、それと同じものを製造あるは建造するにはそれなりの技術力と工業力が必要であるからだった。実際のところ、早くから日本が介入していた、シナーイ大陸北西部でそれを成し遂げている国は未だ存在していないことがそれを証明しているといえた。
とにかく、プロリアでの革命騒ぎにより、同国内は荒廃し、対外に目を向けられるようになるまではいま少しの時間を要するだろう、というのが大方の意見であった。トゥルスキー元帥が東に配置されていたように、東に目を向けていたプロリアがウラル山脈を越えることをできるだけ先に引き伸ばすこと、それが東部のロシア開拓民との問題を起こさせないための最良の方法であろうと思われた。この時点ではまだウラル山脈の東にプロリア帝国の勢力は及んでいなかったといえた。
ちなみに、この当時、ロシア開拓団はレナ川東岸までに達していたが、それは標識を立てた、というだけに留まっていた。むろん、ロシア開拓団としたら、最終的には欧州まで向かいたい、そう考えていたはずである。だからこそ、プロリア帝国の存在が明らかになったとき、日本軍による占領、を打診してきてもいた。日本側としてはとうてい受け入れられるものではなく、拒否している。そして、この話しはロシア側から国連に提出され、欧州北部はロシアによって管理されるべきであり、国連軍をもって占領されるべきだ、としたが、各国ともそれを拒否している。
日本としても、表面上はともかく、裏ではラーシア大陸での問題には関与したくない、そう考えていた。しかし、ロシアに対する支援を約束した以上、できるだけ問題は起こしてほしくないわけで、それが、当面はプロリア帝国をウラル山脈以西に引き付けておき、その後はロシアとプロリアとの問題であるとしたい、そう考えていたと思われる。ちなみに、日本の基本的な考えでは、レナ川とバイカル湖を境にした住み分けを考えていたことが後に判明する。
少なくとも、日本にとっては形はどうであれ、ラーシア大陸の安定が望ましく、それがロシアであろうがプロリア帝国であろうがかまわなかった。ただし、争いが長く続くようなことだけは避けたいと考えていた。仮に、そうなった場合のロシアへの加勢は国連の判断に従うつもりであったようだ。これは、ロシアの国連での立場が明確になっていたことによる。多くの国は日本にロシアにそれほど支援の必要性を感じていないと思われる態度を取っていた。
しかし、ここにきて事情が変わりつつあった。まず、今回のクーデター未遂以前のプロリア帝国が明確な膨張政策を取っていなかったこと、クーデター鎮圧後、より南(ここでは瑠都瑠伊をさす)への指向が強まったこと、武力膨張政策を取るイスパイア帝国の出現がそれであった。今村としては、武装衝突する可能性はプロリアよりもイスパイアのほうが高いと思われたため、プロリアとの衝突は避けるべきである、と佐藤に進言していたし、佐藤もそれを感じていた。
現状では、イスパイア帝国にとって必要な石油の入手が可能なのは中東であり、その購入量は並大抵のものではなかったからである。一万トンタンカーが一度に五隻、それも二週間おきに現れるのである。そして、観測衛星によれば、国内での軍備が進んでいるように思え、それは潜水艦での電波傍受にも表れるようになっていたのである。日本や国連では近いうちに侵攻作戦を行う準備ではないか、そう考えるものも多くいたのである。特に米国は強く感じているようで、ここ一〇年でまれに見る軍事演習を太平洋で展開していた。
とにかく、中東で戦争が発生する可能性が高いことから、イスパイア帝国以外の勢力とは極力争いを避けなければならないと考えられており、それがプロリアに対する対応を微妙に変化させていたといえる。技術的には劣っていても、数でこられれば対応が難しいため、プロリアを懐柔する方向に向かっていたといえるだろう。それがロシア開拓団への対応をも微妙に変化させていたといえる。
シナーイ帝国およびプロリア帝国両国の内戦発生の原因は元を正せば、日本との接触(シナーイ帝国の場合は中華民国との接触が大きいとされる)による影響が現れたものと思われた。日本と接触していなければ、両国ともそれまでの状態が続いていた可能性が高いといわれる。結局のところ、移転前でもそうであったように、自らよりも進んだ勢力が現れることにより、何らかの事件が発生するものと考えられた。たとえば、日本を例にすれば、江戸末期の黒船来航が明治維新に繋がった、そういうことであった。