沈静化する中東騒乱
中東では日本の影響下にあるサージアとセラクは安定化していたといえる。もっとも、セラク東方では先に述べたようにセランを侵略したロンデリア軍と緊張感が高まってはいた。しかし、政府中枢を見れば、安定していたといえるだろう。双方とも、セーザンやセラージの安定と発展が大きく関与していたといえるだろう。ちなみに、両国に対して日本政府、というよりも瑠都瑠伊州政府の関与は徐々に減少傾向にあり、民間による交流が増大していることが大きな理由であったかもしれない。
そうして、遅ればせながらという感でセランのロンデリア軍将兵は気づくこととなった。彼らはこれまで政府あるいは軍による直接支配を最良と考えていたということに。そうして、現地軍司令官、この当時、セランではロンデリア軍による軍政を敷いていた、が規制を緩めることとしたのであろう。徐々にセラン国内のロンデリア軍支配下での治安が沈静化傾向にあった。むろん、各地で銃撃戦は発生しており、自爆テロも発生していたが、セラク側領土では徐々に減る傾向にあったといえるだろう。
ただし、セラクのフセールは不満をあらわにしていたといえる。理由は、彼らが自身の兵力でセランをラームルの支配下から開放することを考えていたからであろうと思われた。とはいえ、今のセラク軍ではセランはともかくとして、ロンデリア軍にはとてもかなうはずがなく、戦闘行動を取ることは不可能であった。そして、瑠都瑠伊がロンデリアに対して強攻策に出られない理由もわかっていた。また、国内もサージアに比べれば若干なりとも開発が遅れており、ますは国内の開拓と発展が重要だと判断せざるをえないこともわかっていた。
ちなみに、サージアが人口が少ないのに、発展を続けているのは、ほぼ国家総動員体制であるからだと思われた。残念ながら、セラクでは、国家総動員体制に移行することは難しいとされていた。これは民族によるものであろうと思われた。つまり、セラクのアーレブ人だけとは異なり、サージアではアーレブ人を始め、グルシャ人、トルシャール人、日本人、そしてそれらの混血が多数存在する。日本人以外の純血民族は減少傾向にあり、さらに混血が進みつつある。つまり、サージア人になりつつあるといえたのである。
これは、かってはセランから忌避され、差別されていたことが影響しているといえた。そのため、隣国に負けないように国家を発展させる、という意識が強かったのであろう。一番近い例を挙げるとすれば、第二次世界大戦後から一九七〇年頃の日本であったかもしれない。また、アーレブ人においては、過去の感情を引きずっていることもあり、サージアには商用などで一時的に滞在する以外には新しく移住することはなかった。また、グルシャ人もナトルから、トルシャール人もトルシャールから移住することは少なくなっていた。そういうわけで、独自の民族が生まれようとしていたのかも知れなかった。
セラクでは思想的にもサージアのように国家総動員というような体制は到底不可能であった。それでも、日本が導入した教育制度、六、三の事務教育、三、四の高等教育が進めば、変わってくるだろう、と考えられていた。いずれにしても、この当時が国にとってはもっとも重要な時期であったといえるかもしれない。
話しがそれたが、サージアやセラクでのそうした情報がロンデリア軍司令官をそうした方法に走らせたのかもしれなかった。なにしろ、サージアにしてもセラクにしても、国営ラジオ局のほかにも一〇以上の民間ラジオ局があり、たいていの情報は国民に知らされていたからら、セランのロンデリア軍でも聞こうと思えばいつでも聞けたのである。
ちなみに、シナーイ大陸北西部と中東では新聞などの文字メディアよりもラジオが愛用されていたという。文字メディアでは教育を受けていなければ読めないが、耳から飛び込む音声では聞こえるすべての人たちが理解していたからである。もとっとも、中東以外では徐々に文字メディアが発達しつつあった。これは、中東よりも数年早く日本の教育制度を導入したため、識字率が上がっていたことが原因であろうと思われた。
つまり、ロンデリア軍にとってはこれまで入手しえなかった情報が入手できるという、結構な情報源といえたのがこれらラジオであったといえる。ちなみに、これらのラジオはナトルやトルトイで製造されたものであり、現状では中東やローレシアなどに輸出されている。瑠都瑠伊ではより複雑な複合製品が製造されており、これもローレシアやイスパイア、太平洋各国に輸出されている。ロンデリア軍はセラージにおいてこれら製品を購入し、軍にも配備していたとされる。
ロンデリア軍による規制の緩和が進み始めるとその効果が徐々に現れることとなった。もちろん、その速度は微々たる物であったとされる。その後、ロンデリア軍によるラジオ放送が開始されるにおよんで、ゆっくりではあるが確実に沈静化が進むこととなった。さらには、ロンデリア軍によるラジオが提供されるとさらにそれが進むこととなった。
しかし、セラン人によるものは減少するも、ラームルからの直積的な介入は減ることはなかったとされ、ロンデリア軍の被害はそう変わることなく増えていたとされる。少なくとも、産油施設の周囲で発生していたテロが、西側では徐々に減少し、警備に割く人員にも変化が現れていたといえる。セラク側に近い地域は徐々に安定化しつつあり、ラームルに近い地域では逆に増加する傾向にあったといえた。
こうしたことはやがてはロンデリア本国の知るところとなったが、一時的に対立はあったものの、セランでの政策は変わることはなかった。欧州西部のロンデリアの支配下地域では詳細は不明なれど、中東ではその政策は変わることはなかった。否、より高度なものとなりつつあった。つまり、住民の洗脳ともいえたかもしれない。もっとも、セラクやサージアではあまり効果のないものであった。
つまり、ある程度の教育を受けていれば、それに惑わされることはなかったが、そうではなければ、何らかの効果が現れるというものであったとされる。実はこの時点で、識字率においては、サージアで九〇パーセント、セラクで七〇パーセントに対して、セランでは僅かに三〇パーセントであったとされ、それはそのまま教育の程度を表してもいたといえるだろう。いずれにしろ、セランでは教育の程度が低かったといえるだろう。
これは移転前の世界でも見られることであったが、この世界での教育制度は移転前の過去にも欧米列強によって行われていたとされる。それを思えば、日本が領土として台湾や朝鮮半島では独善的な面もあったが、基礎教育は行われていたと考えられるのである。それが現れているのがこの世界での日本の影響国であるといえた。程度の差こそあれど、小学校程度の教育は基本的にすべての子供に対して行われていたといわれるからである。
ともあれ、セランでのテロは減少の傾向にあり、セラン国内での対ロンデリア意識は改善されつつあった。これは日本や瑠都瑠伊にとっても良い結果であり、日本に対するテロの発生をも防ぐことが可能といえたからである。また、ラームルに対しては、日本への意識よりもロンデリアに対する意識の方が増強されていたからでもある。とはいうものの、ラームルでの日本に対する感情はそうすぐには変わらないだろうという別の意見も聞かれる。
一時的にしろ、日本に対する感情が鈍化したのは日本にとっては今後の関与がやりやすくなったといえるだろう。そして、このころによく言われるのが、セランを独立、たとえ、ロンデリアの影響下であっても、させることでセラクとラームルとの間の緩衝地帯にする、という考え方であったとされる。南にはパーゼルがあるため、直接的に日本と接することはないだろう、という意見も出ていた。
そうすれば、仮にパーゼルから最新の兵器の流出があったとしても、まず、セランに向けられるであろうし、ワンクッション置くことで、セラクでの対応がより容易になり、被害の増加を防ぐことが可能であろう、とされたからである。現状で、ラームルから外に出るにはセランを通過するほかないからである。そう、偶然にしろ、この時点でラームルを内陸部に封鎖することができていたのである。インデリアの情報は少ないが、それでも、ラームルとは相容れない宗教による国家であることだけはわかっており、いかにラームルとはいえ、簡単には打破できないはずであった。
東ではシナーイ民国があり、反ラームルに傾いている地域を突破することは不可能であろうと考えられた。かの地域はインデリアに倍する国土面積を有していたからである。逆にいえば、シナーイ民国西部を発展させるのは相当に難しいだろう、とされていたのである。さらに、東北にはシナ民国があるため、もしもの場合でも、ウェーダンやリャトウ半島にまでは安易に到達できないといえた。
ただし、日本や瑠都瑠伊においては、ラームルを攻め滅ぼすつもりはなく、自身の影響国に害が及ばなければそれでよかったといえる。もし、害がおよぶようなら、そのときに考えれば良いともいえた。狂信的な一神教は日本にとっては受け入れられないものであったからであろう。それ以外の宗教については、日本は受け入れるつもりであったといえる。これまでも、ラーム教以外の宗教には一切関与しておらず、信仰の自由、それが日本の立場であったといえた。