第9話「過去の亡霊と現在」
木製のテーブルが微かに震え、酒場の空気がひび割れるような緊張に満ちていた。
シリウスの手のひらで渦巻く赤い炎が、周囲の空気をチリチリと焦がしている。その熱量は、ただの威嚇にとどまらない。一歩でも踏み出せば、この場にいる全員を消し炭にするという明確な殺意を孕んでいた。
「……正気か、貴様。ヴァンダル家に刃向かうことがどういう意味を持つのか、理解しているのか」
先頭に立つ私兵の男が、剣の柄を握る手に力を込めた。額には脂汗がにじみ、その声はかすかに上ずっている。彼らが放っていたアルファ特有の威圧感は、シリウスの暴力的なまでの魔力の前に完全に掻き消されていた。
ルークは、シリウスの隣で静かに息を整えた。
心臓の鼓動はまだ早いが、指先の震えはすでに止まっている。かつてなら、一族の紋章を見ただけで思考が停止し、床に這いつくばるしかなかった。だが今は違う。隣に立つ不器用で強大な魔術師の体温が、ルークの背筋を真っすぐに伸ばしてくれていた。
「理解しているさ。お前たちが束になっても、俺にはかすり傷一つつけられないという事実をな」
シリウスの冷ややかな宣告が響く。彼が炎を纏った右手をわずかに前へ突き出すと、私兵たちは反射的に半歩後ずさった。
「や、やめろ……! 我々はレオン様の使いだぞ!」
「使いなら、さっさと尻尾を巻いて主人に報告に帰れ。ルークの居場所は、ここだ」
シリウスの目が、氷のように冷たく細められた。
その瞬間、酒場の奥に潜んでいた冒険者たちの中から、くすくすという嘲笑が漏れ始めた。普段はふんぞり返っている名門の私兵が、たった一人の魔術師を前に怯えている様が滑稽に映ったのだろう。
屈辱に顔を歪めた私兵たちは、これ以上ここにとどまるのは得策ではないと判断したのか、舌打ちをしながら踵を返した。
「……覚えておけ。レオン様が直々に動けば、お前たちなど瞬きする間に消し飛ぶぞ」
捨て台詞を残し、重いブーツの音を立てて彼らが酒場から去っていく。
扉がパタンと閉まると、張り詰めていた空気がふっと緩み、店内に再び喧騒が戻ってきた。
「大丈夫か、ルーク」
シリウスが手のひらの炎を消し、振り返る。その顔には、先ほどまでの冷酷さは微塵もなく、ただルークを案じる不器用な優しさだけが浮かんでいた。
「あ、ああ……助かったよ。でも、これで完全に目をつけられた」
ルークは安堵の息を吐きながら、椅子にどさりと腰を下ろした。冷や汗でシャツが背中に張り付いているのが不快だった。
「気にするな。ヴァンダル家だろうが王家の騎士団だろうが、俺とお前がいればどうとでもなる」
シリウスは当然のように言い切り、自分のジョッキの残りを一息に飲み干した。その姿があまりにも堂々としていたため、ルークの口元には自然と笑みがこぼれた。
『この人は、本当に俺のことを対等なパートナーとして見てくれているんだな』
胸の奥がじんわりと温かくなる。
出来損ないと蔑まれ、空気のように扱われてきた過去の亡霊が、少しずつ形を失っていくのを感じた。
「そうだな。どんな敵が来ても、あんたの魔法と俺の防御があれば負けない」
ルークが力強く頷くと、シリウスは満足そうに口角を上げた。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。
私兵たちが去ってから数日後。ギルドで依頼の確認をしていた二人の耳に、信じがたい噂が飛び込んできたのだ。
「おい、聞いたか。西の平原に、巨大な飛竜が現れたらしいぞ」
「ああ、しかもその飛竜を単騎で討伐に向かった奴がいるって話だ」
「誰だよ、そんな命知らずは」
「ヴァンダル家の次期当主、レオン・ヴァンダルだそうだ」
その名を聞いた瞬間、ルークの足がピタリと止まった。
レオン・ヴァンダル。
圧倒的な武力と、他者を平伏させる強烈なアルファの気質を持つ、ルークの次兄。彼が動いたということは、単なる魔物討伐ではない。一族の力を誇示し、逃げ出した「出来損ない」であるルークに、自分たちの手の届く範囲を見せつけるためのデモンストレーションに他ならない。
「ルーク」
隣に立つシリウスが、鋭い視線でルークを見下ろす。
「西の平原に行くぞ。あいつに、お前がもう過去の亡霊に縛られていないことを証明してやる」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
ルークは深く深呼吸をし、腰の長剣の柄を強く握りしめた。逃げてばかりでは、本当の自由は手に入らない。過去と決着をつける時が来たのだ。




