戦乱渦巻く中東
ロンデリアがセラン神聖帝国領で戦闘状態にあるころ、セラクとの国境に多くの難民が終結していたことは述べたが、その難民を追ってロンデリア軍が終結したため、周辺の緊張感は急速に増すこととなった。こうなっては殺戮を望まないセラク共和国側が動かざるを得なかったといえた。難民を自国領内へと引き入れ、難民キャンプを造成したのである。結果的にこれがさらに周辺の緊張感を増加させ、セラクと安全保障条約を締結(公式には公表されていない)している瑠都瑠伊としては介入せざるを得ない状態となった。
他方、ほぼセラン神聖帝国領を占領していたロンデリアであったが、このころには石油の産油施設と積出港を含めた一部地域を確保するまでに縮小していた。これは自爆テロの被害を恐れたが故のものであったとされる。ただし、西側、つまり、セラク側に関してはそうではなかった。つまり、セラク共和国との境界線まで接近したため、第三六師団隷下の一個連隊が展開することとなった。とはいえ、移転前でいうところのシャットゥルアラブ川が境界線とされているため、二つの橋を除けば侵略される可能性は少ないといえた。
この川は先年まで水が流れてはおらず、簡単に渡河できていたが、ローレシア出現時の地震により、上流から流れ始め、現在では川幅五〇mにも達していた。双方にとって重要な真水の供給地であるためか、この川の近辺では戦闘は引き起こさないという暗黙の了解みたいなものが出来上がっていたのである。南北にかかっている二つの橋も、粗末なものであったが、十分な幅を持ち、唯一の交易路ともいえた。第三六師団隷下の連隊は一個大隊ずつ二つの橋に展開、連隊本部と残る一個大隊はペルシャ湾岸に展開することとされた。
難民キャンプは鉄条網で仕切られ、難民は自由にセラク側を移動することは許されなかったが、川向こうのセラン神聖帝国側へは自由に移動することが許されていた。これはセラク側が(実際は瑠都瑠伊側が)テロの侵入を恐れたものといえ、そのための処置であった。
皮肉にも、これが瑠都瑠伊とロンデリア両国の軍人によるまともな接触となった。これまで、海空軍では対話はなされていたが、陸軍においては上級司令部以外ではなされることはなかった。つまり、現場での高級軍人、その多くは少佐や大佐といった佐官で、まともな対話がなされたといえる。もちろん、瑠都瑠伊だけではなく、セラク軍人との対話もなされているが、こちらはロンデリアのほうで極力避けているようであったといわれる。もっとも、対峙しているのは瑠都瑠伊の部隊だけではなく、その横にはセラク軍各一個連隊が対峙塩ていたとされる。
幸いにして、双方による対話により、この川、名をペルシャン川という、を境界線として、双方とも移動しないことで合意することとなった。むろん、現場での話しであって、両国、特にロンデリアが納得しているわけではなかった。つまり、このことからもいえるのが、ロンデリア側としては日本以外の国、サージアやセラク、パーゼル、アゼルやトゼルといった原住系国家の存在を容認していないことがわかったのである。これは、この境界線に第三六師団隷下の部隊が存在しなければ、境界線を越えての侵攻がなされていた可能性高いといえた。
不幸にも、このことが各国で報道され、トルトイやナトル、ウゼル、キリール、ウェーダンでは反ロンデリア感情がわきあがることとなる。また、ローレシアではより悪感情が高まることとなった。いずれも、瑠都瑠伊において若干の交流がなされていたものの、これが完全に途絶えることとなった。さらに、ロンデリアから分離された瑞穂国でも報道されて問題とされた。北米では若干の差があったものの、瑞穂国と似た感情を抱かせていた。イスパイアにおいても、ローレシアと同様、というよりも、もっと悪感情が高まることとなった。
とはいえ、現場での兵士間では若干の差異が見られることとなる。少なくとも、中東での下級将兵においては、相手を尊重している節が見られた。これは対テロ戦を戦っていたからともいえるし、元々、軍と政府との関係が悪かったのか、いずれにしろ、若干の対応差があったのである。とはいえ、これらは各国で報道されることはなく、ロンデリア本国からの報道がすべてを決してしまったといえるかもしれない。つまり、この時点でロンデリアは孤立していたといえるのである。
そうして、交流の結果として、これまで知られていなかった情報が判明することとなった。このころ、ネーランドという単語がよく聞かれていたのであるが、一部の軍人からは侮蔑の意味をこめて言われていることがわかったのである。その将校、陸軍大尉たった、の話では、元々が別々の国であったが、ネーランドによるロンデリア統合という話してあった。つまり、ネーランド王国がロンデリア王国を併合し、後に発生した大規模な反乱の結果、ネーランド王国はロンデリア王国と名乗り、軍の反乱を恐れるあまり、あらゆる軍装備をロンデリアのものに改めた、というのである。
これを聞いた瑠都瑠伊の沢木知事などは、オランダによる英国統合の結果かしら、と呟いたものである。移転前にはさぞかし問題が多発していたと思われるが、移転、という事件がそれを留めていたのかもしれない。ならば、瑞穂国や北米に渡ったアメリカ連合国移民はなぜそれを語らなかったのか。理由は簡単で、彼らにとっては当たり前のことで、それを語るものではなかったのと、反ネーランド派にとっての父祖の地が移転しなかったためと思われるからである。
もっとも、小さくない波紋も起こっている。英連邦国系に混じってソロモン諸島に入植していたオランダ系住民の言動であった。とはいえ、彼らとて、英連邦系というよりも、日本の支援なくしてなんら行動を起こせないことから、やがて沈静化することとなった。結果として、英連邦国での彼らの地位が若干下がったともいわれる。しかし、日本にとっては些細なことであり、問題にすらしなかったし、調停に入ることもしなかった。
件の将兵によれば、彼らの世界での第一次世界大戦において、ロンデリアは国庫は追い込まれ、当時の国王の妹が嫁いでいたネーランドからの支援により立ち直ったが、当時、多くの殖民地を担保として差し出す羽目になったのだという。そして、支援という名の借金返済を終えたころ、植民地はロンデリアに返還することが不可能なまでの状態になっていたという。続いておきた第二次世界大戦、それに続く大地震においてロンデリア本国は壊滅状態にいたり、国王を含めて多くの人々がネーランドへの移住を余儀なくされていたのだという。その後に起こったネーランド系政府により、政策が覆され始めたところに移転という大事件が起こることとなったのだという。
この移転により、ネーランド王家が居住していた地域は移転せず、ロンデリア王家が居住していた地域が移転、しかし、住民構成はネーランド系が六〇パーセントを占めていたため、国王の権威が形骸化し、住民の多くから見放される状態であったというのである。国王に忠誠を誓うのは僅かな軍人だけであったようだ。中ロンデリア大使館の職員に対しては、厳重な緘口令が敷かれていたため、情報として流出しなかったのではないか、そう締めくくったのである。
もっとも、日本にとっては背景はともかくとして、平和的な付き合いさえできていればよく、あまり突っ込んだ情報収集はなされなかったのかも知れない。当時はイスパイアとの問題、プロリアの問題、シナーイ内戦と混乱が続いていたこともあり、日本の貿易相手たる先進国と平和的に接触できたということで満足していたのかもしれない。いずれにしても、いまさら、という情報であったといえる。現状では、日本の多くの貿易先はローレシアと、急速な改革がなされているイスパイアに向いており、さらにはロンデリアの影響から脱しつつある瑞穂国や合衆国主導で統一された北米にあったからであろう。
それに関係が良いとはいえない他国に干渉すれば、内政干渉と逆に悪感情を持たれかねない。そういうこともあって、ロンデリアに対しては、相手なりの対応が成されることとなると思われた。もっとも、ローレシアやイスパイアが存在しなければ、また違った対応を取っていたかもしれない。つまり、日本にとっては今のロンデリアとの関係は戦争にさえいた蘭ければ、どうでもよいものであったのであろうと思われた。
話しがそれたが、こうして、中東で対峙することとなった日ロンデリア軍であったが、その感情に対してはまったくといってよいほどの差があった。日本というよりも、瑠都瑠伊では対ロンデリア戦争発生を何よりも恐れていたこともあって、緊張感が凄まじいものであったとされる。対して、ロンデリア側ではすでに戦争状態であり、多くの兵が欧州全土の現地住民やロンデリア系将兵であったため、緊張感など欠落した状態であったとされる。もっとも、現場で対峙している将兵はまた別であったかも知れない。
日本としては、ラームルに敵対視されるのは避けなければならないとされており、極力、接触は避けたい相手のひとつであるといえただろう。現在、ロンデリアに対して行われているテロ行為を日本に向けさせないための対策が重要であり、瑠都瑠伊方面軍や本国の有識者が日本政府に対して進言している状態であった。特に、瑠都瑠伊としては、同じようなテロ行為が瑠都瑠伊で実行されることを恐れていたといえた。それこそ、移転前のアメリカで発生した同時多発テロのようになる可能性があり、米国対アラブという、似たような状態になることだけは避けなければならなかったといえるだろう。
このあたりのことは総理大臣も理解しているようであったが、一部閣僚の無知ぶりが問題とされており、政府全体としては混乱の状態にあったといえたかもしれない。この時点では、閣僚を含めた文官よりも軍人のほうが事情を理解しており、何とか抑えている、そういう状況であったかもしれない。そして、総理大臣は閣僚を三人更迭したところで解散総選挙に追い込まれる状態になってしまったのである。