第8話「獅子の足音」
ギルドでの報告を終え、二人が酒場の隅のテーブルで遅めの食事をとっていた時のことだった。
開け放たれた入り口の扉から、不意に冷たい風が吹き込んだ。
ただの秋風ではない。肌を刺すような、重くねっとりとした魔力の波動が混ざっている。酒場にいた冒険者たちのざわめきが、潮が引くようにスッと消え去った。
ルークは手の中のフォークを止めた。
心臓が、嫌なリズムで早鐘を打ち始める。この魔力の感触を知っている。背筋を這い上がるような絶対的な恐怖。呼吸の仕方を忘れてしまうような、強者の威圧感。
『嘘だろ……なんで』
入り口から姿を現したのは、銀色の重厚な胸当てを身につけた三人の男たちだった。
その胸の中央には、赤く染め上げられた獅子の紋章が刻まれている。王都の治安維持を担い、武力によって貴族社会に君臨する名門、ヴァンダル家の私兵たちだ。
彼らが足を踏み出すたびに、金属製のブーツが石の床を削るような硬い音を立てる。
先頭を歩く男の目は、フロアにいる人間たちを値踏みするように鋭く見回し、やがて隅のテーブルに座るルークの姿を正確に捉えた。
「――見つけましたよ。ルーク坊ちゃん」
低く、ねっとりとした声が酒場の静寂に響き渡った。
私兵の男がにんまりと唇を歪める。彼らから放たれるアルファ特有の威圧感が、目に見えない鎖となってルークの首を締め付けてきた。
「こんなむさ苦しい場所で、下賤な者たちと食事など。ヴァンダル家の名に泥を塗るおつもりですか」
男の言葉に、周囲の冒険者たちが不快そうに顔をしかめる。だが、圧倒的な暴力の気配を前に、誰も口を挟むことができない。
ルークは息を飲み、テーブルの下で自分の膝を強く握りしめた。
手が震えている。家を飛び出した時、二度とあの場所へは戻らないと誓ったはずなのに。一族の紋章を見ただけで、体が反射的に萎縮してしまう。自分がどうしようもなく無力な存在であることを、細胞の隅々まで思い出させられる。
「レオン様がお待ちです」
男が残酷な宣告を下した。
その名前を聞いた瞬間、ルークの頭の中が真っ白になった。
次兄、レオン・ヴァンダル。
一族の中でも最も好戦的で、冷酷な武力を持つ男。アルファとしての純度も高く、かつてルークの些細な反抗を木刀の一撃で完膚なきまでに叩き潰した張本人だ。
レオンが動いているということは、もはや遊びではない。完全に力ずくでルークを連れ戻し、一生地下牢に幽閉するつもりだ。
「さあ、お立ちください。大人しく従うのであれば、この場所を血で汚すような真似はいたしません」
私兵が腰の剣に手をかけ、一歩踏み出した。
その時だった。
ガタン、と。
ルークの目の前で、椅子が乱暴に引かれる音がした。
立ち上がったのはシリウスだった。
彼は手元のグラスをテーブルにコトリと置くと、ルークの前に立ち塞がるようにしてゆっくりと歩み出た。
黒いローブの裾が翻り、酒場の空気が一気に張り詰める。
「……何者だ、貴様」
私兵の男が怪訝そうに眉間にしわを寄せる。
シリウスは何も答えない。ただ、彼の足元からじわりと広がり始めた魔力の波が、私兵たちの放つ威圧感を瞬く間に飲み込み、逆に相手の喉元へ鋭い刃を突きつけた。
空気が軋む音がする。
暖炉の火が激しく揺らぎ、床の石畳に細かい亀裂が走った。
「下賤な者、だと?」
シリウスの声は、凍りつくような低い温度を持っていた。
だが、その奥には灼熱の怒りが渦巻いている。彼から放たれるアルファとしての絶対的な覇気が、私兵たちを物理的に押し返した。
「俺のパートナーに向かって、随分とふざけた口を利いてくれるじゃないか」
シリウスの言葉が、ルークの冷え切った心臓に熱い血を送り込んだ。
目の前に立つ広くて頼もしい背中。彼は一切の迷いなく、巨大な権力を持つヴァンダル家を敵に回そうとしている。
「そこを退け、魔術師。これは一族の問題だ。貴様のような部外者が口を出すことではない」
私兵が剣を半ばまで引き抜くが、その手はシリウスの魔力の圧力に耐えきれず、かすかに震えていた。
「部外者? 笑わせるな」
シリウスは右手を軽く持ち上げ、手のひらに圧縮された赤い炎の球を生み出した。
酒場の中が、一瞬にして真夏のような熱気に包まれる。
「ルークは俺の背中を預かる唯一の男だ。そいつを連れて行きたければ、俺の魔力ごとすべて消し飛ばしてからにしろ」
揺るぎない宣言だった。
ルークは深く息を吸い込んだ。恐怖で縛られていた体が、少しずつ自分のものを取り戻していく。
彼がこれほどまでに自分を守ろうとしてくれているのに、ただ震えて隠れているわけにはいかない。
ルークはゆっくりと立ち上がり、シリウスの隣へと歩み出た。
交わる二つの波長。それはヴァンダル家のいかなる力にも屈しない、強固な盾と矛となって、私兵たちを静かに見据えていた。




