プロリア帝国
他方、北部のプロリアとの対談はその後も進められていたが、解決の糸口はつかめないままであった。問題は王の関与しない会談であった。佐藤も今村も、これは王に対する自らの影響力を高めようとする官僚あるいは軍部の独断であることを看破していた。だからこそ、安易な妥協は行えないと考えていたのである。
このとき、もっとも頭を悩ませていたのは知事である佐藤ではなく、瑠都瑠伊方面軍司令官である今村であったかもしれない。この時点で、セラク問題は進展していたが、未だ解決しておらず、さらにセーザン沖にはイスパイア帝国の艦船が出没するようになっており、こちらも友好的な関係とはいえない状況であったからである。何しろ、戦闘艦艇も多く表れていたからである。幸いにして、太平洋方面には現れなくなっていたが、その分、インド洋に出没するようになっていたからである。
そうした中、八度目のロデサの会談で思わぬ事態が発生することとなった。二人の皇女が会談中に乱入してきたからである。結果として、これまでの詳細が王に知られることとなり、一挙に進展することとなったからである。このときは改めて会談するということで打ち切られ、翌週に改めて王族が参加しての会談が瑠素路で行われることとなった。
むろん、これは今村の策であり、会談が行われていることを王族の耳に入るよう工作していたのである。むろん、部隊を投入してのものではなく、民衆心理を付いたものであったといわれる。つまり、民衆の中にロデサで何が行われているかを知らしめたのである。当然、これらの情報が王に伝わるよう扇動していた。その結果が二人の皇女の乱入となって表れたのである。その二人にこれまでの経緯を話し、これまでのプロリア側の主張が王の判断か、そう問うたのである。
翌週に瑠素路での会談には現王の腹心ともいえる大公と皇女二人が交渉団の中にあり、それまで交渉団の中核をなしていた人物は存在しなかった。瑠都瑠伊側は一応その理由を問うている。これまでの会談でそれまでの経緯を良く知る人物がいなくなり、新たにゼロから始めなければならないからである。対して、交渉団の新責任者である件の大公は、会談の重要度が増し、今後は政府間同士のものであるとしたのである。
そうして、交渉は一挙に進むこととなったのである。国交を開くための実務者会談の開催、通商条約の締結に向けた実務者会談の開催、技術供与のための留学生の受け入れなどが決定され、次回のロデサでの調印が約束されたのである。むろん、瑠都瑠伊知事である佐藤が日本政府内閣総理大臣代理として出席することも含まれ、プロリア側は交渉団に加えて宰相の出席が約束されたのである。
翌月のロデサでの会談において、先に行われた会談に対する協定が結ばれることとなった。佐藤が驚いたことに、この通算一〇度目の会談において、現プロリア王が同席していたことであり、派遣される留学生の中に第四皇女が含まれるということであった。むろん、受け入れる留学生は年間二〇人、期間は三年から五年とされ、その多くが若手官僚であり、軍人であり、皇女とその友人が含まれることになる。さらに、留学生の身の安全の保証は瑠都瑠伊側で受け持つこととされ、プロリア側の護衛のための軍人は受け入れられないことを強く主張していた。
その協定締結を済ませた瑠都瑠伊側交渉団の帰国途上、問題が発生することとなった。佐藤らの乗る艦艇に対する所属不明部隊による攻撃であった。これは事前に予測されていたことであったが、予測以上に艦艇が多かった。その艦隊は巡洋艦主体とはいえ、総計六隻を数えたからである。対して、瑠都瑠伊側は「おおすみ」型輸送艦一隻に「こんごう」型巡洋艦二隻の計三隻のみであった。むろん、かの艦隊の艦艇はプロリア海軍艦艇と同型艦であった。
これら艦艇は事前通告もなく、また、無線でも発光信号による通達もなく、いきなり攻撃を加えてきた。むろん、迎撃はたやすいと思われたが、佐藤はあえてそうせず、部隊を可能な限りゆっくりとロデサに向かわせ、さらに、プロリア側に通達している。プロリア製艦艇による攻撃を受くが、これがプロリア海軍の我らに対する行動なのか、ということである。さらに、両国の友好関係を無にするのか、というわけである。
これに慌てたプロリア側が巡洋艦二隻と駆逐艦二隻を派遣し、洋上で合流すると、ミサイルは使用せず、艦砲のみで攻撃を加え、多数の命中弾を与えると、その後の対応を駆けつけた部隊に任せている。むろん、一二七mm砲であり、駆逐艦はともかくとして、巡洋艦を撃沈することは難しいが、佐藤としては日本軍の技術の高さを見せ付けることにあったといえた。結局、襲撃してきた艦艇はともに撃沈を免れたものの、ある程度の損害を受けていたため、駆けつけた部隊により、拿捕されることとなった。
佐藤はこの事件を利用、プロリア国内での意思が統一されていなければ、留学生の受け入れは難しいだろう、と表明する。さらに、領海内は当然として、排他的経済水域での日本製船舶の安全保障がなされない限り、両国間での交易は難しいと結んだ。対して、技術が得られなくなることを恐れたプロリア側、特に王の命令により、軍部の部分的改革が行われるまでに誘導することに成功していた。
ともあれ、こうしてプロリアとの間で一応の安定化がなされた。もちろん、将来的には問題が発生する可能性は大きかったが、それでも、その問題の発生を抑えるための下地を作る準備はできていた。そう、留学生の受け入れ、がそれである。簡単ではないが、瑠都瑠伊の、ひいては日本の情報を与えることで、かの国の内政改革を図ることがその中に入っていたのである。当然として、彼らに与えられる情報は制限されるであろうし、偏ったものになる可能性があった。それをどう判断するかは留学生、あるいはかの国の判断になるだろう。
ちなみに、件の艦艇部隊は佐藤の予想通り、軍部あるいは閣僚の一部によるものであり、その目的は瑠都瑠伊との交易で得られる富の独占であったとされている。少なくとも、国家転覆を狙ったものではなく、自らの私腹を肥やすためのものであったと報告されている。その情報の信憑性はともかくとして、表面上は解決されたことになる。
両国間で国交が成立したのはこの年、一二月のことであり、事前に連絡事務所として開設していた事務所がお互いの大使館として機能するようになったのも一二月からであった。ちなみに、プロリアの首都キルフはロデサの北西三〇〇kmにあり、王宮もその地にあった。そして、大使館もキルフに置かれることとされたのである。ちなみにプロリア側の大使館は瑠素路に置かれることとされた。
本国の期待する結末とは若干異なるものの、プロリア問題の解決により、佐藤は責任をとらされることなく、これまでどおりに知事の地位にあった。知事と呼ばれている佐藤は、選挙によって選ばれる知事ではなく、外務大臣が指名した外務官僚であり、彼の上司とは外務大臣であり、内閣総理大臣であった。
また、今村も方面軍司令官の地位を追われることなく、その地位にあった。ちなみに、この瑠都瑠伊方面軍とは陸軍の方面軍とは異なり、陸海空保四軍をその指揮下に置く特殊性を持ち合わせている。つまり、その地位は本国における陸海空司令官と同列とされ、彼の上には国防大臣と総理大臣しかいないという特殊性を持つ。これはいくら衛星通信が完備されたとはいえ、本国とはあまりにも遠く、通常の軍組織では対応できない事件が発生していたこと、元はといえば、大陸調査団派遣軍がそのまま組織改変された、ということに由来する。
ちなみに、トルシャールに進出した当時から名前の出ているグルシャはどうなっていたかといえば、プロリアとの停戦により、今のところは独立を保っているようであるが、その国力は大幅に衰退していると考えられていた。というのも、未だ瑠都瑠伊とは軍であれ、民間であれ、接触していないからであり、その詳細は不明であったからである。ナトル半島に移住したグルシャ人もあえて接触しようとはしていないからであり、日本もあえて接触しようとはしていなかったこともある。