泥沼の中東
瑠都瑠伊がもっとも恐れた欧州での戦闘は二月の時点では発生していないが、中東では大掛かりな戦闘が発生することとなった。もちろん、その戦いにおいて瑠都瑠伊は一切関与していない。中東に進出したロンデリアとラームルの戦いがそれである。そして、瑠都瑠伊は人道的な面から関与、むろん、戦闘ではなく、後方でのことで、介入をしなければならなくなってきているといえた。沢木知事は今村の進言を受け入れつつもまだ、関与にゴーサインを出してはいなかった。なぜなら、ロンデリアとの会談がそれを許さない状況だったのである。
当初、戦いを有利に進めたのはロンデリアであった。日本より遅れているとはいえ、ラームルよりも進んでいたから当然であったかもしれない。さらに、航空戦力を持たないラームルを空爆することでより戦いを有利に進めていた。これらは常にペルシャ湾上空に上がっている電子戦機による情報からも明らかであった。一月終わりにはセラク神聖帝国領土をほぼ占領、影響下においていたのである。もっとも、これにより、一般国民の多くはセラク共和国との国境を越え、難民として流入することとなったのである。セラク神聖帝国領土には占領者たるロンデリア人とラーム教の影響下から脱しきれない人々のみが残ることとなった。
そういうわけで、瑠都瑠伊としてはセラク共和国に対する支援が必要とされたのである。食料や医薬品、日常品といった物資はセラク共和国にはそう多くは備蓄されていなかったからでもある。セラク共和国首班であるフセールにとっては、過去に自らも経験した難民として流入する同胞を阻止するすべがなかったのであろうと思われた。とはいえ、フセールも国境から一〇km以上侵入させることはなかった。幸いといえたのは、難民の多くが北部と何部に集中したことで、あったかもしれない。もし、そうでなければ、飲料水も多量に用意しなければならないところであったかもしれない。
他方、占領したロンデリアは本国から多量の土木機械類と人員、その多くは欧州や北アフリカの原住民であろうと思われた、を投入し、海岸部の開発に着手、同時に各地で資源調査を行っていたようであった。そうして多量に簡易住居を建設し始めた。それは日本のプレハブ式に似てはいたが、もっと簡素化されていると思われるものだった。つまり、本当の意味で雨風雪を防げればよいというもののようであった。そうして、二月の終わり、ペルシャ湾上空にあった電子戦機が瑠都瑠伊方面軍司令部に恐れていた情報を伝えてくることとなった。
それは、ペルシャ湾最深部から北東に一〇〇kmの内陸地点で石油産出、という情報であった。むろん、この点では原住民や投入された多くの人員が強制的に労働に付かせていたことも確認されていた。さらに三月終わりには粗末ながらも産出施設が建設されてもいた。少なくとも、瑠都瑠伊や日本から見れば、相当な無茶をしているとされる状況であった。瑠都瑠伊ではまず行わないやり方であり、設備も第二次世界大戦ごろに東南アジアで使用されていたような設備であったからである。ともかく、ロンデリアにとっては待望の自国領土での資源産出といえたかもしれない。
しかし、ここからがロンデリアにとっては地獄といえる状態であっただろうと思われた。このころから、ラームルの影響下にある地域に逃れていたラーム教徒が驚くべき方法で活動し始めたからである。特に、英米仏にとってはその記憶を揺さぶる出来事であったかもしれない。移転前の世界各地で起こった自爆テロがそっくり再現されたからである。しかも、それは移転前の某宗教によるものを遥かに凌ぐ恐ろしいものであったといわれる。たとえば、一〇歳程度の少年がロンデリアの施設や設備内に入り、身体に巻いていた爆薬を爆発させたり、もう歩くのがやっとといえる老人がロンデリア軍のトラックや高機動車を止めて自爆したりという具合であった。
おそらく、この世界に現れる前のロンデリアには経験のない出来事であったのかもしれない。彼らは占領して少し脅せば自分たちに従うだろう、そう考えていたかもしれないが、実際はそうではなかったのである。むろん、現地のロンデリア軍は報復として、彼らの根拠地とされている街や村を空爆しているが、その後もそれは続くこととなった。こうして、四月の終わりには、ロンデリアの投入した人員の四割、その多くは強制労働に付かされていた住民であり、兵士ではなかった、が犠牲になり、持ち込んだ多くの土木機械も破壊されてしまうこととなった。それでも、唯一の産油施設と輸送ルートは確保されていた。これら地域には相手が何であろうと近づくだけで攻撃を受けていたようである。
瑠都瑠伊や日本、その他の国にしてみれば、費用対効率が悪すぎ、それならば、セーザンやセラージから輸入したほうが格安で安全であろうとされたし、ロンデリア側にも忠告されてもいた。しかし、ロンデリアはそれを受け入れることはなかった。いったい、何がロンデリアにそこまでやらせるのか理由がわからない、というのが瑠都瑠伊や日本、その周辺国の想いであっただろう。
瑠都瑠伊や日本はロンデリア側にたっての介入は一切行わず、難民が流入したセラク共和国側にたっての支援のみ行われた。そもそも、ロンデリアの側に立って介入する理由がないし、仮に介入した場合、ラームルの標的が瑠都瑠伊や日本になる可能性が高かったからである。そんなことになれば、とりあえず安定しているセーザンやセラージにその害が及ぶことが考えられたからである。もし、そうなれば、瑠都瑠伊や日本の資源の輸入が滞る可能性もあったからであろう。
実はそれ以外にも理由があったといえる。このころには、シナーイ大陸北部の各国やサージアやセラク共和国ではラジオが普及しており、セラク神聖帝国でのテロ事件が大々的に報道されることが多かったが、一部の地域、キリールやウゼル、トルシャールでの反日デモが発生したことにあった。むろん、規模そのものは小さいものであったが、反日デモが発生した、そのことが問題であった。もちろん、日本や瑠都瑠伊が関与してきたこれまでを振り返っても、すべてが日本を受け入れているわけではなく、少数ではあったが、反日感情を持つものを生んでいたのは事実であった。キリールやウゼルでは王政が倒れたことにより、多くの親王政の人物や貴族がその地位を追われており、トルシャールでは反瑠都瑠伊派の政治家がその地位を追われてもいたからである。結局は国の改革にはすべての賛成が得られるわけではなく、反対派も生むということであろう。
結局、日本や瑠都瑠伊としても、ここで反日感情を大きくするわけにはいかず、誰もが納得すると思われる難民に対する支援に衆知するしかなかったといえる。いわば、カウンタープロパガンダともいえる。日本はあるいは瑠都瑠伊では戦争の被害者には支援を惜しみませんよ、というアピールであった。そうして、反日感情を和らげるしか、今のところ行動を起こさせない方法がないといえた。ちなみに、この後も同様の報道は続けられるが、ロンデリア側にたった報道は行われず、たとえば、ロンデリアの瀕死の重傷者受け入れた、という場合、日本本国や瑠都瑠伊、波実来では報道されるが、それ以外の地域では報道されることはなかったといわれる。
もっとも中東というよりも、紛争地に近い瑠都瑠伊では特に注意が払われたとされる。とはいうものの、瑠都瑠伊は日本であるから、報道の自由が保障されているわけで、すべてのメディアには当てはまらなかった。特に、ゴシップ系のメディアでは報道されていたといえる。このころには、移転前の日本であった政治家と報道関係者の関係と似ていたといえる。それまではそのようなことはなく、報道各社にすべてゆだねられていたといわれている。いずれにしろ、ある程度の行政の要請を受け入れる報道関係者が多くなっていたというのが実情であった。
しかし、このロンデリア対ラームルの紛争が思わぬ事態を引き起こすこととなった。ラームルやセラン神聖帝国、シナーイ帝国の残党がロンデリアと同時に日本を標的とするようになっていくことであった。これまで、シナーイ大陸で順調に勢力拡大をしていたラームルにとって、日本が出現してから逆に勢力を縮小しているわけで、彼らの中に日本という単語が刻まれることとなったのである。今すぐではなくとも、将来的に必ず問題となるはずであった。というのも、日本の情報が一般には何も知られ手おらず、その名前だけが知られている状態であったからである。
そういうこともあって、ロンデリア対ラームルの紛争、瑠都瑠伊では戦争ではなく、紛争と称していた、に介入することはなかった。それこそ、介入するにはそれなりの覚悟の必要な事件といえた。ちなみに、周辺の移民各国、特に英米仏からは介入の必要性を説く意見もあったとされるが、当のロンデリアから何の要請もないのでは動きようがなかったといえる。これが逆に先進国や日本の影響国で日本の地位の向上を見ることとなったとは皮肉な話しであったかもしれない。