第5章 ── 恐怖と回避
指先の震えが、まだ止まらなかった。
夜が明けても、あの鈍い痛みだけは消えない。
拳じゃない。内側のどこか――心臓の奥がずっと脈を打っている。
彩香のハンカチを握ったまま、拓真はベッドの縁に腰を下ろしていた。
カーテンの隙間から朝の光が差す。
それが眩しくて、思わず目を細めた。
どこを見ても、昨日と同じ景色。
灰色の壁、倒れかけたポスター、湿った空気。
何も変わっていないのに、世界の温度だけが違って感じた。
胸の奥で、小さく呟いた。
「……また、戻ってきたのか?」
夢じゃない。
だって、すべての配置が同じだった。
カップの水の減り方、床に落ちたテープの切れ端、テレビのニュース原稿。
どれも、ひとつ前の“現実”と寸分違わない。
拓真はようやく、それを受け入れた。
──本当に、時間が巻き戻っている。
けれど、それを確信した瞬間、胸に生まれたのは安堵ではなく、冷たい恐怖だった。
“もう一度、あのリングに立つのか?”
その想像だけで、呼吸が荒くなる。
相原の顔、左フックの軌道、目の奥の光――全部、体が覚えている。
思い出すたび、腹の底が冷える。
「無理だ……」
声に出したら、少し楽になるかと思った。
けれど、その声が空気に溶けた瞬間、余計に現実味を増した。
ジムの扉を開けると、鉄の匂いとグローブの革の匂いが混ざって鼻を刺した。
いつもと同じ朝の音。
ロープを打つ音、縄跳びのリズム、サンドバッグを叩く重い衝撃。
全部、前に聞いたままの“繰り返し”。
拓真の足が、自然に止まった。
「おい、拓真! 昨日のスパー見たぞ!」
トレーナーが声を張る。
「反応よくなってんじゃねぇか! 今日も続けるか?」
返事が出ない。
拳が汗で滑る。サンドバッグの黒い面が、相原の輪郭に見えた。
怖い。
本気で、怖い。
打つたびに、反射的にガードを上げてしまう。
パンチを打ち返せない。
それでもトレーナーは笑っている。
「どうした? お前らしくねぇな」
「……いや、ちょっと、確かめたいことがあるんだ」
拓真の声は震えていた。
「何をだ?」
「夢か現実か、分かんなくて……」
トレーナーの笑顔が消えた。
何か言いかけたが、ただため息をついてロープを握った。
「お前、減量で頭やられてんぞ」
夜。
部屋の明かりの下、彩香が弁当箱を差し出した。
「食べなよ。明日スパーでしょ」
「いや、もう……スパーはいい」
「どうしたの?」
「……わかんねぇ。ただ、確かめなきゃいけないことがある」
彼女は箸を置いた。
「また、その夢の話?」
拓真はうなずいた。
彼女の目が少し揺れた。
「もう、そんなのどうでもいいよ。拓真が生きててくれたらそれでいい」
その言葉が、逆に逃げる理由を与えた。
“そうだ。生きてりゃいいんだ。”
それから数日、拓真は減量をやめた。
水を飲み、飯を食い、汗を流さずに夜を越えた。
ジムには行かない。
鏡の中の顔が、少しずつ膨らんでいく。
けれど、罪悪感はなかった。
「検証のためだ」
口にするたび、その言葉が免罪符になった。
「これで試合がなくなれば、巻き戻らない、、?」
ある夜、外に出た。
湿った空気。
遠くでサイレンが鳴っている。
試合まで、あと三日。
そのときだった。
「おう、久しぶりだな」
背中から、声がした。
振り返ると、借金取りの男が立っていた。
スーツの袖をまくり上げ、ニヤついている。
「逃げ回ってた割に、元気そうじゃねぇか」
なぜ、ここに?
この時間、この場所に来ることは、これまでの夢では一度もなかった。
頭が真っ白になる。
“夢の外”に足を踏み入れたような感覚。
息が詰まる。
相原の左フックの記憶と、男の笑みが重なる。
視界の奥で、また光が歪んだ。
鼓膜の奥で、金属音が鳴る。
まるで――ゴングの音みたいに。




