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サセ紛争

 都合七次までサージアセラン両国による戦争、第三次以外は紛争とされることが多い、は徐々にではあるが、戦場は東に移動していた。第四次戦争で両国の国境がほぼ確定し、以後はセランが侵攻し、サージアが防衛するという争いであった。そして、今回始まった第八次戦争はこれまでと趣が異なっていた。基本的には攻めるセランに対してサージアが防衛するという構図ではあったが、攻めてきたのはセラン軍ではなく、多量のセラン難民であった。


 サージア軍は攻めてくる(という言い方はおかしいが、無許可で国境を越えてきたということでの表記である)難民に対して、攻撃することがかなわず、国境線から五kmまで入り込まれることとなった。両国簡に外交チャンネルは設定されておらず、これまでは現地軍司令官による停戦という状態であった。しかし、今回はそういった状況にはいたらない、と考えられていた。なぜなら、相手は烏合の衆ともいえる難民の集団であったからだった。


 サージア政府は対応を誤り、将来に禍根を残すことを恐れ、対応を瑠都瑠伊の知事に求めた。そして、佐藤知事は瑠都瑠伊方面軍司令官である今村中将に対応策の協議を命じることとなった。今村は三つの案を佐藤に提示することとなった。両者協議の結果、乙案が選択されることとなったのである。


 ちなみに、甲案は武力で難民を領土外へ追い払うこと、丙案は武力によるセランの一地域を確保、難民を移住させることであった。採用された乙案は丙案に加えて難民の中から代表者を選び、独立を目指させるというものであった。二人が乙案を選択した理由は双方ともに一致していたといえるだろう。つまり、セラン国内にもう一つの勢力を作り上げ、それを支援し、よってサージアとセランの間に緩衝地帯を設ける、というものであった。彼らにとっては、何よりも重視すべきなのはセーザンの安全だったからである。


 サージアがセランと戦争状態になるということは、セーザンの安全に影響し、瑠都瑠伊方面軍から軍を割く必要があり、これにはどうしても費用がかさむこととなる。それを避けるための最良の策であろうとしたからである。甲案では根本的な問題解決にはならず、丙案ではサージアの安定に影響が出ることが考えられたからであろうと思われた。そうして、瑠都瑠伊方面軍司令官である今村が自らサージアへと赴き、この作戦を進めることを政府および軍上層部に伝えることとなった。彼らにとっては、今村は建国の英雄であり、その影響力は計り知れなかったからである。


 というのも、現サージア軍最高司令官は今村の元で教育を受け、かつ、第三次戦争ではずば抜けた戦功を上げ、軍最高司令官の地位に付いていたのである。また、彼の部下にはかっての第一特殊連隊からの教育を受けたものが多数存在し、現在のサージア軍を支えていたといえるのである。さらにいえば、現大統領も軍からの転出者であり、同様に今村および沢木の影響を強く受けている人物であった。


 こうして、サージアセラン国境安定化作戦、瑠都瑠伊方面軍司令部では単にSA作戦と称される、が実施されたのである。むろん、最初からセラン領に侵攻することはなく、まずは難民の調査から始められた。とはいえ、ことはそう簡単ではなかった。サージア領に侵入した難民は都合二○万人にも達していたからである。そして、この調査はサージア軍が行うのではなく、瑠都瑠伊方面軍が行う必要があった。なぜなら、サージア軍の調査では本当の身分を語ることはないだろう、そう思われたからである。


 しかし、意外にもことは二週間ほどで決着することとなった。セーザン近郊に侵入していた難民の中にセラン南部の州、シャレン州の元長官がいたのである。彼は中央とは距離を置いて統治していたが、中央によるシャレン州からの徴兵に反対したため、罷免されていたのである。そして、中央から追われていた彼は難民に窶してサージアへと逃亡を果たしていたのである。さらに、彼の下には第三次戦争で一個軍を率いていた軍人も幾人か集結していた。


 今村はセーザンに飛び、彼、アブラハム・フセールに接触、会談することとなった。そうして、日本軍の支援のもとでシャレン州を制圧、セランから独立を目指すよう持ちかけたのである。むろん、瑠都瑠伊やサージアの真の狙いは口にすることはなかったが、サージア南部と同様の発展を約束したことで彼を立ち上がらせることに成功する。そして、武器弾薬の援助を行うことも含めて武装蜂起を決心させたのである。


 当然として、今村や佐藤にもセラン南部を選んだ理由があった。セーザンに近い(といっても二〇〇〇kmは離れていた)セラン南部であるから、同じように石油が産出すると考えられる。シャレンが確保され、安定すれば、今以上に原油の供給が可能となり、今回の作戦に有する費用が回収できるからであった。さらに、セランが彼の勢力下において統治されるようなら、その影響力を駆使することで、セーザンやサージアの安全が約束されるからであった。


 難民の多くが若年者や高齢者であることで、武装蜂起軍の戦力が少ないことが最大の問題とされたが、フセールにはひとつの考えがあるという。つまり、武装蜂起したことが知られれば、南部や北西部出身で中央軍に所属している若者が戻るだろう、というのである。むろん、日本側としてはそこまで関与するつもりもなく、シャレン州を制圧するだけの軍勢が確保できるかが問題であった。しかし、北部において侵入した難民の中からも募れば、二万ほどの軍が編成可能であり、当面はそれに瑠都瑠伊方面軍から一個連隊を加えるだけで十分であるとされた。


 彼ら、セラン解放軍は僅か一ヶ月で目的であるシャレン州を制圧、その支配下に置くこととなった。そこに、サージア領内に侵入した難民を強制的に移動させることで、サージア側の問題は解決することとなった。ここまで早く達成できたのには人口過疎地域ということもあるが、もともとはセラン中央に反発していた地域であるということも影響していたといえる。そうして、この年一一月末には、ペルシャ湾沿岸部までその支配域を広げ、ほぼセランの半分を勢力下におくことに成功していた。


 軍勢は当初は二万人ほどであったが、フセールの言うとおり、武装蜂起後は各地から軍民多数が合流し、最終的には一〇万人に達し、そのいずれもが日本製、というよりは瑠都瑠伊製の装備を有し、セラン中央軍を圧倒することとなった。さらに支配域を広げようとするフセールに対して、今村は当面は防衛線に徹し、域内整備を進めるべきだとした。そして、これが受け入れられなければ、現在派遣している一個連隊を撤収させる、と宣言したのである。


 当初は勢いに乗ってセラン全域の制圧を主張していたフセールであったが、サージアのように域内を発展させるには、域内整備も重要だとする今村の主張を受け入れた。彼にとっては、今、日本から見放されれば、武器弾薬の入手が困難になり、せっかくの支配域での結束が瓦解することを恐れたのであった。なぜなら、今村の主張の中に、域内の住民に不平不満が出始めていることを知らされたからである。そうして、瑠都瑠伊だけではなく、サージアからの支援を受け入れることを決定したのである。


 この時点で、サージアに接する地域をも支配化においており、北西部からの食料輸送もあり、住民の生活を向上させることが可能であった。フセールは自らが開放した地域をセラク共和国とし、建国を宣言したのである。さらに、ペルシャ湾西沿岸のセラージを日本に開放することで、セーザン近郊からではなく、直接支援物資を受け入れられるようにしたことで開発はさらに進展すると考えられた。ちなみに、セラージは特別区とされ、日本側の権益地とし、セラク(残る地域の国名はセラン神聖帝国)の住民が入るには許可が必要とされた。この地域の防衛はセラク軍が請け負うとされた。いわば、期限無き租借地ともいえるものであった。


 セラージでも日本は資源調査の結果、内陸部で油田を発見することとなった。セーザンで建設された精製施設は建設されないものの、産油施設の建設が日本によって決定された。二年後にはセーザンほどではないにしても、それなりに発展する可能性があった。そのためには、該当域の安全が保障されなければならず、今村はフセールにそれを強く求めた。対して、彼は発電所などサージアに存在する施設の建設を要求していた。双方が合意し、今後一〇年間で実施することが決定された。


 ただし、今村が要求したが受け入れられなかったのが、セラン神聖帝国に対するものであった。今村は一〇年間の戦争停止を求めたのに対して、フセールは侵攻はしないが攻撃を受けた場合は徹底的に反撃するとしたことである。今村としては武装侵攻ではなく、浸透作戦による帝国の崩壊を画策していたのであるが、それは否定されたことにあった。今村にしても、結果として緩衝地帯が生成できれば良いのであって、それ以外には口出しを控えることとしたのである。


 ともあれ、こうして瑠都瑠伊はひとつの懸念を解決することに成功している。ラームルに対する緩衝地帯を形成することに成功したからである。ただし、これら地域への対応を誤らぬよう、細心の注意を払う必要があり、今後の対応次第によっては移転前の中東になる可能性を秘めていることが国連によって忠告されることとなった。


 当面はセーザンのように、精製所を持たない純粋に産油施設のみの建設を行うこととした。これは産油施設だけなら短期間で建設できるが、製油施設を含めれば、稼動までに一〇年近くを要してしまうと思われたからである。フセールにしても、国内整備が第一と考えるようになっていたからこそ、軍の整備と外貨獲得、国内開発に力を入れるようになったといえる。そして、腹心の部下である軍人を瑠都瑠伊に派遣し、若年者の多くを留学生として派遣していた。また、政治に関することで、瑠都瑠伊から参与を招いてもいる。ここに、フセールを含めた有識者の多くがセラン神聖帝国の統治に不満を持っていたことが伺える。


 いずれにしても、ラームルのラーム教団はこれ以降、瑠都瑠伊や日本本国との接触を絶つこととなる。理由は不明であるが、日本やその影響国に恐れをなしたためだ、そう考えるものが多勢を占めていたが、中には、雌伏のためではないか、という者もいたという。日本としても、この後、多発する異変により、ラームルやラーム教といった一勢力にかまっている暇がない、というのがその実情であったといえる。


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