第6章 ── 逃亡の螺旋とその果て
「……なんの用だよ」
絞り出すように言った。
男は笑いを崩さない。
「用? お前が俺らに用があるんだろ。先月分、まだだよな?」
背後にもう一人、細身の若い男が立っていた。
スーツが少し大きく、落ち着かない手つきでポケットを探っている。
こいつは見覚えがない。
下っ端か。
だが、そいつの視線は終始こちらに向かず、通りの向こうを警戒していた。
ポケットの中の携帯が震えた。
画面をちらりと見る。
――《もう来なくていい。荷物は処分しておく。店長》
心臓がひゅっと縮む。
身体が急に軽くなった気がした。
それは、絶望が重力を奪う瞬間だった。
「……クビになったのか?」
借金取りが覗き込むように笑う。
その笑いが妙に湿っていた。
「まあ、いい。仕事なくなったなら丁度いいじゃねぇか。二日だ。二日で利息だけでいい。分かったな?」
男の声が、どこか優しさを装っている分だけ、冷たく感じた。
「わ、分かった。絶対に払う」
「いいだろ。じゃあ二日後、いつもの場所でな」
背を向けて歩き出す彼らを見送りながら、拓真は息を吐いた。
世界が音を失ったみたいに、静まり返っていた。
その夜、彩香の部屋。
彼女は湯上がりで、タオルを頭にかけていた。
「どうしたの? こんな時間に」
その声に、うまく答えられない。
「……グローブ、新しいの買おうと思って」
「え、また? この前買ったばっかじゃん」
「スパーで破けた。試合前だから、、困ってて、」
嘘だった。
でも、彩香は一瞬だけ考え、それから財布を取りに行った。
戻ってくると、折れたように微笑んだ。
「……がんばってね」
その言葉が、刺さるように痛かった。
頷くことしかできなかった。
二日後。
灰色の雲が垂れこめていた。
時間通り、指定された裏通りに向かう。
薄暗い自販機の灯りだけが、世界の輪郭を照らしていた。
「遅ぇぞ」
あの借金取りが、腕時計を叩きながら立っていた。
隣には、あの日見た細身の若い男。無言でタバコをくゆらせている。
封筒を差し出す。
利息だけのはずだった。
だが、男は受け取らずに、ニヤリと笑った。
「お前さぁ、最近女と暮らしてんだろ」
その瞬間、頭の奥で何かが切れた。
血の気が逆流するような感覚。
全身の筋肉が一瞬で硬直し、世界が赤く染まった。
「……なんでそれを知ってる」
「いやぁ、ちょっと調べりゃわかんだろ。可愛いじゃねぇか、あの子」
その言葉の最後まで、聞いていられなかった。
「黙れぇッ!」
咆哮と同時に、身体が勝手に動いた。
次の瞬間、横から影が飛び込む。
細身の若い男――子分が反応して近づいてきていた。
無意識に拳が出た。
顎を撃ち抜く。
骨が砕ける嫌な音が、手首を伝って脳に届いた。
男が糸の切れた人形みたいに崩れ落ちる。
目の前の借金取りが凍りついた。
その顔を見た瞬間、もう止まらなかった。
何発殴ったか分からない。
血の飛沫が頬にかかる。
自分の呼吸音だけが、やけに鮮明に響く。
「う、うわ……やめ……」
その声を、聞こえなかったことにした。
拳を止めるのが怖かった。止めた瞬間、現実に戻る気がした。
気づいたときには、男は動かなかった。
拳がじんじんと熱い。
皮膚の奥で、まだ何かが脈打っている。
「……大丈夫だ。どうせ、また戻る」
口の中でそう呟いた。
そうでなければ、立っていられなかった。
あいつらは人間のクズだ。誰も悲しまない。
自分にそう言い聞かせながら、夜の路地を駆け抜けた。
その夜、テレビからニュースの声が聞こえた。
《市内の路上で暴行事件。被害者男性が搬送先の病院で死亡を確認――》
血の気が引いた。
指先がまた震え始めた。
翌日。
計量会場の控室。
拓真は壁にもたれ、乾いた唇を噛んでいた。
胃が拒絶しているのが分かる。水を飲んでも吐き気がこみ上げる。
計量台の上で、数字が点滅する。
スタッフが顔をしかめる。
「リミット、オーバーです」
場内がざわついた。
怒号とカメラのフラッシュ。
SNS配信のコメント欄が荒れていく。
――「逃げた」「根性なし」「終わったな」
世界が、自分を指差して笑っていた。
その瞬間、会場の入り口がざわついた。
「警察だ! 道を開けろ!」
振り返る。
廊下の奥で、制服の影がこちらに近づいてくる。
拓真は即座に悟った。
もう、戻れない。
一目散に裏口へ駆け出した。
外に出た瞬間、夜風が頬を切った。
そして――
「てめぇ……よくも!」
横合いから閃光のような痛み。
子分の顔。血走った目。
刃が、腹に刺さっていた。
息が漏れる。世界が暗転する。
そのまま、またあの熱い蒸気の中。
サウナの天井がゆらめいている。
息を吸うたび、傷がまだ痛む気がした。
それでも、どこかで――
安堵していた。
「……戻った……」
その呟きが、湯気の向こうに溶けて消えた。




