暗雲湧き上がる中東
新世紀一五年九月、瑠都瑠伊方面軍司令部ではふたつの事件の対応に追われていた。ひとつはプロリア帝国に対する対応であり、いまひとつはサージア方面での軍事衝突事件に対する対応であった。瑠都瑠伊方面軍隷下の海軍艦艇は領海とされる一二海里および排他的経済水域とされる二〇〇浬で巡視船およびP-3C対潜哨戒機を定期的に貼り付け、警戒に充てていた。サージア方面には同じく、OP-3C遠距離(広域)画像情報収集機を定期的に飛ばせていた。
プロリア帝国との間には現状、戦闘は発生していないが、先の巡洋艦に対する攻撃および損傷を与えたことについてのものであり、プロリア側が強行に対応しているからであった。プロリア側は巡視船に対する攻撃は認めたものの、正当防衛を主張していた。対して、瑠都瑠伊側は公海上での先制攻撃であり、正当防衛には当らない、との主張を伝えており、両者とも平行線をたどっていた。
会談は当初はプロリア帝国のロデサで行われたが、現在では瑠都瑠伊の瑠素路でも行われ、交互に開催される。既に三回もの会談を重ねているが、双方ともに妥協点に達してしていなかった。というよりも、最初の会談でかなりのところまで話し合われたが、瑠素路での二回目の会談以降、プロリア側が態度を硬化させたとされる。原因は瑠素路の発展ぶりと空港にあったといわれる。最初の会談地であるロデサはたしかに発展していたが、未だ高層の建築物が見られず、日本の過疎地の地方都市程度であった。
プロリア側が態度を急変させたのは、あわよくば、自国もその技術を得ようとするためではないか、佐藤知事はそう読んでいた。かの国には未だ大型機は存在せず、単発機の飛行が限度であろうと思われたからである。艦船などから見て、技術的には英米の一九四五年から五〇年代前半であろうと推測されていた。だからこそ、技術獲得を目指しているのではないか、佐藤知事はそう語っていた。
もっとも、佐藤にとっての問題は、プロリアの政治体制にあったといえる。かの国は直接王政で議会はあるものの、その権力が非常に弱い、というものであったからである。つまり、王が変われば、一度は制定した問題のぶり返しがあると思われた。さらに、一連の会談は王のあずかり知らぬ、大臣級のものであると宣言されていることであり、調印は大臣の責任において行われ、責任を持って王に報告する、とされていたからであった。つまり、調印の書類には国璽が使用されない点であり、国と国の条約締結とはなりえない点、それが佐藤の態度を硬化させていたのである。
サージア方面のそれは、複雑であった。セランでの内戦を呈していたからである。当時、瑠都瑠伊にあった沢木領事官が交易に限って無武装でのセーザン入りを許可しており、限定的ながらその発展ぶりをセラン側に伝えていたこと、内陸ではサージアよりも標高の高いセランからその発展ぶりが中央に伝わっていたことが遠因であろうと思われた。セーザンには既にいくつかの高層建築物(その多くが一〇階程度)があり、夜になれば、光に満ち溢れた街が遠望できることもあっただろうと思われた。さらに、産油施設が完成してからは彼らセラン人には想像すらできない、五万トンや一〇万トンの大型タンカーや貨物船が入港していたこともあったかもしれない。
これはサージアの東方、ラームルを混乱させるため、今村が沢木に提案したもので、それが今になって表れていたといえる。もっとも、沢木にしても今村にしても、これほど早く兆候が表れるとは考えていなかったようで、提案した本人も、瑠都瑠伊方面軍司令部で困惑していた、というのが実情であり、今はその対応に追われているという状況であった。
さらにいえば、北部の境界線でも同じようなことが行われており、これがセラン中央から遠く離れた同地方をセランから分離させ、今は無政府状態にあるといえた。つまるところ、彼らも豊かさを求めていたといえ、それが中央に対する反感となって表れたと思われる。とにかく、現状はセラン西部と中央部との間に武装衝突が頻発しているという状況が続いていた。そして、それが国境線近くに民衆が集結しており、きっかけひとつでサージアに流れ込む可能性が高かった。
このあたりの地形をもう少し詳しく書くと、トルシャールとサージアの国境は前にも述べたように、剣湾とそれに続く陸地、そして高地森林地帯である。その森林地帯の東には、移転前とは若干異なるものの、カスピ海が存在していた。現在のサージアとセランの国境は、その森林地帯から南に向かって流れる幅五〇mほどの川を境界線としており、その東側がセランである。カスピ海の北はシナーイ大陸を東西に貫く山脈であり、西はその枝分かれした比較的低い山地で、トルシャールとの境界線となっている。南はセランであり、カスピ海東岸はラームルの領土とされていた。東のセランとラームルとの間には、移転前のペルシャ湾が形をを変えて真北に伸び、カスピ海と八〇○kmほど離れたところで終わり、カスピ海とペルシャ湾を貫く幅二〇〇mほどの川跡、地峡といえる、が両国の境界線なっていた。
セランの国土も、サージア同様に、北部は草原地帯であり、稀に小さな林がある。南部は砂漠であり、インド洋沿岸には若干の緑、オアシスがあって、発達していた。つまり、北部かインド洋沿岸部に多くの人が住んでおり、中央部には人が住んでいない、そういうことであった。そして、セラン政府は北東部に存在していた。そこに日本の手に入ったセーザンがインド洋沿岸部に出現することとなったのである。セラン南部の住民たちはセラン政府よりも近いセーザンに志向することとなった。
もともと、セラン南部の住民はラーム教の影響が少なかったうえ、サージア戦争で多くの男たちが兵役に取られ、子供か高齢者しかいない状況であり、生活も裕福ではなかった。それが、先に述べた交易に限ってセーザンへと入り、結果として、若干ながら生活が向上した。当時のセーザンは急激な港湾開発のため、漁獲がほとんどなく、セラン領海へ侵入して漁をしていた。これに目をつけたのがセラン側の漁師たちであったのだ。つまり、自分たちが食する以上に捕れたものをセーザンで現金に変えていったというわけである。
結果として、南部の住民たちはセラン離れを起こし、反発するようになっていった。それが今、表面化しているわけであった。もともとは同一民族であり、第三次サージアセラン戦争までは同じ漁師として友好的であったという。戦争の結果、国が分かれてしまうということになったが、住民たちの交流が続いており、それが先の漁の結果となったのである。セーザンではそれを受け入れたための現状であるといえた。そして、セラン政府は彼らを穢れた民として弾圧を始めることとなり、瑠都瑠伊ではその対応に苦慮しているということになる。
セラン北部でも、似たようなことが行われた。こちらはカスピ海で捕れたものや森林地帯で採れたものがその取引の対象とされたのである。これは、相次ぐ戦乱で北部の土地が荒れ果て、しばらくは収穫が見込めない状況のサージアにとって、手っ取り早く食料を得るのにはこれしかなかったという理由であった。結果として、南部で起きたのと同じ状況が起こっていたのである。こちらも、セラン政府による迫害が始まっており、瑠都瑠伊で対応に苦慮していたのである。
ちなみに、日本本国および周辺の移民国家からはこれら地域のことを中東と称するようになっていた。その位置が移転前の中東に当てはまるということも当然であったが、石油が産出することが似ていた、ということもあった。それだけではなく、政情的にも似ていたこともあったと思われる。さらに、まるで方向が異なるものの、セーザンのことをクウェートなどともいわれている。そうして、これら地域の安定が将来的に重要だとされていた。