第8章 ── 夢の探し物
息苦しさで目が覚めた。
額には、汗というよりも湯気のような湿気がまとわりついている。
視界の端が滲み、熱と冷気が混ざった空気が肺を焼く。
――また、ここか。
サウナの木壁は見慣れたはずの模様なのに、どこか違って見えた。
何かが欠けている。
だが、何が欠けているのかが思い出せなかった。
ゆっくりと立ち上がる。
足取りが重い。
ドアを開けると、いつも聞こえるはずの声がない。
受付も、脱衣所も、誰もいない。
音が吸い込まれていくような、静まり返った空間。
その日から、拓真は走り始めた。
朝も、昼も、夜も。
走って、探して、また走る。
目的はない。
けれど、どこかに“何か”を置き忘れた気がして、足が止まらなかった。
信号のたびに顔を上げる。
交差点、バス停、コンビニの前。
どこを見ても、見つからない。
それでも、止まらない。
息を切らしながら、ただ前だけを見て走り続ける。
誰かの名を呼ぶこともなく。
気づけばジムに立っていた。
会長とトレーナーが笑顔で迎える。
「調子、いいじゃねえか」
「顔色も戻ってきたな」
拓真は無言で頷く。
その笑顔の裏に、何かが欠けている気がした。
ジムの奥、誰もいないサンドバッグの前に立つ。
拳を握る。
呼吸を合わせる。
ジャブ。
音が違う。
以前よりも軽く、柔らかく、深い音。
力が抜けていく。
筋肉の緊張がほどけ、骨と骨の間を空気が通るような感覚。
もう一度、ジャブ。
ストレート。
フック。
体の中の重みが、音に変わっていく。
思考はない。
ただ、流れだけが残る。
ライトの熱を感じたとき、いつの間にかリングの上にいた。
観客のざわめき。
それでも、どこか遠くの音のように聞こえる。
ロープの向こうに、相原が立っていた。
いつも通りの余裕。
口元に笑み。
その笑みの奥に、かすかな違和感――。
ゴング。
相原が飛び込んでくる。
拓真の前に、拳が閃いた。
速い。
それでも、見える。
避ける。打つ。避ける。打つ。
会場の空気が震える。
相原の眉間に皺が寄った。
「……何見てんだ」
拓真の視線が、観客席を泳いでいる。
相原の拳が頬をかすめる。
観客席の中央、いつも彩香がいた場所。
空席。
拳を構えたまま、拓真の体が止まった。
胸の奥で、何かが静かに崩れた。
鼓膜の奥で、血の流れる音だけが響く。
――もう、会えないんだな。
瞬間、体の力が抜けた。
目の前の相原が、スローモーションのように見える。
肩、肘、拳――動きの流れが、全部読めた。
次に来る。
あの左だ。
相原の体が沈む。
殺気が肌を刺した。
あれは、“本気で殺す”顔だった。
拓真の右ストレートが放たれる。
その刹那、相原の左がカウンターが唸る。
避けた。
わずかに頬をかすめ、血が舞った。
「……彩香」
声にならない声が喉から漏れた。
拳が自然に振り抜かれる。
音が消えた。
右が相原の顎をとらえ、首が跳ねる。
会場が静まり返る。
審判が割って入る。
相原は崩れ落ちた。
拓真はその場に立ち尽くす。
何も感じない。
観客の歓声が遠くで反響する。
拳を見つめる。
震えも、痛みも、ない。
ただ、心の奥に残ったのは――
ああ、やっぱり。もう、会えないんだな。




