第4話「歪な歯車が噛み合う時」
木々の隙間から、血走った黄色い眼球がいくつも浮かび上がった。
灰色のごつごつとした毛皮に覆われ、熊のように巨大な体躯を持つ岩狼たちが、低い姿勢のままじりじりと距離を詰めてくる。その数は優に十を超えていた。鋭いくちばしのように尖った牙からは、粘り気のある唾液が滴り落ち、地面の土を黒く染めている。
「ルーク、俺の後ろから離れるな」
シリウスの低い声が響く。彼が右手を軽く前に突き出すと、空気が急激に圧縮されるような重苦しい音が鳴った。周囲の温度が一気に跳ね上がり、呼吸をするだけで肺が焼けるような熱気を帯びる。
ルークは背筋を伸ばし、目を細めてシリウスの背中を見つめた。
『来る。ものすごい熱量だ』
シリウスの掌に渦巻くのは、純度の高い灼熱の魔力だ。それは周囲の空気をチリチリと焦がし、赤黒い光の球となって膨張していく。岩狼たちが本能的な恐怖を感じて後ずさるが、もう遅い。
「消し飛べ」
短い詠唱と共に、爆発的な炎の奔流が一直線に放たれた。
轟音。
視界が真っ白に染まり、鼓膜を突き破るような爆発音が森全体を揺るがした。群れの先頭にいた岩狼たちは悲鳴を上げる間もなく光に飲み込まれ、跡形もなく消え去る。炎は地面をえぐり、周囲の巨木を次々と薙ぎ倒していった。
だが、問題はその先だった。
シリウスの魔法は威力が強すぎるあまり、標的を破壊した後に凄まじい熱波と衝撃波を周囲に撒き散らす。逃げ場のない余波が、シリウス自身の背後――ルークが立っている場所へと逆流してきたのだ。
「くっ……!」
シリウスが振り返り、顔をしかめた。今までなら、ここで魔法の威力を無理やり抑え込むか、味方を庇って自分が傷を負うしかなかった。だから彼は一人で戦ってきたのだ。
しかし、ルークは一歩も引かない。
迫り来る熱波の壁に向かって、ルークは静かに両手を広げた。目を閉じ、肌に叩きつけられる魔力の波長を正確に読み取る。熱く、荒々しく、すべてを燃やし尽くそうとする破壊の力。
『この波長の、真逆の音を鳴らすんだ』
ルークの体の奥底から、冷たく澄んだ微小な魔力が絞り出される。それは水滴のように小さな力だったが、シリウスの熱波と衝突した瞬間、信じられない現象を引き起こした。
シューッ、という乾いた音と共に、ルークの目の前で熱波が霧散したのだ。
まるで目に見えないガラスの壁があるかのように、猛烈な爆風と炎はルークの数センチ手前で綺麗に二つに割れ、左右へと流れていく。ルークの髪の毛一本すら焦がすことなく、破壊の嵐は過ぎ去った。
土煙が晴れた後、無傷で立っているルークの姿を見て、シリウスは信じられないものを見るように目を見開いた。
「……本気で、俺の魔力を相殺したのか」
シリウスの唇が微かに震えている。彼の目には、単なる驚愕だけでなく、長年の重圧から解放されたような深い安堵の色が浮かんでいた。
「言っただろう。飛んでくる余波くらいなら消せるって」
ルークは肩で息をしながら、短く笑ってみせた。魔力の精密なコントロールは精神力を激しく消耗するが、自分の力が誰かの役に立っているという事実が、心地よい疲労感となって体を満たしていた。
「すごいな、お前は……」
シリウスのつぶやく声には、飾らない本音が混じっていた。
生き残っていた数匹の岩狼が、混乱しながらもルークたちの側面に回り込もうとする。だが、シリウスの顔にもう迷いはなかった。味方を巻き込む恐怖を捨てた彼から溢れ出す魔力は、先ほどよりもさらに澄み切っている。
「ルーク、次も防げるか」
「ああ。いくらでも撃ってくれ」
ルークの返事を聞くや否や、シリウスはためらうことなく両手から巨大な氷の槍を生み出した。周囲の空気が一瞬にして凍りつき、白い吐息が空に舞う。
連続して放たれる氷の礫が、残りの岩狼を次々と貫いていく。そのたびに発生する強烈な冷気の余波を、ルークは正確な魔力操作で一つ残らず打ち消していった。
完璧な連携だった。
歪な形をした二つの歯車が、互いの欠けた部分を補い合い、一つの巨大な機構として噛み合った瞬間だった。
すべての魔物を討伐し終えた後、森には冷たい静寂が戻っていた。倒れた獣たちの血の匂いと、焼け焦げた木の匂いが混ざり合っている。
シリウスは大きく深呼吸をし、緊張を解くように肩の力を抜いた。彼が振り返り、ルークに向けて歩み寄ってくる。
その瞳には、最初に出会った時の冷たさはもうない。ルークという存在を、対等なパートナーとして深く刻み込もうとする、強い光が宿っていた。




