国内情勢
移転後の日本国内情勢はどうであったか、といえば、不況が増大していたといえた。輸出がまるで不可能であるため、多くの企業は業務停止に追い込まれ、倒産が増加していた。自動車、家電、といった業種が打撃を受け、多くの中小企業もそのあおりで業績が悪化、倒産に追い込まれていた。いわゆる工業生産はほとんど停止状態であったといえる。
そんな中にあって、南原総理の政策変換、農業および漁業重視により、農業は優遇されることとなったのである。移転前に、農業に対する興味が向上していたことから、農業を始めるものが多く、そういった転向組を政府は支援したのである。また、輸入に頼っていた農産物の生産を優遇したため、ある程度の国内生産が可能だと推測されてもいた。結果として、都会離れがすすみ、人口過疎地域への新規人口流入により、地方自治体の税収が増加する見込みであった。
漁業においても、当初はこれまで普通に水揚げされていた魚種が捕れるかどうか危ぶまれたが、一ヶ月にわたる調査の結果、特に変わりがないとの判断が下された。そして、こちらも燃料が優先的に回され、ある程度の漁獲高は確保されるにいたった。ただし、遠洋漁業については禁止されることとなった。また、各地の漁協統廃合が予定され、漁師の生活向上もあり、こちらにも新規希望者が殺到することとなった。
このとき、和歌山県において、鯨が多数沿岸部に押し寄せていることから、鯨漁が盛んに行われていた。むろん、一部の在日外国人からの反発はあったものの、政府の後押しと食糧問題解決のひとつの方策として鯨漁が奨励されていた。その後、同様のことは太平洋側(あえてそう呼ばれていた)の各地でも行われるに至っていた。
物流においても、食料および日常品のトラック輸送に優先的に燃料が回されることで、国民の食料事情は大幅に低下したといえ、確保されることとなった。つまり、衣食の確保が第一とされたのである。対して、工業製品などは物流も低下状態にあった。停止されたわけではなく、その頻度が大幅に減ったことで、納品まで日数を有することとなった。これは鉄道輸送にシフトされたためであり、貨物集積地からのトラック輸送が制限されていたことにある。
南原政権の迅速な政策変換により、食料事情はかって予想されたほどの悪化は見せていなかった。もちろん、今後においては不明ではあったが、少なくとも、配給制などとはならないだろう、そう予測されていたといえる。むろん、食料加工品などにおいても優遇されることになり、それなりの処置がとられることとなった。
そういうわけで、国内治安は今のところそれほど悪化しているわけではなかった。問題とされたのが、一時的な日本国滞在者であった。観光客、ビジネスマン、出稼ぎ労働者などを含めれば相当な数に上った。彼らに対する処置が重要問題とされたのである。少なくとも、在日外国人(韓国人および朝鮮人含む)の場合は生活手段を確保しており、それほど問題とはならなかったが、一時的滞在外国人においては問題であった。生活手段を消失していたといえるからであった。これは未だ解決されていない。
一時的に観光ピザでの労働を認めたものの、肝心の求人がなかったからである。食料加工業は低調であっても、それなりに操業が維持されてはいたが、彼ら一時滞在外国人を受け入れる余裕はなく、結局、各大使館からの補助に頼らざるを得なかった。日本政府は各大使館に一時的に低金利での資金提供を行っており、大使館ではそれを使って自国民の保護に充てていたといえる。そうして、何とか最低限の生活が保障されていたのである。
国際的な問題については各国大使により、急遽設立された在日国連、常任理事国として日米英仏露五ヶ国によって合議されることとなった。これが確立されたのは移転後一ヶ月が過ぎた頃であった。なぜロシアが入っているかといえば、この世界にそれなりの民間人が滞在していたからである。そう、千島列島が存在したため、仕方がなく常任理事国としたものであった。
当初、各国、特に米ロが滞在地の自治権を要求するなどの騒ぎがあったが、それは回避されていた。南原が食料および燃料など生活必需品の供給を拒否したからである。その代わりとして、この世界の情勢が確認され、移住可能な土地が確保されれば、自立可能になるまで(最長で五年間とされた)日本国が支援する、ということで妥協していた。これを特にロシアと中国、韓国が支持した。米国は消極的賛成という立場をとった。
日本政府が発表した西の大陸情勢に真っ先に反応したのは中国大使館であった。しかし、政府は敵対国家が存在するために安全は保証できないこと、さらに、軍の派遣を拒否したため、一応の沈静化をみた。韓国大使は移転前の自らの国と同じような半島が存在することで、その調査を要請してきていた。中国大使も、自らの祖国と同様の地域が存在することで調査を要求してきていた。ロシア大使はカムチャッカ半島が存在しないが、ロシア極東域と同じ地域の調査を要求してきていた。米英仏は沈黙を守り、あえて表向きは行動をすることはなかった。
その二日後、再び日本政府からの発表があった。それは、日本政府が在日米軍に依頼する、という形で実施された調査であった。北の大陸および南の島の航空偵察(SR-71<ブラックバード>による)の結果であった。北の大陸は移転前に比べて、約一〇〇〇kmも南にあり、大陸東部の南では夏の今は一面草原であることが判明、さらに、集落などは発見されず、無人であることが発表されたのである。そして、南の島はフィリピンが一つの島、インドネシアがひとつの島になり、フィリピンの面積はほぼオーストラリア大陸の一/三に匹敵、インドネシアは二/三に匹敵し、双方ともその多くが密林であり、こちらでも集落は発見されず、無人であろうと思われる、ことが発表されたのである。
もちろん、これらが発表されたのは、ロシアの目を北の大陸に向けさせるためのものであった。千島列島にどれほどのロシア軍が滞在するのかは不明であるが、北海道などに上陸されてはたまらないからでもある。できれば、北の大陸に移住してほしい、というのが日本政府の本音であっただろう。もっとも、資源などについては未だ未調査であるため、今すぐには無理であろうが、何かの資源が確認されれば、すぐにも出て行ってもらいたい、そういう思惑があったのかもしれない。
事実、政府、外務大臣とロシア大使との会談では、将来的に千島列島のロシア人住民による開拓と自立まで支援することを約束し、この世界で千島列島あるいは北方四島の日本への割譲(ロシア側は自己の領土としているための表記)を条件に、それ以後、さらに五年間の支援を約束してもいた。むろん、これは公表されることはなかったが、覚書が交わされてもいた、正式なものであった。細かな内容はそのときになって決めることとされた。
少なくとも、政府(ここでは駐日大使館員を指す)に統制された米国とは異なり、日本のロシアに対する脅威感はそう簡単には拭えないものだといえた。そして、次に問題なのは、中国と韓国(在日韓国人を含む)、在日朝鮮人であっただろう。これを何とかしなければ、南原政権としては安心できるものではなかったのである。とはいえ、こちらはそう簡単に済む問題でもない。少なくとも第二次世界大戦後、三世代以上にもわたって日本に住んでいたからである。
かといって、現時点で彼らを国外に出すことも不可能であり、当然として、自立できるまでの支援は必要であろうし、在日米軍に支援を要請することも避けねばならない。米軍に貸しを作るということは、今後の日本を危険な目に合わせる可能性が高いと考えられるからである。少なくとも、移住開始までは日本主導で行う必要があった。
要するに、単一民族国家とはいえ、少なくない外国人が滞在するわけで、日本だけがこの世界に現れたことが問題なのである。むろん、南原とて国粋主義者ではない。今後を考えて、日本国が日本国として一つにならなければ、この世界で生き残ることができない、そう考えていたのである。そのため、時が来れば、ロシアに対して行った提案と似たことを行うつもりであった。そうして、日本国を立て直す必要があるのが現状であった。
そして、パーミラへの開拓団の募集もあわせて発表されていた。峻厳な山脈の手前であるパーミラはシナーイ帝国とやらの勢力のおよばない地域であり、仮に侵略を受けたとしても、十分に開拓民に安全を保障することができたからである。ウェーダンにおいては、少なくとも住民がおり、シナーイ帝国とやらの脅威を除かない限りは交渉すらままならないし、現状では、代表者すら確認できていない。そのため、現地を確保し、改めて交渉することになろう、と思われた。もっとも、鉄の存在の可能性があるならば、先に調査しておくことは必要であった。
結局、日本からの無断出国(移転後すぐに漁船を盗んで大陸に渡ろうとする事件があった)は避けなければならないのが現状であった。そのため、日本海軍や新たに防衛省傘下に組み込まれた海上保安隊(旧海上保安庁)による警戒および監視が必要であった。つまり、外国からの侵入ではなく、日本からの進出がその主な任務と化していた。それがなにより、日本の現状を表していたといえる。
なお、ラーム教という宗教に対して、日本政府はかって地下鉄サリン事件を起こした宗教教団と同列であるとして、攻撃を受けた場合には防衛のため、無条件での反撃が許可されることとなった。つまり、このときにはラーム教の経典を入手し、解読され、公表されていた。多くの国民はその対応に異議を唱えるものではなく、攻撃を受けた場合の反撃には容認の方向であった。
日本国内の状況はそんな危うい、崖っぷちにある状態だといえた。ある程度の期間はこの状態を維持し、問題をひとつひとつ解決していくしが方策がない状況であるといえた。そして、その解決方法としてもっとも重視されたのが移民政策であったのかもしれない。それは、ロシアや中国、韓国に対するその後の対応でも明らかであった。