トルシャールへ
新世紀四年一月六日、第一連隊を率いる今村中佐はキリールのルーサではなく、ウゼル王国の西方、旧トルシャールという国だった地域にいた。発端は海軍からの通報にあった。ラーシア海の調査に赴いていた海軍調査船、といえば聞こえはいいが、要するに、旧海上保安庁所属の大型巡視船、ディーゼル機関で長距離運航が可能だった、がシナーイ大陸西北部沖で海賊に襲われた、というものであった。海賊船は蒸気機関を用いた軍艦と思われた、の砲撃にあったのである。このときは幸いにして、命中弾をを受けることなく撃退したが、これまで海上での戦闘がなかったことから日本政府および大陸派遣軍に与えた影響は大きかった。
むろん、幾度となく、衛星による偵察がなされてはいたが、これまで偵察にかかることはなかった。慌てた海軍がストール、この頃にはそれなりの港湾設備を備えていた、に護衛艦二隻を含む四隻の艦隊を派遣し、付近の哨戒および調査に向かわせた。そうして、件の海賊、青地に白い月と星一つが描かれた旗を掲げた軍艦、煙突の数と排気、真黒な黒煙を排出していたことから石炭による蒸気機関を搭載していると思われた、の二隻と遭遇、短時間の戦闘の後にコミュニケーションをとることに成功、その正体が判明することとなった。新世紀三年一〇月のことであった。
結果からいえば、彼ら、北トルシャール国はグルシャの侵攻を受けていたが、かろうじて撃退に成功し、その後はグルシャの侵攻がなく、離散した多くの同胞を集結させ、祖国復興を目指していたということであった。軍艦はグルシャに徴用されたトルシャール人が隙を見て奪取、同地に回航されたものであった。そうして、海軍調査船をグルシャの艦船、もしくは彼らの支配下にある国のものと判断し、攻撃を仕掛けてきたものであったという。何しろ、調査船は五〇〇〇トンクラスであり、彼らの所有していた艦船は一万トン近い排水量を持つ装甲巡洋艦だったため、自分たちに有利だと判断したからあった。
双方にとって幸いだったのは、調査船の船長が今村を含めた幾人かから挙げられていた報告、その中のキリールに滞在するトルシャール人のことを知っていたことにあった。その後、彼らは日本に敵対することはなかった。むろん、実際のところは日本軍を信用したわけでもなく、彼らも自分たちに攻めてこなければ、戦闘は避けたいと考えていたことにあったと思われた。
そうして、当時、ウゼル王国の王都開放を終え、本拠地に戻る予定の第一連隊が西進することとなったのである。ウゼルおよび南方の地峡の警備には新たに第四連隊隷下の一個大隊が派遣されることとなり、少なくとも、地峡の警備には支障はないと判断されての移動であった。むろん、今回は佐藤や安部ではなく、日本本国からの指令であるため、今村たちの移動には最大限の支援がなされた。第零特殊師団の補給部隊をすべて稼動させての必要な物資の補給であった。
これまでの大陸派遣軍隷下の部隊からの報告であれば、佐藤と安部の管轄であったと思われるが、今回は本国所属の海軍からの報告であり、佐藤や安部には指揮権がなかった。むろん、まったくないわけではないが、あくまでも意見を言う程度であった。そうして、今村の連隊が選ばれることとなったのである。そうして、連隊所属兵には交代で波実来での一週間の休暇が与えられ、それが終わってからの移動であった。今村自身も休暇を与えられたが、二日ほど長く滞在し、ファウロスより移動してきた佐藤や安部との会議に追われることとなった。
今回、今村に与えられた任務は、北トルシャール国軍との接触、可能ならトルシャールの開放であった。もちろん、僅か一個連隊では不可能であろうと思われたが、本国からの命令では佐藤や安部とて反対できるものではなかった。後に判明するが、本国にある外務官僚の佐藤への敵愾心、僅か三年で少尉から中佐まで上りつめた今村に対する本国軍幕僚の妬みが複雑に絡み合ってのものであったようだ。
実際、南原総理大臣の受けがよく、予想以上の成果を挙げている大陸派遣団責任者、予想以上に活躍している志願者主体の派遣軍に対するやっかみや妬みは非常に大きくなっていたといえる。それが今回の第一連隊派遣によってはからずしも表面に現れたといえる。むろん、それだけではなく、大陸北部にはこれまで幾多の資源が眠っていることが判明しており、日本としては、影響力を残した現地政府と有利な取引を考えていたに違いないのである。そこにラーム教など妙な勢力が入り込まれては、今後の資源獲得にも影響が出るため、それを未然に防ぎたい、そういう考えもあっただろうと思われた。
ちなみに、トルシャールの南には最広部で二〇km、最狭部で五km、長さ四〇〇kmの細長い入り江があり、古来、その入り江を挟んで南のセランとの国境とされてきた。その入り江の東には大陸を東西に分断する形で続いていた山脈が終わっており、実質、三〇〇kmの平原や森林地帯が両国の交易路として使用されていた。ラームルの影響を受けたセランとの関係が悪化してからは唯一の防衛線ともなっていたといわれる。
トルシャールの国土は日本の約二〇倍、人口は三〇〇〇万人を数えていたが、グルシャの侵攻後、大虐殺にあい、一二〇○万人が分散逃亡したという。その後もグルシャ人による殺戮が続き、現在では、北トルシャールに約四〇〇万人、キリールに約二〇〇万人、あとは南に逃げたものを含めて約一〇〇万人ほどしか生存しないと考えられていた。
つまり、日本本国ではトルシャールの地峡、ウゼル南方の地峡、この二つの地域をラーム教勢力との境界線にしたいと考えているようであった。なぜなら、今村に与えられた任務からもそれが伺える。そうして、シナーイ大陸北部を日本の影響下に置き、開発、将来の市場化、日本経済の再起につなげたいと考えていたのかもしれない。これら地域の大規模食糧生産、流通網の整備が進めば、人口も伸び、さらに、教育がなされれば、確実であろう、そうう判断していたかもしれない。
結局のところ、日本政府は日本からの移民として各地に出て行った移転者たちの開発する国土だけではなく、この世界に元から存在する国あるいは住民をも成長させ、市場化しようとしていたといえる。そもそも、日本民族は農耕民族であり、狩猟民族である欧米人とは異なり、そういった育てる、ということには慣れている、あるいは適した民族だったのかもしれない。しかし、第二次世界大戦敗北という事態が一部民族性を変えていたのも事実であり、それがため、移転前には、育て上げた後進国に自らの産業基盤を奪われるという事態まで引き起こしていた。
この世界でも、これまでのところ、同じようなことをしようとしているのかもしれない。今のところ、技術格差が一〇〇年から八〇年あるが、これが一年で五年解消されれば、一六年から二〇年で追いつかれることとなる。もっとも、相手の民族性もあり、そう単純にはいかないとしても、二〇年もすれば、それなりの市場としての魅力的な地域になり、その後、二〇年かけて育成すれば、移転前の赤い大国、東南アジアほどにはなるかもしれない。五〇年もすれば十分育成された市場に成る可能性が高かった。そうして、日本政府は気づいていないかもしれないが、このとき、移民した欧米先進国が無事に発展すれば、これら市場の取り合いになる可能性も十分ありえたのである。
日本本国の思惑はともかくとして、今村は自身の部下たちを率いてウゼル北西部のトルシャールとの国境であった地にいた。既に三個分隊を斥候として北に派遣しており、トルシャール人との接触を試みている。さらに一個分隊を西に派遣、偵察に付かせていた。この時点で、今村はトルシャール人との接触を優先し、自身の部隊だけで南下することは考えていなかった。当然であるが、トルシャール人たちとの協議がなされていない今、下手をすれば、南北から挟撃される可能性もあったからである。
本国からの指令には、北のトルシャール人たちとの間ではある種の協定がなされているとのことであったが、それを鵜呑みにできない、今村はそう考えていた。つまり、本国からの指令の多くは海軍を通じてのものであり、海軍では協定を結んだとしても、それが陸軍まで伝わっているかどうか不明であったからである。日本軍と異なり、この世界では未だ無線通話がなされておらず、あくまでも書面による通信が遠方との通信手段であり、そういったことから、詳細な連絡が不可能であると考えていたのである。むろん、人を派遣しての連絡は行われていると思われるが、自動車や鉄道が整備されていない以上、騎馬による手段しかなく、時間も要することから実施されているかどうか確信を持てるものではなかった。
実は、今村の指揮下にある軍は第一連隊の三〇〇〇人だけではない。二〇kmほど後方にキリールに住むトルシャール人から志願した三万人の義勇兵が存在する。当初は大部隊の移動が困難であることから、今村を含め、第零特殊師団司令部、大陸派遣調査団最高責任者の佐藤も共同行動は拒否していた。しかし、彼らは独自でも行動することを宣言していたため、今村としては作戦行動に支障が出る可能性があることから、一応の共同行動あるいは作戦を行うことで合意せざるを得なかったのである。
はからずしも、この時点で今村は歩兵主体とはいえ、二個師団もの兵力をその指揮下に置くこととなったのである。とはいえ、装備も違えば、錬度も異なるため、その統率は非常に困難なものであった。結局、今村の連隊本部に四人のトルシャール人部隊の連絡将校が加わることとなった。さらに、トルシャール人部隊を四分割、最大行動単位を旅団単位とし、それぞれの指揮官には大陸派遣軍向けに開発され、配備されていた手動発電無線機を持たせていたのである。これで、少なくとも独断横行を防げるかもしれない、そう今村は考えていた。