瑠都瑠伊の体制
当初、移住者を募っても、集まらなかったことで、瑠都瑠伊は日本の領土として緩やかに開発していくとされていた。しかし、セーザンが日本の権益地とされたこと、隣接するトルトイでウラン鉱脈が発見されたことで事情が大きく変わることとなった。何よりも双方ともに今の日本に必要な資源であったからである。特に、ウランは日本の発電の主流となっている原子力発電に欠かせないものであった。
波実来のように移住民主導では後に多くの問題が発生する可能性が高かったためである。そこで南原は官僚主導での開発と維持を推し進めることとしていた。しかし、南原政権の後を継ぐ形で成立した民主党政権、は政府の直轄領とし、政府主導での開発を行うことを決定した。南原が立ち上げた自由党はそれに真っ向から反対、直轄領ではなく、官僚主導での開発維持を続けることを主張していた。
南原前総理大臣は国難打開と挙国一致内閣継続が国民の賛成多数、七〇パーセントの支持率があった、で異例の三期一二年、移転前も含めれば一六年、という長きにわたって内閣総理大臣の地位にあった。新世紀四年と八年に任期満了として辞意を表明したものの、四年のときは次期候補者が現れず、議会と国民の要請という形での継続、八年のときは対立候補がスキャンダルで自滅、国民の要請という形での継続となった。一二年のときは在日国連の要請があったものの、軍備増強、民主党が軍備増強が違法であるとして、反南原運動を展開、議会から追われるようにして政界を去ることとなった。それでも、国民の支持率は五〇パーセントを切ることはなかったといわれる。
しかし、やはりというべきか、あまりにも距離がありすぎたため、議員主導での開発と維持は混乱を極め、瑠都瑠伊住民による前の体制へ戻す決議が成立、そして、自由党が持ち込んだ国民投票において、国民が自由党案を支持、民主党政権は解散総選挙職に追い込まれることとなった。総選挙において、かろうじて政権政党を維持した民主党であったが、瑠都瑠伊における体制の変更を余儀なくされたのである。
さらに、新政権は移転から長く国外に展開していた大陸調査団を一五年末をめどに廃止し、大陸調査団派遣軍の国内軍復帰も同年をめどに実施するとしていた。しかし、瑠都瑠伊住民の反発が強く、こちらもその後に見直されることとなった。
そうして、一四年末には官僚主導での開発維持と軍の駐留が決定されることとなった。ただし、政権政党も意地を見せ、瑠都瑠伊での官僚としての仕事を官僚のキャリアとして認めない、ということを決定したのである。また、日本国内の部署と分離することも決定されたのである。つまり、官僚にとっては瑠都瑠伊に行くだけ行き損になるようにしたのである。これは軍においても同様とされた。
結局、好んで瑠都瑠伊に行く官僚をなくすこととなり、議員主導での開発維持を続けようとしたといえる。しかし、ここで思わぬ反発にあうこととなった。いずれ廃止を行う予定であった大陸調査団の多くの官僚および軍人が名乗りを挙げたのである。結果として、大陸調査団、このころには官民合わせて一万人にも達してした、の八割が瑠都瑠伊への移動を志願したのである。
そうして、シナーイ大陸北部に分散、その多くはウゼル、カザル、トルシャールであった、していた多くの調査団団員が瑠都瑠伊に移動することとなった。慌てたのは政府であり、国内の官僚であった。つまり、大陸調査団団員が後任の到着を待たずして移動してしまったため、各地で混乱が発生することとなったからである。結局、ウェーダン、キリール、ウゼル、カザル、トルシャールへは移転前と同じく、外務省から人員を派遣する必要が生じた。しかし、ウゼルやカザル、トルシャールは開発が進んでいるとはいえ、環境的には劣悪であるため、多くの人間、特に資源開発のための民間人、は志願者が少なかった。
さらにいえば、これらの国の面積は日本より遥かに広く、国内や波実来、リャトウ半島などといった本国近隣の領土とはまったく異なる状態であったといえる。また、ラーシア海沿岸部にしても、活気はあるといえば聞こえはいいが、実のところ、治安はあまりよいとはいえない状態であった。また、日本から進出している企業の要請もあって、大陸調査団関連の混乱は早急に解決する必要が生じていた。
ちなみに、これら地域に進出している日本人や日系は特に民間人、多くは植物学者や動物学者といった生物系のマイナーな学者が多く渡航していたといわれる。なにしろ、これまでとはまったく異なる植物相や生物相であり、探究心を刺激された学者が多くいたのである。また、海外協力隊制度が適用され、多くの若者が進出してもいた。それらの日本人や日系とのパイプ役を務めていたのが、大陸調査団の仕事でもあったから、混乱はそう簡単に収められるものではなかったといえるだろう。
こうして、新世紀一五年初頭には大陸調査団団長の佐藤を含めて、各国の大使館あるいは領事館に勤務していた人間が瑠都瑠伊に移動していたのである。結果として、一時的にとはいえ、大陸北部の各国は混乱することとなったが、瑠都瑠伊は逆に混乱が収拾されることとなった。結局、政府は瑠都瑠伊に移動した調査団に大陸北西部各国で行っていた資源調査を瑠都瑠伊の管轄とすることで、混乱を鎮めなければならなかった。
そういうわけで、政府は瑠都瑠伊を外州とし、佐藤を最高責任者として知事に任命、第二次世界大戦前に行われていた方法、を取ることとなった。ちなみに、瑠都瑠伊はその当時で五〇〇万人ほどの人口であったが、税収はきわめて多いものであり、一時的に日本の支援がなくても自立が可能であったという。セーザンの原油、トルトイのウランなどの資源があり、食料も豊富であったからである。
もうひとつの問題、軍については、シナーイ帝国やラームルの進出を恐れた今村により、後任部隊の到着を持って瑠都瑠伊に移動することが命令されたのである。当初は一個師団規模であったが、後に周辺の問題発生に伴い、三個師団規模へと増強されることとなった。司令官として、長く佐藤とともに大陸にあった今村少将を中将に昇進させて任命することとなった。つまるところ、本国軍には好んで瑠都瑠伊にいきたがる高級軍人がいなかった、そういう理由があったのである。なにしろ、移転前でいえば、黒海沿岸部になるほど、日本から遠かったため、当然といえた。そう、このころは波実来やリャトウ半島以外の各地に派遣する軍人は志願制であったからである。政府は志願制を廃止しようとしたものの、軍、官僚、国民の反発が大きく、それを断念せざるを得なかった。
元大陸調査団派遣軍司令官であった安部少将は佐藤の下に合流することはなかった。彼は長くファウロスに在ったが、一三年四月をもって中将に昇進、波実来駐留の師団長として転出、すでに国内軍に復帰していたからである。しかも、彼は再婚して、相手はウェーダン人女性のアリシアであった、家族を持っていたのである。佐藤は合流するつもりだという彼を説得、域外支援を要請していたという。
そうして、佐藤が瑠都瑠伊に入ったことで、瑠都瑠伊の体制は急速に整うこととなった。むろん、佐藤だけではこうはいかなかっただろうが、彼の下には沢木を初めとして有能な人間が多く集まっていたからであろうと思われた。今村も、改めて軍を整備することを始め、短期間でそれを成し遂げていた。その結果として、この後発生する多くの問題に対応することが可能であったといえるだろう。
ともあれ、瑠都瑠伊の整備が予想以上に早く進められたことはその後の日本にとっては幸運であったといえるかもしれない。それほどこれら地域で問題が多発することとなったからである。もし、その対応がひとつでも間違っていたら、日本は戦争に突入していたかもしれないし、現在のように発展していなかったかもしれない。