新世界
新世紀一五年六月、移転から一五年を経て、この世界でも一応の体制が見えてきたといえるだろう。日本国内では技術的進歩はそれほど見られない。しかし、経済的には一〇年前に比べて遥かに改善していた。一時の経済の落ち込みから脱却し、右肩上がりで上昇していた。まるでバブル期に戻ったかのようであった。その要因はいくつかあるものの、やはり、輸出が堅調であったからだと思われた。
日本の海外領土として最初に確認された波実来は油田が発見されたこともあり、初期には日本本土の経済回復にかなり貢献していた。人口は移民を中心に二五〇〇万人に達し、化学系企業が多く進出していたこともあり、単なる資源提供地というわけでもなかった。さらに、日本本土での生活となんら変わらない生活が可能なまでに環境が整備されていた。
波実来はほぼ日本人中心の地域であり、外国人の姿は少なかった。ただし、大陸北部諸国の大使館がここに集中しており、日本政府も外務官僚を常駐させるという、一種奇妙な地域ともなっていた。そうして、大陸北東部諸国に対する渡航中継地ともなっており、日本から一度ここに飛び、ここで各種手続きを済ませてから各地に向かう、そういうルートが確立されていた。ここからなら陸路、海路、空路と渡航方法が多肢に渡っていたからである。
大陸最西部にあるもう一つの日本の領土、瑠都瑠伊は波実来と異なり、人種の坩堝ともいえる地域であった。日本人および日系人を含む人口は一〇〇〇万人に達していたが、短期滞在、長期滞在を含めて外国人が五〇〇万人にも達し、その総数は一五〇〇万人を超えていた。この滞在外国人の多くは近隣諸国、ナトル共和国、トルトイ、トルシャール、サージア、ウゼル、キリールといった国の人々であった。
これは先にも述べたように、瑠都瑠伊の特殊性によるものであった。この地には日本の各種教育機関が多数進出し、近隣諸国に対する技術提供、情報提供という特異な制度による。日本人や日系人の多くは技術者や教師であり、その配偶者あるいは家族であった。そして、次には各種企業の工場が進出し、その従業員やその家族が多く移住してきていた。つまるところ、日本の領土であるが、他の日本とはまったく異なる住民構成であったといえた。いわば、移転前のアメリカに似ていたかもしれない。
忘れてはいけないのが領土ではないが、日本の権益地であるセーザンであろう。ここは瑠都瑠伊と同じような住民構成であったが、移転時に日本に滞在していた外国人が多く進出していたといえる。朝鮮民国、中華民国、英国、アメリカ、フィリピン、ブラジル、マラヤと移転後に各地の開拓地に入った国の住民が多く進出していた。さらに、中東系の住民の多くがこの地にあった。その際たる原因は上質な原油の産出に起因するといえた。
さらに、忘れてはならない地域がある。ウェーダンより割譲されたリャトウ半島である。当初は返還の予定であったが、ウェーダン側のごり押しで獲得することとなった地域である。ガス田も発見されており、天然ガスの日本への供給地となっていた。リョウジュンには艦隊とはいえないまでも軍艦が駐留している。これはシナーイ帝国に対する備えであり、陸軍も一個旅団が常駐していた。これらの軍は朝鮮半島や華南域での有事に対処するためのものであった。軍民あわせて一五○万人近い日本人が移住していたが、波実来と同等の環境まで開発されていた。
各地とも、日本の法律が適用されてはいるが、日本の法律自体が改定されており、現在の日本は連邦国家ともいえるまで法律が改定されている。これは必要に迫られてのものであり、かっての中央集権政治では到底対応できなくなっていたからに他ならない。それでも、日本あるいは日本の領土に組み込まれており、れっきとした日本であった。
アメリカが開拓に入ったグアムは正しくアメリカであった。人口は三○万人を数え、既に北米にその足跡を記していた。在日米軍といわれた軍は大幅に削減され、多くが民間人として開拓民として北米に入植してもいた。各地からの移民も募り、その多くを受け入れていたといえる。そうして、日本軍に次ぐ軍事力を有する軍も健在であった。
英国連邦が入ったソロモンは開発が進み、内政的には日本と同じ生活ができるまでになっていた。彼らもまた、ニューギニアやニュージーランドにその足跡を記していたが、人口は合わせても一五万人を超える程度であった。それでも、いずれも着実に発展しているといえた。
朝鮮民国はほぼ半島全域に足跡を記し、開拓を進めていた。中心都市を釜山とし、それなりに発展を見せていた。人口は七○万人を超え、農業だけではなく、工業もそれなりに発達、曲がりなりにも一国家といえるまでになっていた。少なくとも貿易において赤字は出ないだろうとされていた。たとえ、日本の支援が打ち切られたとしても、十分やっていけるはずである。ただ、韓国系と朝鮮系の間で若干の衝突が起こっていたといわれる。
中華民国はほぼ華南全域にまで人々が広がっていた。当初は農業主導であったが、最近は工業の育成にも力を入れていた。人口は一〇〇万人に達しており、移転前は一人っ子政策を甘受していた反響もあり、人口増加率はかなり高いといえた。工業の育成が進んでいないため、日本の支援が打ち切られた場合、若干の問題が発生する可能性があった。
それ以外の地域でも、ほぼ中華民国と同様であり、いわば、農業国といえた。人口は着実に増加しつつあるが、それでも、国として自立するにはそれなりの期間を必要とするであろう、そう思われている。それでも、資源や農産物が枯渇したり不作でなければ、十分に外貨を稼ぐことが可能であった。それは輸出している産物が特殊であるからに他ならない。
ウェーダンは人口四〇〇〇万人を数え、日本の支援もあってそれなりに発達していた。何よりも、波実来に近いこともあり、日本の影響を強く受けていたため、その技術発達は予想以上の早さであったという。この時点で、日本の戦後にまで上昇していた。数は少ないが、公共機関としてバスも運行されるようになっていた。自家用車はまだまだであったが、トラックなどは軍でも運用されつつあった。
キリールはウェーダンよりも若干上のレベルで発展していた。もともとがウェーダンよりも技術的に進んでいたこともあるが、かなり日本びいきであり、波実来や瑠都瑠伊まで公費で人を派遣し、技術獲得を目指していた。これは、日本に占領される可能性のあった時期に日本が占領せず、民意に任せていたことにあった。王室は皇室ともっとも関係の深い国であったという。人口は五〇〇〇万人を数え、一部では既に自家用車を所有する者もいたとされる。ラーシア海沿岸部では、サリルの開発に熱心であり、既に、ラーシア海を航行する船の中継地として、ウェーダンのストールを追い落としていた。
カザルはキリールほどではないが、ウェーダンと同等煮まで発展していた。これは、日本との接触がキリールとは異なるためであろうと思われた。また、大陸横断鉄道の主線から外れていることも影響していたと思われる。むろん、カザルを通過する列車は存在するが、本数が少ないためでもあった。キリールが発展している分、多くの乗客がキリール経由を選択するからであろうと思われた。人口は五〇〇〇万人ほどであるが、国内治安はそれほど良いとはいえない。その理由は、南部でシナーイ帝国との紛争が相次いでいるからであろうと思われた。
ウゼルはキリールについで発展しているといえた。当初は王と太守が敵対するという事態も発生し、治安は南北で明確に差があった。しかし、キリールの発展振りが伝わるにつれて、太守が王に忠誠を誓い、立憲君主制議会国家への移行が完全になされ、治安が良くなるにつれて、その発展速度も上がっていた。人口は四〇〇〇万人、特に北部の発展が著しいといえた、王室と皇室の関係もキリールと同等であったという。
トルシャールはそれほど変わらないが、農業技術の導入により、食料事情が改善され、人口も急増している。その増加分は子供ばかりであるが、ほぼ倍近い増加率であったとされ、八〇〇万人に届こうかという勢いであった。もっとも、工業技術導入はそれほど進んでおらず、今後に期待するという状況であった。
トルトイは人口が四〇〇万人、瑠都瑠伊の隣接国家であるがゆえ、技術導入はもっとも進んでいた。特に海洋技術を多く導入、造船業が盛んであった。むろん、大型船舶の造船はまだ不可能であるが、五〇トン程度であれば可能であった。さらに、武器を製造し、トルシャールやサージアに向けて輸出していた。むろん、資源輸出、特に日本向けが盛んでもあった。
ナトルもトルトイ同様であり、人口も五五〇万人、こちらは過去の経験もあったのか、農業および漁業が発展していた。もちろん、それ以外にも発展しつつあるが、あまり熱心ではない。グルシャ海対岸の本国に戻る手段を得ても、戻るものはほとんどいないという。彼らの多くは二世や三世であり、本国に戻ることを選ばなかった、という事情もあった。
サージアの発展振りは特異であった。これは日本以外にも多くの国が訪れ、各地の技術を伝えているからに他ならない。とはいえ、敵対するセランへの技術流出を恐れているため、現状では政府による規制が行われている。人口は三五〇万人、軍人を除けば、その多くは北部、トルシャールに近い地方と南部のセーザンに近い地方に集中している。これは、異国の技術を得ようするためであり、そのことについては非常に熱心であったといえる。