第9章 ── 空っぽの栄光
控室は熱を帯びていた。ライトの光が天井を白く照らし、カメラの赤い録画ランプがちらつく。誰かが笑い、誰かが叫び、誰かが肩を叩く。騒然とした空気の中で、拓真は静かに座っていた。汗を拭く手つきも緩く、ぼんやりとテーピングの端をいじっているだけだ。
モニターでは何度もあのラウンドが流れている。スローモーション、解説者の熱弁、リプレイ。SNSの通知音が鳴り止まない。〈覚醒の一撃〉〈令和の神試合〉といった文字がトレンドを埋め尽くしていた。外ではファンが集まり、メディアの出待ちの人影が増えていく。箱の中の世界は熱狂でできていた。
「おい、拓真!」
トレーナーが近づいてきて、肩に軽く手を置く。目は笑っているが、その声には心配が混ざっていた。
「大丈夫か? 無理すんなよ」
拓真はゆっくりと顔を上げて、短く頷くだけだった。言葉は返さない。
祝福も、喜びも、何も拾わないようにしている。
翌朝、街は昨日の余韻で震えていた。映像は何度もリピートされ、ネットでは試合の一瞬一瞬が切り貼りされて話題になっている。人々の会話の中に「久しぶりにボクシング見たよ」「涙出たわ」といった声が混ざり、いくつかの番組は「ボクシング復権」と煽っていた。拓真の顔写真が並んだポスターが、駅の柱に貼られる。
ジムの扉を開けると、中はいつもと変わらない活気があった。だが、昨日とは違う匂いが混じっている。メディアの切り抜き、選手のコメントのはりがみ、祝電。会長がにこやかに迎え、トレーナーはやれやれと息を吐く。
「おう、昨日はよくやった。とにかく休め」
会長の声が明るい。一方で、その目には確認の光がある。拓真は相変わらず無表情で、黙ってシャドーを始める。体のキレだけが際立つ。動きの一つ一つに余計な力がなく、音は薄く、鋭い。周囲の者たちは息を呑み、うなずき合う。祝福の輪の中で、誰もがその動きに何かを感じ取っている。
その日の午後、相原がジムに顔を出した。左頬にまだ腫れが残り、口元には薄い血の膜が乾いた痕がある。だがその顔には、どこか誇らしげな笑みが浮かんでいた。彼は人混みをかき分けるようにしてリング脇まで来ると、にこにことした表情で近づいてきた。
「おお、矢崎くん。面白い試合だったな。まさか、あんな動き見せるとは思わなかったよ」
笑いながら言葉を重ねる。だが言葉の端に、突き刺さるような冷たさが含まれている。相原の目が一瞬、鋭く尖った。
「正直さ、俺は最初からさ、お前みたいなの――嫌いだったんだよ。リングに上がったのは、本気で──」
そこまで言って、相原は口角を引き上げる。ニコニコした表情が、皮肉にも不気味だ。言葉はそこで切れ、代わりに彼はゆっくりと続けた。
「でもさ、これで世間がまたボクシングに注目するなら、俺も嬉しいよ。お前も、恋人が会いに来たって顔してるぜ」
その「恋人が会いに来た」という言い方が、まるで独り言のように軽かった。拓真はそれを聞いても、肩の一点にわずかに力を込めるだけで、表情は変わらない。相原の笑い声が、どこか空虚に響いた。
周りの選手たちは、あの独特の空気に気づいてざわつく。会長が間に入り、相原に軽く声をかける。相原はにこやかに会長に応じ、さっとその場を去った。後ろ姿には、昨日のリングで見せた狂気の残像がちらついている。
日が暮れ、ニュースはさらに熱を帯びた。インタビューが殺到し、スポンサーの話も持ち上がる。ジムの外には取材の車が並び、選手たちのLINEは終わりなく鳴った。だがそのすべてが、拓真の内側には届かない。
夜、彼は一人で街を歩く。ネオンが波打ち、群衆の笑い声が遠ざかる。どこかで聞いた解説の断片が反芻する。〈歴史に残る一戦〉〈人々の記憶に刻まれる〉。街路樹の影が長く伸び、信号の色が滲む。
ふと、彩香のアパートの前を通りかかる。ポストも空っぽで、部屋の明かりも点いていない。窓のカーテンの隙間から中を覗き込むことはしない。ただ、少しだけ立ち止まり、空を見上げる。そこに誰かがいるわけではない。欠けた座席の輪郭だけが、夜の空に浮かぶ。
胸の中で何かが、静かに沈んでいった。だがそれを言葉にすることはない。彼は足を進める。光の海が手招きする。街は、彼を褒めそやすように、彼の顔を映し出す素材で満ちている。
屋上に立つと、風が冷たくて大きい。遠くのライトが波打ち、下界の音が薄くなる。拓真はフェンスに手をかけ、じっと街を見下ろした。歓声、フラッシュ、切り取り売りの映像――それらがひとつの絵のようにまとまり、しかし自分には触れない。
静かに、彼は一歩前に出る。足の裏で冷たい金属が鳴る。視界の端で光が裂ける。音は薄れて、あとには風だけがある。誰も止める者はいなかった。ただ、世界が淡く揺れている。
闇の中で、どこかから小さなノイズが聞こえた。声かもしれないし、ただの風のこすれかもしれない。はっきりしない。ライトの反射がゆらりと揺れて、視界がふっと切れる。
無音のなかで、微かな声が遠くから漏れたように思えた。――「……拓真?」
それは誰の声か分からない。夢のように近く、しかし手の届かないところで、彼の名が呼ばれた気がした。
ライトが最後の一瞬だけ強く光り、世界は白く塗りつぶされた。静寂が、すべてを包んでいった。




