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中東情勢

 このころ、日本国は瑠都瑠伊とセーザンの開発に傾注していたといえるだろう。トルシャールではセランとの小競り合いが発生していたものの、それは現地駐留軍の対応が誤っていなければそれほど問題となるものではなかったといるだろう。ファウロスにおいては特にそうであり、技術的に勝る日本は敗退することはなかったといえる。トルシャールにおいても、日本国と友好的なサージア共和国と国境を接したことで日本軍は瑠都瑠伊にに撤退することになんら問題は発生しなかった。というのも、双方ともに、対外的に侵攻などしている余裕はなかったといえるからである。


 つまり、双方とも国内整備が重要視され、国境を接する他国に目を向ける余裕がなかったといえる。その証拠に、双方とも、二〇〇〇ほどの部隊を国境に駐留させてはいたが、政府の証書、パスポートではなく、交易許可証を持っていれば、往来が可能だった。とはいえ、交易といっても、交易可能な品はそれほどあるわけではなく、民芸品や水産加工品、その地でしか入手できない品物といったものによる細々とした物々交換、いわゆるバーター取引可能なものだけであった。


 この中で特に重宝されたのが、ウゼルやキリールからの民芸品とセラン特有の民芸品、そして各地の情報であったとされる。情報についてはトルシャールでは価値がないとされても、瑠都瑠伊では重宝されることもあり、サージア側商人はわざわざ瑠都瑠伊まで足を伸ばすことが多かったといわれている。つまり、サージア側商人にとってはトルシャールは単なる通過点であり、最終目標は瑠都瑠伊あるいはトルトイといった地域であったといわれる。トルシャール自体はそれほど交易に熱心ではなかったことも影響していた。


 シナーイ大陸北部の各国は不便な交通機関、鉄道や馬車を乗り継いで瑠都瑠伊やトルトイに向かい、その課程でさまざまな情報や特産品を瑠都瑠伊にもたらすこととなったが、これら特産品はトルシャールやサージアには有益なものであったといえる。トルシャールはともかくとして、サージアは日本の、というよりも瑠都瑠伊の影響を強く受けることとなっていたからである。この点において、後にトルシャールとサージアの発展振りが比較される原因といえたかもしれない。


 セーザンが日本の影響下にあって数年、セーザンには日本以外に多数の異民族が現れることとなる。むろん、これは西太平洋の各地に移住した各国人であった。彼らは石油を求めてその地に訪れていたいといえるだろう。そうして、サージアにはセーザン経由でさまざまなものが持ち込まれることとなった。そして、それが後のサージアを形作っていくこととなる。日本と同じほどの面積の国土に僅かに二〇〇万人強の人間しか住んでいないのである。


 セーザンの原油が安定して供給されるようになると、これまで各地の燃料事情を支えていた波実来をはじめとする大陸北部の油田、ニューギニア油田の原油は輸出量が減少することなった。ロシアのそれは自国消費と外貨獲得のため、そのままであったといえる。そのため、波実来の油田は規模が縮小されることとなったが、それ以外の油田は日本をはじめとする諸国ではなく、大陸北部の各国向けにシフトしていった。これら地域でも、発電所は別として、自動車や暖房などに必要となっていたからである。


 セランとの間で小競り合いは続いていたが、国土が荒れるほどのものではなかったのはサージアが無茶な戦争をしなかったという最大の要因があった。このころはサージアは防衛戦に徹しており、セランに対しては決して撃退する以上の戦闘が行われなかったという理由があったのである。ちなみに、この当時のセランの人口は約五〇〇〇万人ともいわれ、サージアの二〇倍以上だったとされる。とはいうものの、セラン側の多くは北部や東部に集中しており、西部や南部に向かう意思はあまり見せなかった。発生する戦闘の多くは、現地の最高責任者、貴族あるいは特権階級の人間によるものであったとされている。


 サージアはこの当時、一〇〇人単位の軍人を瑠都瑠伊に派遣、日本軍の教育を受けていた。トルシャールと異なり、常にセランとの紛争が多発していたこともあり、軍の整備と増強に力を入れていたのである。とはいえ、それは無茶なものではなかった。サージアが瑠都瑠伊の日本軍に人を派遣するのは、彼らが圧倒的に少人数での戦闘により、セラン軍を撃破し、サージア建国に関与していたためであろうと思われた。


 だからこそ、サージア政府はその軍事技術を自らのものにしようと必死だったといえる。先に述べたように、サージアとセランの戦力差は圧倒的であり、セランが全軍をもってサージア領に攻めてくれば、容易に占領されることがわかっていたからである。この時点で、サージア軍は歩兵主体で六万人強、対してセランは一〇〇万人ともいわれていたからである。とはいうものの、不完全ながらも自動車化されているサージア軍は五倍の敵になら互角に渡り合える能力を持っていたとされる。


 特に、トルトイで生産される武器、多くは日本の旧式装備であった、により、その能力は圧倒的な差が生じていた。サージア側の歩兵用小銃ひとつをとっても、T-64自動小銃、日本の六四式自動小銃のライセンスであった、とボルトアクション式単発銃しか装備しないセラン軍とはあまりにも差がありすぎた、といえるだろう。それこそ、第二次世界大戦末期の日本軍と米軍との差以上であったといえる。


 その他にも、サージア軍には少ないながらも迫撃砲や野砲が配備され、トラックやトラクター(野砲牽引用)も配備されていた。それがため、機動力という面では馬や駱駝といった旧来のものしか持たないセラン軍よりも、圧倒的優位であり、野砲もより高性能なものが配備されていた。これらはすべてが瑠都瑠伊の日本軍に人を派遣し、その練成を受けていたからこそ使用できるといえた。


 政治的に見ても、現在は各集落の長による集団指導体制であるが、軍人に比べれば遥かに少ないものの、幾人かが瑠都瑠伊に派遣されており、その教育を受けてもいた。将来的にはより進んだ政治体制に移行するであろうとの期待がもたれていた。むろん、日本側としても、自らの影響力を強く残したい、そういう狙いはあったといえる。なぜなら、セーザンの原油が安定して入手できるからに他ならない。


 だからこそ、日本はというよりも、瑠都瑠伊ではサージアやトルシャールにそれほど強引な介入は行っておらず、あくまでも、自らの影響を残しながらも自立を促すような政策を取っていたといえる。軍人は別として、役人の受け入れが少ないのはそのためであった。軍は直接的に結果が見えるが、政治についてはどうしても見えない部分が多くあったからである。さらにいえば、それぞれの民族性が大きく関わってくるため、日本の政策を押し付けることが必ずしも良いといえないからであった。


 その点、トルシャールでは当初から日本の政治への介入を避けており、日本もあえて介入することはなかった。軍事面でも、トルシャールとセランが国境を接していたときはともかくとして、サージアと国境を接するようになると軍を引き上げてもいた。トルシャール軍の中には日本軍が撤退することに危惧を覚えるものも多くいたとされるが、政府はその判断を受け入れることはなかったとされる。


 また、トルシャールは瑠都瑠伊にはそれほど関心を示すことはなく、軍人の交流もサージアに比べれば、遥かに少ないものであった。少なくとも、トルトイのトルシャール人とは異なり、日本との交流は避けているようであった。おそらく、キリール系トルシャール人を伴ってこの地に現れたことでそれなりの疑念を持っていたのかもしれない。とはいうものの、域内の開発、特に鉄道敷設には異議を唱えることはなく、受け入れていた。彼らにしても、鉄道の必要性は理解していたといえる。


 鉄道に関しては、このころには大陸横断鉄道が部分的に開通していた。部分的にというのは、カザル域内とトルシャール域内の電化がなされていない、という意味であって、線路自体は開通していたといえる。つまり、瑠都瑠伊からファウロスあるいは波実来までの完全な電車による運航がなされていない、そういう意味であった。とはいえ、トルシャール域内やカザル域内での幾つかの発電所が完成すれば、そう遠くないうちに電化されることになるだろうと思われた。ただし、キリール経由の場合はトルシャールまでは電化されていた。この当時は鉄道輸送と航空輸送での運賃格差がかなり大きく、これら地域の人々にとっては鉄道による移動が多くいたといえたからである。


 瑠都瑠伊とサージア、セーザン間の鉄道も同様であり、現状ではディーゼル車両による運航であった。こちらも、両地域での発電所の完成によって電化されることとなる。とはいえ、こちらは瑠都瑠伊主導で開発が進められていることと、サージア領内では石炭が産出しないこともあって、当初から石油による火力発電所建設が進められており、一年以内にはサージア域内では電車による運航が可能だと考えられていた。


 サージアでこれほど早く鉄道網が完成するのには多くの理由があったが、特に大きいのは、短時間での軍の移動を優先させられたためであったといえる。セランに比べて、圧倒的に兵力に劣るサージアでは、少ない兵力をいかに効率よく移動させるかが重要視されたからに他ならない。たしかに一部の兵力は自動車化されてはいたが、自動車による移動よりも鉄道による移動のほうが圧倒的に早いというのがその理由であった。つまり、北部や南部に集中している兵力をいかにして迅速に中部に派遣するかが検討された結果といえるだろう。国土を守るためにはそれしかない、というのが今村や佐藤の結論だといえたのである。そして、そのためにサージアは国家総動員体制でこの工事に当たったのである。


 そういうわけで、中東のサージアは各所でセランとの国境紛争が発生していたが、規模は小さく、国を挙げての戦争という状態ではなかった。少なくとも、北部や西部、南部では国内整備が進みつつあり、国内情勢は安定しつつあったといえるだろう。また、トルシャールも再び我が物とした国土の開発にいそしんでいたが、こちらはそれほど急には進められていなかった。というのも、彼らは日本の介入を受け入れることが少なかったからである。


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