セラン西部
新世紀五年一二月二日、セラン西部上陸作戦、後に、セラン西部開放作戦、と称される戦いが始まった。投入されたのは第二特殊師団隷下の二個連隊であり、軍用艦艇八隻、徴用された民間船舶二〇隻、総計二八隻におよぶ。軍用艦艇は護衛艦と輸送艦、補給艦であり、徴用された民間船舶は貨客船および貨物船、タンカーであった。これまでは大陸調査団主体ということで、陸路がほとんどであったが、ここにおいて、戦後初、そして移転後初となる日本軍の強襲揚陸作戦であり、日本軍は周到な準備の後に実施した。
しかし、いざ実施してみると、上陸においてほとんど抵抗は受けず、ほぼ無血上陸となったため、橋頭堡の確保も順調に進んだといえた。稀に、近隣にあったセラン軍の抵抗はあったものの、装備の格差もあって損害なしで駆逐することに成功していた。その後の後続部隊の上陸も支援物資の揚陸もほぼ抵抗無しの状態で行われた。そうして、セラン紅海沿岸部のほぼ中央に上陸した部隊は、扇状に部隊を展開することとなった。
もちろん、日本軍は強力な抵抗を受けるものと考えていた。事前の偵察で、一〇万人を超えるセラン軍部隊がこれら地域に展開していたからである。しかし、その多くの部隊は日本軍の上陸と知ると、抵抗することなく、後退するか降伏したのである。特に、南に向かった第二連隊は抵抗らしい抵抗を受けることなく、二○日後にはインド洋沿岸部に達していた。そうして、彼らは抵抗組織を編成し、その教育に関わることとなる。
しかし、北に向かった第一連隊は剣湾まで五〇kmという地点で激しい抵抗を受けることとなった。それら部隊は、トルシャール国境線の守備隊であり、生粋のセラン軍であり、ラームルの勢力であったため、降伏することなく、抵抗したのである。結果として、第一連隊指揮官である安西は、瑠都瑠伊の師団司令部に航空支援を要請することとなった。そうして、一ヶ月後には、当初の目的を達することに成功したのである。
これら地域の住人は多種多様であったといえる。純粋のグルシャ人やトルシャール人、セラン人もいれば、その混血が多数存在していたからである。その後、安西は予定通り、抵抗組織の編成と練成に入ることとなった。むろん、武器弾薬は日本軍のものではなく、グルシャやトルトイに残る工場で生産されたものであった。当初は日本製の武器の供給を考えていたのであるが、技術的な観点から、日本製よりもトルシャール製のほうか使いやすいのではないか、という判断によるものであった。
後にこれら地域は、サージアと称するが、この当時では単なるセランの一地域であった。この地域での戦闘は翌年一月末には終結し、以後は防衛戦争となり、これを知った同地域出身の徴兵された若者たちは、セラン軍の元を離れ(判りやすくいえば、脱走した)、北部および南部の日本軍駐留地に集結することとなる。そして、彼らを中心にして軍が編成されていくこととなった。彼らは非常に熱心であり、祖国ではなく、故郷を守るために自らを軍人に志願させていったとされる。
その後、幾度となくセラン軍との戦闘が発生するが、最初は日本軍が、後には彼ら自身の手によって撃退することとなった。同年二月には新たな国の建国を宣言し、国名をサージア共和国とした。以後はセラン以上の国を目指して国づくりに邁進することとなった。その課程で、セランとは常に戦争状態であり、境界線近くは危険地帯であったが、紅海やインド洋沿岸部は比較的安定しており、それなりの発展を遂げることとなる。
もちろん、日本は大いに関与しているが、その際たるものは港湾施設であり、農業であり、工場群であった。特に、農業技術の流入はサージアの人口増に大いに関与していたといえる。食料が増産されれば、養える人口も増えるからである。そして、サージアだけではなく、トルシャールやグルシャ、トルトイなどでは多産政策が取られ、急激な人口増加を成すこととなった。当然として、医療技術の向上もあって死亡率が低下したこともその一因である。
ちなみに、これら地域の医療を含めた技術力向上を図るため、瑠都瑠伊には各種大学や技術学校が設けられ、サージア、トルシャール、グルシャ、トルトイからの学生を多数受け入れることになる。中には遠く、ウゼルやキリール、カザルからの学生も見られた。そういうわけで、瑠都瑠伊は学研都市あるいは国家といえた。むろん、当初はそうした意図はなかったが、年を経るごとにその傾向は強くなっていった。
日本政府は影響国に対する教育には熱心であり、在日国連では多くの白人国家から批判が相次いだが、それでも実施した。本国からの各種大学あるいは専門学校の進出を奨励し、多くの学校が進出したことで、学研国家としての傾向がより強くなっていった。もちろん、医療を除いては最先端技術に関するものは少なく、多くが基礎的なものであった。
これが後にシナーイ大陸北部および西部の発展を促し、十数年後にはそれなりの市場を形成することとなった最大の要因であったとされる。そう、自動車が走り、電話が通じる、そういう環境が整うことに繋がる。技術だけではなく、経済や文化に関する教育も熱心に行われた。それが市場形成に役立つとされたからである。
サージアでは対セラン戦が継続して行われることとなるが、もっとも大きい戦い、後に第三次サージアセラン戦争といわれる、において、それまでの国境線が大きく移動することとなった。剣湾とトルシャール国境がサージアの勢力下に組み込まれることとなったのである。宗教的にもラーム教から脱却を図るサージアはトルシャールにとっては好ましい隣国であり、両国の交流は平和的に継続されることとなる。また、適切な民族政策、国内の民族の同化を目指した、こともあって、サージア国内ではこれといった民族問題は発生しなかったといえる。
瑠都瑠伊の沢木領事官はサージアとの交渉において、インド洋に面したセーザンという港湾都市(とはいえない小集落)において、九九年間の租借権を得ることに成功し、開発を進めることとなった。そして、幸運にも五〇km内陸で油田を掘り当てることに成功し、それをきっかけにセーザンは大きく発展することとなった。セーザンの原油はこれまで開発されたどこの油田よりも上質で、多くの需要を得ることが可能であったからである。
これまで発見された油田はどれもが重油質に近いものであり、精製が難しい部分もあったが、セーザンのそれは軽油質であり、精製も容易であった。さらに、各種プラスチックの製造も容易であったとされる。結果として、これまでの原油はガソリンなど軽質油にまで精製されることはなく、セーザンのそれとは用途によって使い分けされることとなった。
このセーザンの租借は英米、特に英国には喜ばれることとなった。なぜなら、欧州進出の足がかりができることとなったからである。米国にとっても、すべての艦船が原子力ではないため、インド洋での補給基地が形成されたことを歓迎していた。こうして、欧州やアフリカ、南北アメリカへの西ルートが確保されるに至った。
実情はどうあれ、欧州から日本に滞在していた多くの外国人は、やはり故国への哀愁があったのかもしれない。とりわけ、英国やフランスはその意識が強かったのかもしれない。なぜなら、幾度となく、欧州への調査団派遣を強く要請していたからである。彼らとて、現実的には日本からそう離れることの問題を理解していた。とはいえ、将来的には欧州への移住あるいは開拓が考えられていたに違いないのである。
そのため、セーザンの日本の制限付きとはいえ、領有がなされたことは喜ばしいことであった。また、日本としても、これまで太平洋域、ラーシア海域に限られていた漁業がインド洋まで伸びることになり、歓迎されていることであった。移転前のように、流通機構が整備されていないため、未だ多くの問題を抱えていたが、それらは解決の方向に向かいつつあった。