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議題:小さな善意(中編)

 「くだらない」と言った。


 でも、最初の会議のときに言っていた「くだらない」と、響きが違った。

「くだらないというのは、具体的にどのあたりが?」と結人は言った。

「こんな小さなことで、世界がどうなる」とベルフェゴールは言った。


「滅亡まで九十五パーセントの確率で進んでいる文明が、財布を届けることで変わるのか。環境破壊が財布一つで止まるか。戦争が横断歩道の手助けで止まるか」

「変わらないと思います」と結人は言った。


「ならくだらない」

「変わらないことと、くだらないことは、別だと思います」

「どう違う」

「財布を届けても、戦争はなくならない。環境破壊も止まらない。それは事実だと思います。でも、財布を届けた人間は、何かをやった、という事実が残る。それを受け取った人間は、助けてもらった、という事実が残る。その二人の関係に、何かが生まれる」

「何が生まれる?」


 結人は少し考えた。

「信頼、とまでは言えないかもしれない。でも……世界の手触り、みたいなものが、少し変わる気がします。世界というのは、こういう感じのものだ、という感覚が、少し変わる。怖いものじゃない、という実感が、少し積み重なる」

「感覚など、数値化できない」

「できないですね。でも感覚が変われば、行動が変わることがある。財布を届けてもらった人間が、今日誰かに優しくするかもしれない。今日優しくされた人間が、明日誰かに親切にするかもしれない。その連鎖は、数値化できない」

「バタフライエフェクトのような主張だ」

「そこまで大きな話をしようとしているわけじゃないです。ただ、傘を渡してもらった人間が、その日の夕方、誰かに少し優しくなる可能性はある。それだけのことかもしれない。でも、それだけのことが、毎日数億件起きている」

「証明できるか?」

「証明はできないです。でも、否定もできない」

 

 ベルフェゴールは映像を見ていた。

 横断歩道で老人を支えた若い男性の映像が、もう一度流れた。


 五秒の映像だ。何もないように、普通に起きた出来事だ。特別な人間が特別なことをしているわけじゃない。その辺にいる、どこにでもいる人間が、ちょっとだけ足を止めて、腕を貸した。それだけだ。


「これ一つで、世界が変わるとは思わない」とベルフェゴールは言った。

「そうですね」

「でも」と続けた。


「これが億の単位で起きているなら」

「そうです」

「……計算が複雑になる」

「複雑になります」と結人は言った。


 ベルフェゴールは少し間を置いた。

「アトラス」

「はい」

「善意行動の増減トレンドはどうなっている。過去五十年のデータで」

「観測期間五十年のデータで言えば」とアトラスが言った。

 「減少傾向にあるものと増加傾向にあるものがあります。概して、匿名の善意は増加、知人間の善意は微減傾向にあります」

「匿名の善意が増加」と結人は繰り返した。


「それは意外ですね。世の中が冷たくなっているとよく言われるけど」

「SNSや匿名の寄付プラットフォームの普及が影響していると考えられます。知らない誰かのために何かをする、という行動は、むしろ増えています。遠くで起きた災害への募金、見知らぬ人の医療費を支援するクラウドファンディング、翻訳ボランティア、フードバンクへの食料寄付——こういった行動が、顕著に増加しています」

「それはSNSの議題で言ったことと繋がりますね」とラファエルが言った。


「SNSは悪化の道具でもあり、善意の回路でもある。同じものが、正反対の方向に働く」

「両方ある」

「人間はいつもそうです」とラファエルは言った。


「一つのものに、相反する可能性を持ち込む。それが人間の特徴だと思います。良いものを悪くも使えるし、悪いものを良くも使える。道具の問題というより、それを使う人間の在り方の問題で——でも、その在り方が一定ではないから、どちらにも転べる」

「転べる、というのは怖くもあるけど」と結人は言った。


「そうですね。でも、固定されているよりはいいと思います。固定されていたら、変われない」

「変わる余地がある、ということですね」

「そういうことです」


 


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