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シナーイ内戦

 その情報が最初に入ってきたのは中華民国でもなく、ましてや、朝鮮民国でもなかった。それはウェーダンの東端にあるリャトウ半島のリョウジュンにある大陸東部方面軍司令部であった。先に述べたように、ここは中華民国や朝鮮半島を視野に入れた日本軍基地であり、海軍はヘリコプター搭載護衛艦(今ではヘリ空母と称される)一隻、イージス駆逐艦一隻、駆逐艦六隻、空軍は一個飛行団、陸軍は一個師団が駐留していた。


 そこに入った情報、シナーイ帝国において内戦勃発、が司令部を慌しくしていた。これは、リャトウ半島の大陸東部方面軍司令部が送り込んだ諜報員によるものであった。彼の地では、新世紀一三年ごろから、シナーイ帝国のファウロ湾沿岸の住民が帆船でウェーダン領やリャトウ半島に漂着することが多くなっていた。当初は軍の侵攻かと思われたが、そのすべてがやつれ、薄汚れた衣装をまとっただけの住民であった。当然、強制送還を考えられたが、送還してもまた発生する可能性が高かった。結局、司令部の参謀の一人がっ情報収集に使えないか、としてそれなりの情報を得た場合のみ、本人および家族の居住を認める、としたことで多数の漂着民が情報を得るため、再びシナーイ帝国内に戻っていったのである。むろん、難民の発生は国民に公表されていたが、諜報員うんぬんは政府内の限定された公表とされ、極秘事項であったといわれる。


 情報収集が逆に情報を漏らされる可能性もあったが、少なくとも全員でないと考えられていた。すべてが妻帯者であり、子供もいる家族だったからであり、その家族を置いていくことが条件だったからである。こうして、二五人が単独であるいは複数人で行動していた。その情報が寄せられたのは、漂着民の中でもっとも若いリャンタンという男であり、年齢は三二歳で妻と子供一人を置いて華南域に向かっており、そこで反乱軍と接触したと報告してきたのである。連絡は伝書鳩によるものであった。彼の向かったのは、華南域の大河の北、中華民国が開拓している地域の反対側にあたる。


 似たようなことはファウロスの南、ファウロ河を挟んだ反対側でも確認されていたが、こちらは軍が常駐しているため、すぐに鎮圧されていたといえる。いくら二km以上離れているとはいえ、ファウロス空港を離発着する航空機は見えており、さらに、リャトウ半島に次々と完成する高層ビル群を目にしており、一万トンから一〇万トンクラスの貨物船が航行するのを見ていれば、何らかの行動を起こしてしかるべきであった。


 華南域でも河口部で五km、上流でも三km離れているリョウス江に分断されているとはいえ、リャトウと同じような状況が見られていては、軍人ではない一般住民の間に何らかの行動が起こることは予想できていたといえるだろう。もっとも、調査するとそう単純なものでないことが判ってきた。そして、中華民国の人間がそれに関与していたことがわかってきたのである。むろん、日本にしても国連にしても、シナーイ側との接触は禁じていた。


 判明したのはこういうことであった。一五年前、一家族の乗ったジャンク船が河口近くの開拓民居住地に流れ着き、それを助けたことが直接の原因であったようだ。その家族は、夫婦と二人の男の子と一人の女の子の五人であり、漂着したときには瀕死の状態であったという。助けた開拓民は五〇歳を超えており、一番小さい女の子を自分たちに養子として差し出すなら、匿ってやろう、といったようである。夫婦は同意したため、彼らにはそうしなければ家族全員が死ぬしかないことを知っていた、ことから開拓民としてシナーイよりも優れた技術に触れることとなった。


 一〇年が過ぎたとき、病気で妻を亡くした夫、二〇歳になった長男が助けてくれた夫婦、今では六〇を超えていた、にシナーイに戻って革命を起こしたいと訴える。むろん、老夫婦は反対した。このまま自分たちの息子、孫として暮らすよう説得した。しかし、二人は何とか自分たちを向こうに返してほしい、そして、一八になった次男、養子に出した一五歳の娘を置いていくから老夫婦の生活は守られると訴えた。結局、話し合いは物別れに終わったが、数日後、二人の姿は忽然と消えていた。その後、四人は必死になって二人を探したが、行方はようとして知れなかった。


 そして、三年、華南域の対岸全域を巻き込んだ革命闘争が発生し、二年後には革命政府および軍が成立していたという。ちなみに、その男はシナーイ中央でも有能な官吏であり、将来を嘱望されていたが、ファウロスへの侵攻に反対したことで左遷、地方官吏に落ちぶれていたという。それは老夫婦に当てた手紙の中で語られていたという。彼の日記にはそれらのことが克明に記載されていたようである。その最後の日記には、シナーイを中華民国のように、と記されていたという。


 そうして、日本や国連は関与を禁止したが、中華民国は独自の行動を取ることとなった。それなりに工業力も発展していたことから、武器弾薬を製造し、供給を始めたのである。むろん、それだけではなく、農業技術をも輸出し、食料の自給率を上げることさえやってのけた。見返りは各種資源であり、その中には鉄鉱石や石炭、硝石などが含まれていた。その根底にあったのは中華思想であったのかもしれない。少なくとも、シナーイ大陸は移転前の中国大陸に似ており、大陸統一という、日本や国連からすれば、ありがたくない思想であった。


 リャンタンから得た情報、中華民国の独自行動により、内戦は激化をたどることとなる。帝国政府に虐げられていた住民の多くは革命政府、シナーイ民国と名乗っていた、に合流し、大陸での勢いは革命政府に傾いていた。国連はともかくとして、日本政府は民主化された政府により安定するならいいのではないか、そう考えていたようである。ただし、内戦が長く続くことなく、早期の安定がなされるなら、という条件付きであり、それ以外での決着には賛成できないとしていた。日本としては、第二次世界大戦後の中国大陸内戦のようになることを恐れていたのかもしれない。さらに、ウェーダン、ひいてはリャトウに難民が流入する、そういう事態をもっとも恐れていたのかもしれない。


 既に日本による支援は終えており、制裁を行うにしても、海上封鎖であり、現状ではその効果も疑わしい、とのことから日本や国連は静観するしかなかった。ただ、この内戦により、第三国、ここではインデリアやイスパイア帝国を指す、の介入を防止のため、それなりに軍を移動させることとなった。人海戦術で半島やウェーダン、リャトウ、波実来などに押し寄せられては困るからである。


 とにかく、思ってもみなかった原因による戦乱発生は日本にそれなりの軍備増強をもたらすこととなった。中東だけではなく、日本の領土の至近での紛争であり、場合によっては武力での鎮圧も考慮せねばならないからである。もっとも、中東ほどではなく、逼迫した状況でないことが救いだといえた。移転前と同じく、南北に分断され、形が異なるとはいえ、シナーイの領土は十分に広いからである。


 結局、シナーイ帝国内戦はその後僅か二年で予想外の決着をみることとなった。帝国政府による悪政が住民の心を蝕んでおり、こぞって革命政府に流れたからである。実は南の革命軍蜂起後、一年を経たころ、東北部、いわゆるウェーダンのファウロ河対岸でも大規模な反乱が発生しており、瞬く間に同地域からシナーイ帝国軍を駆逐している。そして反乱軍は半島の北を南下し、移転前では黄海といわれていた地域にまで達することとなった。


 以後は西を流れる大河、リョウラン江東岸を支配下に置いた時点で侵攻を停止、それまでに確保した地域をもってシナ国建国を宣言したのである。この反乱のリーダーはかのリャンタンであった。彼は革命政府軍と接触したことで自身の身の振り方を決したようである。当然として、中華民国や朝鮮民国、国連は日本の介入を疑った。日本は介入していないことを強調していたし、実際に関与していなかったからである。この疑いが晴れるのは、シナ国総理大臣の地位に付いたリャンタンからの要請で、国連代表者が同地に入ってからであった。


 そこには日本製の武器などまったく存在しなかったからである。さらに、リャンタンは国連にシナ国を独立国として承認するよう要請し、開拓支援を要求していた。後に判明するが、これら地域にはシナーイ帝国の多くの住民とは異なる民族であり、彼の言うところによれば、父祖の地を取り返した、ということになる。同地を視察した国連代表団は、その荒廃ぶりから人道的支援を日本に要請した。


 リャンタンはリャトウ半島に漂着し、日本軍の庇護下にあった間に、現状の世界、シナーイ大陸の情勢、日本の勢力圏、周辺の勢力分布などを学び、国連の意義などの情報を得ていたようであった。それをうまく利用したのだと考えられた。当然として、この情報は部分的に、国連の存在や周辺の情勢などは彼からシナーイ民国側へと通達されていたようで、かの国もやはり加盟と支援を要請してきた。


 後年、リャンタンとショウエイ、あの消えた二人のうちの父親でシナーイ民国総理大臣、との会談で両国が互いに独立国としてその領土を承認、以後、紛争が発生することはなかった。つまり、彼らにとっては、そこは異民族の地ととの境界線だと理解されており、侵攻して支配することは考えていなかったということになる。ちなみに、ショウエイのバックについていた中華民国は占領しての統一を要求したといわれるが、ショウエイはそれを拒否、あの地域はもともとが彼らのものであって、われわれのものではない、そう言及したという。


 そして、ショウエイは中華民国に対して、これまでの支援には感謝するが、内政干渉するなら攻撃も辞さない、そう言及している。さらに、中華民国側が国内にいる彼の息子と娘に危害を加えるようなら、両国間は戦争に発展するだろう、と示唆している。ここまでいわれれば、中華民国側も引き下がらざるを得なかった。この世界は移転前とは別の世界であるということを中華民国は思い知る結果となった。シナーイ民国とシナ国との関係は良好であるが、両国と中華民国との関係は一時的に険悪となったとされる。


 とはいえ、シナーイ民国国内の情勢が安定するまではその後三年を要している。それほど領土が広く、帝国政府を滅ぼすにはそれほどの期間が必要であったということになる。ショウエイが倒れた後も、その息子であるショウランが引継いで安定を保つことに成功している。以後、隣接国のシナ国とともに、改革を推し進め、新の意味で議会民主国家となりえたのである。


 もっとも、両国ともにラーム教勢力の駆逐には成功しておらず、この時点においても対立は続けられていた。大きな戦いに至らないのは、ラーム教に対する民衆の反発があるため、政府に対する反発はそれほど多くない、ということにあった。シナーイ民国西部では長く紛争が続くこととなるが、徐々にではあるが、駆逐されていくこととなる。


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