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第7章 ── 夢と殺意の残響



 音が、ずれていた。


 声も、足音も、遠くでふくらんでからこちらに届く。目を開けると世界が一拍遅れて返事をするような違和感に包まれた。




 路地裏のコンクリの冷たさが、掌に残る。腹に刺さった痛みを確かめるために手を伸ばすと、そこには薄い包帯の跡がある。血は乾き、匂いだけが時間に追いつかないように漂っていた。あの日、あの刃の感触は確かにあったはずだが、今ここで感じるのは、痛みの輪郭よりも「戻らなかったかもしれない」という凍った予感だ。




スマホを開く。


通知が膨れ上がっていた。SNSのタイムラインには、自分の名前。


 《プロボクサー矢崎拓真、逃走中》


 《一般人暴行致死》


 画面の明るさが、まぶたの裏に焼きつく。


 息を吐くたびに、胃の底が冷えていく。







 「戻ってないのか――」




 呟いた声はやはり遅れて返った。自分の言葉が自分を追いかけるようで、胸の中を誰かが静かに引っ掻いている気がした。




 彩香の部屋の前に立った時、指先から力が抜けていった。カーテンは引かれ、郵便受けは空っぽ。ドアを見つめると、そこにかかっていた小さなヘアゴムだけが白く残っていた。彼女の香りも、置きっぱなしの化粧品の蓋も、何もなかった。家具がなければ生活の重みもない。そこに在った、何でもない日常がすべて剥がれ落ちた。




 その瞬間、俺の体がふわりと軽くなるのを感じた。力が、抜けていった。骨は同じだが筋肉の緊張がうすれ、肩から首へ、そして腹まで一本の糸が切れたように力が落ちていく。まるで稲穂が風に靡くように、体が静かに流れる。やらなければならないこと、守らねばならないもの――そう思っていたものの重心が一つずつ崩れて、俺はただ風に揺れる一本の茎のようになった。




 ジムの前に着いたとき、その稲穂の感覚はさらに強まった。シャッターには『当面閉鎖』の紙。ガラス越しに見えるリングは埃をかぶり、ロープには蜘蛛の糸が張っている。トレーナーの怒声も、会長の愚痴も、いつもそこにあった人の温度も、全部消えていた。




 入るつもりはなかった。だが、目的が無いはずなのに足は裏口へ向かっていた。錆びた扉の隙間を押し開けると、空気の違いが鼻をついた。冷たく埃っぽい匂い。照明は落ち、サンドバッグだけが薄暗く揺れている。足音が床に吸われた。




 リングの中央に立つと、自分でも不思議なほど体が軽い。喪失していくたびに抜けていった力が、今ここでさらに緩む。怒りも復讐心も、どこかへ行ってしまった。あるのはただ、空っぽになった感覚。胸の穴が波立つように疼く。




 シャドーを始める。拳を握る手の甲に細かく汗が滲む。頭の中で彼女の顔がふっと消えた瞬間、あるものが剥がれ落ちた。力が抜け、呼吸がゆっくりと深くなる。腰が自然に回り、腕は落ちるべきところへ落ちる。意識が「打つ」という命令を送る前に、身体が動き始めた。




 ジャブを一つ打つつもりが、気づくとワンツーで二発が流れた。意図も焦りもない。上半身はふわりと柔らかく、的を絞らせない揺らぎがある。重心の移動に合わせて、拳が体の回転に乗る。今まで感じたことのないリズムで、体が勝手に声を立てるように動いた。




 サンドバッグに当たる音が変わる。これまでの鋭い「パン」ではなく、低く沈む「ドゥン」という音。全身の重みがその一打に乗った。歓喜も達成もない。ただ、音が胸に届くとき、どこか遠い場所で確かに何かが震えるのを感じた。それは金で買えるものではない。誰に褒められるわけでも、何かを証明するわけでもない。ただ純粋に、体の仕組みが仕事をしているだけの音だ。




 夢中になった。彼女の顔も、あの日の路地も、すべてが薄い影となって左右に揺れた。体の回転は上がり、次々に拳が滑っていく。息は苦しくない。脳の雑音が消えて、目の前にはただ繰り返しの動作だけがある。




 だが、喜びはない。虚空に向かって拳を放つとき、そこにあるのは深い静寂だった。静寂の中で、俺は初めて自分が何を望んでいたかを知った。復讐のために拳を磨いていたつもりだったが、いつの間にかそれが目的化して、彼女を守るという最初の望みは二の次になっていた。今、素っ裸になった気持ちは空洞だけを残している。彼女がいないこと、ジムが消えたこと。全部が手のひらから抜け落ちていった。




 拳を引くと、手の甲に小さな裂け目ができていた。血が滲む。だが痛みは遠い。辺りの光がゆらぎ、時間の感触が薄くなっていく。音もまた、少し遅れて届く。自分が打った音が自分を追いかけるようで、世界は一枚ずつ剥がれていく。




 最後に、無心で打ち続けたまま、視界が白くなり始めた。床の感触が遠のき、呼吸がふっと消える。倒れるとき、胸の奥でただ一つ、名前が浮かんだ。




 「彩香……」




 闇を迎えるとき、耳の奥でまだサンドバッグの低い「ドゥン」が残響した。その感触だけが、掌の中に残った。




 次に目を開けたときには、もうサウナの木の天井が視界にあった。蒸気の熱と湿り気。拳を見下ろすと、手の中にあの「残響」が、まだ微かに震えているように感じた。





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