混乱
被災者の方にお見舞いを申し上げますとともに一刻も早い救助がなされることを心からお祈りいたします。また、行方不明の方の捜索がなされることを切に願っています。
六月四日、南原総理による情報公開が実施された。それに対する混乱は当初は発生することはなかったが、一部の人間、一時的に来日していた外国人はパニックにいたり、在日大使館および領事館へ殺到することとなった。彼らは日本政府にも対応を求めたが、政府は調査中であるとしか答えなかった。日本政府にもそうするしかできなかったのである。
ちなみに、南原総理による情報公開までに一日間が開いたのには理由があった。一部地域を除く在日大使館への根まわしが行われていたのである。そう、国民および滞在外国人に公開する前に、外務省の官僚がこれら大使館を訪れ、一部の情報を公開し、パニックになった場合の対応を求めていたのである。根回しのなかった国とは、赤い大国そして半島の国であった。各国の大使館でも何らかの異変が起きているとして、日本側の情報提供には表面上は感謝の意を表することとなった。
そうして、いまや経済大国となりえていた赤い大国からのビジネスマン、観光客などがまずパニックにいたることとなった。つまり、事前に根まわしされていた国の大使館ではそれなりに対応できていたが、そうでない国は大使館員そのものがパニックにいたったからであった。むろん、それだけではなく、日本と祖国との距離も関係していただろうと思われる。数時間から一日がかりで帰国しなければならない国とほんの二~三時間で帰国できる国との差が出たと思われる。
このとき公開された航空写真を見てみよう。北は千島列島は存在するが、カムチャッカ半島は存在しないため、千島列島最東端の占守島は大陸までの距離が一〇kmほどであった。つまり、北の大陸はその分南にあると思われるため、以前ほど寒冷ではないと思われる。日本国自体の気候はなんら変わっていないためにそう判断された。後の夜間偵察においても、明かりはまばらにしか確認されず、都市は存在しないと思われた。
北の大陸は北緯五〇度線あたりで海に面するが、さらに西へと広がっているようであった。その大陸南部とは五〇〇kmほど離れた南にも大陸が存在していた。こちらは北の大陸と異なり、海岸線から緑豊かな草原であったが、海岸の一部が砂漠化している地域が見られた。この大陸は南西に向かって広がっていたが、沖縄の南西、移転前の台湾島の位置の山脈の南部に見慣れた半島とそれに続く地域があった。地形的には朝鮮半島から中国中央部とそっくりな地域があったのである。
これを見たからこそ、赤い大国からのビジネスマンや観光客がパニックになったといえる。しかし、これら地域には都市や住民は確認されておらず、まるで未開の地のようであった。彼らの多くは出国を要求して次第に暴徒と化していくことになった。それはさておいて、沖縄の南には移転前のフィリピンがあったが、一つの大きな島であった。北部沿岸部を除いて密林が続いていた。また、インドネシアと呼ばれた地域が一つとなったような大きな島が存在していた。こちらも、北部の一地域を除いてその多くは密林であった。
むろん、今回公開されたのはあくまでも、上空一万五〇〇〇mからのものであったが、他に各大陸沿岸の低高度から撮影したビデオ画像が政府閣僚には公開されていた。そして、南条を含めた多くの学者はこの西の大陸の北部に資源が多く眠っている可能性が高いと報告していた。
そのころ、在日米軍も独自の偵察活動を行っていた。彼らの目は東に向けられていた。それは日本にもっとも近い米軍根拠地であるグアム島であり、ハワイである。日本の偵察手段といえば、先に述べたように対潜哨戒機やRF-4EJ<ファントム>偵察機しか存在しないが、沖縄の嘉手納にある米空軍基地には、世界最高の偵察機といわれるロッキードSR-71<ブラックバード>が存在していたのである。沖縄の日本空軍司令部ではその動向をキャッチしていたが、なんら手を打つことはできなかった。むろん、結果についても知らされることはなかった。
この時点においても、日本国民は一部を除いて比較的落ち着いていたといえた。日本人の気質というのもあったと思うが、それだけではないといえたかも知れない。一連の騒動の前に、長く続いた政治不信もあったと思われる。対して、在日といわれる住民たちはそうではなかった。また、赤い大国からの入国者においても同様であった。比較的落ち着いていたのは欧米からの入国者といえた。
もっとも、日本政府はあまりそれに関わってはいられなかった。経済的な問題が浮上してきたのである。多くの企業は赤い大国を含めて世界各国に輸出することで成り立っていたからである。輸出が望めないとなれば、多くの企業は業績の悪化を避けられなくなるからである。それに対する対策を講じなければならないためであった。
問題はそれだけにとどまらなかった。食料の問題もあった。日本の食料自給率は南原内閣になってから若干の向上をみたものの、それでも四五パーセントにしかならなかった。だからこそ、多くは輸入に頼っていたのだが、その輸入が絶たれた以上、すぐにも問題化するだろうと思われた。特に、在日外国人の中には米を食さない人々も多く存在し、日本人のように何でも食べるということはなく、小麦などの要求が現れることとなっていたからである。それに、食料の場合、輸入が絶たれたから国内生産、というわけにはいかないのである。生産まで時間を要するからである。
それよりも何よりも問題となるのが石油であった。日本の場合、ほぼ一〇〇パーセント輸入に頼っていたため、輸入がストップすると各所に影響が出ることとなる。むろん、備蓄はあるが、それとて四ヶ月分でしかない。既に、一般向けガソリンや軽油は配給制に移行することが通達されているが、これから先、秋から冬になるにつれて暖房用の灯油をどうするかという問題も浮上してくることになる。
問題は山積み、というのが南原の想いであった。さらに、国外への調査団派遣の考えを閣議で表明したところ、厚生労働省からは未知の病原菌が国内に持ち込まれる可能性を示唆され、安易に調査団を派遣することができなくなっていた。このあたりは口蹄疫による被害を出した県の長であった南原にとっては安易に決定することができなくなっていたといえる。少なくとも、南原の頭の中には、西の大陸への調査団派遣と農業生産を行う、ということで食料危機を乗り越えるという考えが夢となったのかも知れなかった。
そうして時間が過ぎ行くにつれて、国内不安が高まり、赤い大国や在日住民による暴動を発生させることとなった。特別に、差別しているわけではないが、彼らにとっては経済成長を続ける母国に屈していた日本に対して、自らの待遇の改善を要求し、それが受け入れられないためのものであったといえる。在日の住民はそれにつられてのものであろうと思われた。こちらは、過去に差別があったことも関係していると思われた。
南原にとって幸いだったのは、自らの内閣が挙国一致内閣であったことだろう。少なくとも、今すぐの政治混乱だけは避けることができたからである。でなければ、政治混乱によって、無政府状態に陥る可能性すら存在したからである。さらに、このような国難において挙国一致内閣を廃止し、自らが指導者になろうとするものも現れなかったこともあった。逆に言えば、南原が大きな失策をすれば、あるいは環境が改善されなければ、政治問題が起きるということなるのである。
閣議決定ということで、調査団を派遣することを決めたのは、一連の騒動の元である移転(この頃にはそれが当たり前のように使われていた)から一ヶ月後のことであった。外務省の審議官に南原が信頼を寄せる男がおり、彼が調査団のリーダーとして国外に出てもいい、と断言したことが最大の理由であった。この時期、国外に出て行った場合、帰国が難しいとされていたからである。その原因は未知の病原菌の国内への持込を恐れたが故のことであった。
陸海軍からの人員も志願者によって編成されることとなり、また、民間人からも志願者を募ることになった。たしかに、帰国は難しいが、病原菌の存在が確認されなければ、その規制は解除あるいは緩められることが明確にされた上でのものであった。南原をはじめ、政府首脳部はそれほど人数が集まらないだろう、と考えていたが、結果として陸軍は師団規模(一万二〇〇〇人)、海軍は一個艦隊規模(艦艇一〇隻に相当)、民間人は一〇〇〇人にもなっていた。むろん、これらすべてを一度に派遣するわけにはいかないので、先遣隊として、陸軍は一個連隊規模、海軍は戦闘艦五隻、輸送艦三隻を派遣、残余の部隊は緊急派遣部隊として待機することとなった。
こうして、新世紀元年(西暦ではなく、ゼロからスタートするという意味で採用された)七月一〇日、日本は新たな一歩を踏み出すこととなったのである。