新生ウェーダン
新世紀元年一〇月一日、僅か三ヶ月でファウロスは驚くべき変化を見せていた。濁流によって破壊された街は更地になり、平原となっていた。新ファウロスはその東、ファウロ湾に面する地域に建設されていた。高層住宅はないものの、既に街らしくなっていた。それはまるで平安京を見るかのように、整然と整備された町並みを見せていた。そうして、市街の中央には四階建ての市庁舎が建設されつつあった。
これは仮設ではなく、本式の建築物であった。ALCを用いた組み立て式住宅である。もちろん、日本の建築基準は満たしていないが、限りなく近いものであった。簡単に言えば、コンクリートの基礎に木材の骨組みを組み、ALCを貼り付けていくいくというものである。内装はほぼないに等しいが、それでも旧来の石積み家屋に比べれば、遥かに快適に暮らせるものであったようだ。ただし、市庁舎やいくつかの公共設備は鉄骨構造で建設されていた。
何よりも、上下水道が完備されていることが住民をして驚かせていた。今後、発電所が完成すれば、電気も通ることになる。リャトウ半島のリョウジュンに小型の発電施設が完成しているが、これはあくまでも駐留軍向けのものであり、ファウロスまでは送られることはない。現在はファウロスの東に建設中である。多くの現地住民にとっても、それまでのテント生活からすれば、天と地ほどの差があっただろうと思われた。
ここまで復興が早いのは日本の民間企業、特に土木建設関連企業が活発に動いたからだといえる。国内では需要がなくとも、国外にはあるということで、積極的に国外に出ることが多かったからであろう。かって、第二次世界大戦敗戦後、復興の原動力となったのがやはり土木建設関連企業であった。何よりも、言葉が通じる、ということが国外へ乗り出す積極性を生み出したともいえるだろう。むろん、文字は読めないものの会話が可能であるということは、日本語以外の言葉を話せない熟練技術者にも国外へ目を向けさせる最大の理由だといえた。さらにいえば、労働力として現地住民があったことも大きな要因とも言えただろう。
パーミラに関していえば、中小企業の多くが国内拠点を整理し、会社や従業員ともども移動するというケースが多く見られることとなった。同様に、ウェーダンにも少ないが見られることであった。むろん、サービス業系の企業の進出は少ないものの将来的には有望とされてもいた。そして、起業のチャンスと考える多くの人々が移民としてこれら地域へと進出していた。つまり、言葉が通じる、その一点でこれまでは国外進出を躊躇していた人たちの多くが大陸に渡ることとなったといえる。
そうした中、ウェーダンの新体制が日本に、というよりも大陸調査団本部に通知された。当然、それは駐留軍にも通知されることとなった。暫定首班であったオレフ・ヤンネンが正式に同国首相となり、西部の街ルーメの市長が副首相となった。その他、各地に逃げ散っていた人物が閣僚として名を連ねていた。軍司令官にはオレフと行動を共にしていたクリス・ザーツェンが着き、対シナーイ防衛に当ることとなった。この人事は今村の推薦でもあった。今村の元で訓練を受けていた中で、もっとも現代戦、というか、日本軍の戦い方を理解していたからに他ならない。
もちろん、ここに至るまでは簡単ではなかった。ウェーダンという国は元々、都市部とそうでない地域との格差が酷いものであった。教育などは都市部ではそれなりになされていたようだったが、それ以外の地域では識字率が一〇パーセントという有様であった。そのため、佐藤は日本のシステムを半強制的に導入するようオレフと交渉してもいた。そして、それらを行うための資金として、各種資源の日本への輸出を奨励してもいる。
駐留軍指揮官たる今村もウェーダン軍の訓練を部下に任せ、各地を回っていた。ほぼウェーダンを一周したといっても過言ではない。むろん、移動は徒歩ではなく、輸送車を使用した。このときばかりは今村も佐藤の部下として動いたのである。本来は民間人が行うべきであろうが、未開の地ということで白羽の矢がたったのが彼だった。そうした結果、日本にとっても有望な情報がいくつか得られていた。
その最たるものが西部の都市ルーメ近郊の石炭であり、西北の町ウェーブのボーキサイトであり、東北の町スウェンの銅山であった。ウェーダンでも石炭は広く使用されており、馬車輸送によって各地に運ばれていたという。ちなみに、石炭を用いた火力発電がウェーダンでは一般的であり、大きい街ではそれなりに利用されていたという。しかし、石油は未だ利用されてはいなかった。結局のところ、輸送が最大のネックだといえた。
そうして、この月から初歩的な鉄道敷設工事が始まることとなっていた。調査団本部としては、ディーゼル機動車による運行を考えていたようであるが、石炭が豊富に存在することから、蒸気機関車による運行へと変更されていた。それならば、線路敷設さえ終われば、すぐ運行可能であったからである。旅客輸送というよりも、貨物輸送のための鉄道ともいえた。もちろん、蒸気機関車や貨車、客車は日本が作ることとなるが、それ自体は特に問題がなかった。
しかし、蒸気機関車は効率が悪い、ということで後に電化され、すべてが電車になることになる。結局のところ、日本的な効率が求められたことで、いきなりの電車運航となったといえるだろう。そして、これが大陸横断鉄道建設のきっかけともなったといえる。さらにいえば、パーミラとの鉄道連結がその要因のひとつでもあった。
灯台下暗しというが、リャトウ半島のリョウジュン北東にガス田が発見されることとなった。きっかけは、軍の訓練によって発射された砲弾が命中したところが異常に発火爆発したことにあった。そして、地元出身の兵が燃える空気のことを思い出したことに起因する。調査の結果、半島の東側、太平洋側にガス田あるいは油田が存在することが判明したのである。ただし、未だ手付かずで、開発は来年以降になるという。
ちなみに、石炭を用いた火力発電であるが、構造的には石炭の火力でお湯を沸かしてその蒸気でタービンを回し、発電するという構造であるらしい。石炭自体は自動給炭であるし、思ったよりも人手は不要というのが今村の理解した状態である。当初、日本が石油を使った火力発電所建設を考えていたが、オレフは断ってきたというのが石炭発電所建設の理由らしい。
将来的にはどうなるかわからないが、現状では彼らが昔から使用してきた方法を優先的に使用するとのことであった。家庭における調理などにも、コークスが使用されることになっていた。結局のところ、ゼロから始めれば、それなりに期間を必要とするが、既存のものを利用すれば、短期間で使用できるだろう、との日本の考えもあったようだ。いずれにしても、外敵の脅威が大きく減少した今、ウェーダンは自力で復興を成し遂げようとしていた。
この新体制に移行したことで、日本は恩恵を得ることが可能となった。石炭の輸入もそうであるが、ストールでの鉄鉱石採掘、スウェンの銅山での採掘などに人手が派遣されることとなり、それなりに人員不足を補うことが可能になったのである。また、鉄道工事などにも人が集まることとなった。農業においても、日本が供出した種苗などを使用して生産が行われることとなった 。こちらはそれなりに期間を必要とするが、パーミラへの農業移民で開拓するよりも作付け面積が多くなる、という利点もあった。さらに言えば、畜産業においても、鶏や牛といったパーミラやウェーダンにいなかった動物も持ち込まれる予定であった。馬や豚はいたが、それ以外の家畜は野生の山羊しかいなかったのである。
とにかく、これまでこの世界で隣国たるものがなく、いわば、一人であった日本にとって、工業レベルはともかくとして、国として発展しえるパートナーが現れたことで、いくつかの問題は解決される方向にあったといえた。そのためにも、シナーイ帝国の侵略を再び許さないこと、それが重要であり、今村たちが駐留する必要があるといえた。
とはいえ、教育水準が十分ではないため、文盲率は八〇パーセントにも及ぶということで、調査団本部からは改善するよう要請が出されてもいた。とはいっても、すぐに解決できる問題でもないので、将来的には、という条件がつくこととなった。日本への資源輸出やその支援により、国庫が潤えば可能と思われたからである。むろん、ストールやスウェンといった日本企業進出先では独自の教育が実施されることとなった。これが後に、日本語は読めるが、ウェーダン語が読めない、などといった問題を発生させることとなった。
しかし、意外に勉強熱心な国民であるらしく、ストールでは五年で日本人が半減、現地住民だけで十分作業が可能であり、スウェンでも、八年後には現地住民だけで作業が可能なまでになっていたという。ルーメでも同じような状況であったという。もっとも、教育水準が高いといわれていたファウロスやトレンセンではそうではなかったと言われている。これは日本の企業が入り、仕事を得るために必死になった地域とそうではない地域との格差であったといえた。
これが後年、北部は工業が発達する最大の理由となりえた。そして、首都機能がストール近郊の新興都市ウェンデルに移るきっかけともなりえたのである。とはいえ、この時点ではまだファウロスが首都として機能していたといえる。北と南に大都市が現れたことで、国内交通網が飛躍的に延びるという理由でもあった。