第3章 ── 繰り返す日々の端で
目覚めたとき、すぐに汗の臭いがした。
朝の光はやけに眩しく、時計の針が奇妙にゆっくり進んでいる気がした。
スマホを見た。
通知の一番上に、昨日見たはずのメッセージが浮かんでいた。
──〈頑張ってね〉
彩香の名前。送信時間が、昨日と同じ時刻。
喉がひりついた。
俺は夢の続きでも見ているのかと思った。頭がおかしくなりそうだ。
だけど、テーブルの上には現実の証拠があった。昨日、確かに飲み干したはずのペットボトル。その中身が半分残っている。
蓋を開けて匂いを嗅ぐ。昨日と同じ、プラスチックの匂い。
胃の奥が冷たくなった。
俺は、頭の中を整理するように、深く息を吸った。
──落ち着け。減量明けの頭は混乱する。夢と現実の境が曖昧になることもある。
そう言い聞かせたが、心臓が拍を早めていく。
ジムに行くと、トレーナーが眉をしかめた。
「顔色悪いぞ、拓真。寝てねぇのか?」
「……いや、寝たと思う」
声が掠れていた。
スパーの準備をしながら、俺は昨日と同じ手順を踏む自分に気づく。
グローブをはめるタイミング、テープの音、床のきしみ――すべてが既視感の塊だった。
昨日の記憶と、今の現実が重なる。まるでトレースしてるみたいだ。
スパーの相手が昨日と同じ動きでジャブを打ってきたとき、身体が勝手に“そこ”へ反応した。
俺の中に、あのパンチの一連の軌道が既に描かれていた。
リズム、呼吸の僅かな沈み、グローブが伸び切る瞬間の微かな遅れ――どの角度で拳が来るか、どれだけ腕が伸びるか、俺はその全てを知っていた。
それは単なるデジャヴを越えていた。予感でも計算でもない、初めからそこにある“知っている”だった。
目の前のパンチは、まるで前に見た映画のワンカットを今また再生しているかのように、正確に、残酷に進行した。
だから、俺は躊躇なく動けたのだ――とか、そういうことではなかった。
もっと厄介な確信が、胸の底にひんやりと沈んでいくのを感じた。
〈これを知っているということは─
「どうした、動きが違ぇな」
トレーナーが口を歪める。
俺は首を振った。
「……なんでもない」
なんでもないはずがなかった。
頭の奥に、サウナの蒸気がまだこびりついている。
あの夢。
相原との試合。
左カウンターを貰って、倒れて、光に飲まれる。
そこからまた、サウナに戻る。
まるで、終わらない夢の中にいるようだ。
だけどそんな非現実を信じるほど、俺は都合のいい人間じゃない。
“夢だった”で済ませる方が、よほど安全だ。
夜、アパートに帰ると彩香が小さな鍋を見ていた。
減量中の俺のために、おかゆを作ってくれていた。
その姿が、やけに懐かしく感じた。
昨日も見た。
いや、「夢の中で」見たのか。
どちらでもいい。ただ、その光景が胸に刺さった。
「ねえ、なんか元気ないね」
彩香が振り返る。
俺は曖昧に笑った。
「減量のせいだよ。頭が回らねえ」
「もう……無理しすぎないでよ」
彼女の声は柔らかい。
でも、その柔らかさがどこか怖かった。
俺は無意識に口を開いた。
「彩香、もしさ……同じことが何回も起きてたら、どうする?」
「え?」
「昨日が、今日も繰り返してるみたいな」
彩香は一瞬笑った。
「デジャヴ? 夢の見すぎじゃない?」
「……そうかもな」
自分でも滑稽だった。けど、笑えなかった。
テレビの音が流れていた。
ニュースで「相原」の名前が出ていた。
「10戦10勝7KO!世界チャンピオンを約束された天才!相原 鷹也選手に来ていただきました」
あいつのインタビュー映像。
『挑戦者は喧嘩スタイルですけど、僕はちゃんとボクシングで勝ちます』
笑顔。誠実そうな目。
この世界じゃ、3敗目で終わりだ。
相原は次のステージを見ている。
俺は、その.....
背中に冷たいものが走った。
昨日もこの映像を見た。
それも“夢の中で”。
俺は立ち上がり、冷蔵庫から水を取った。
指先が震えて、ボトルを落としそうになる。
「……なんだよ、これ」
ポツリと呟いた声が、自分のものじゃないように響いた。
彩香がこちらを見たが、俺は気づかないふりをした。
理解してしまいそうだった。
この「夢」は、夢じゃない。
だけど、それを認めた瞬間に何かが壊れる気がした。
その夜、俺は眠れなかった。
窓の外で電車の音がした。
そのリズムが、ゴングの音に重なった。
心臓が反応する。
リングのライトが脳裏に灯る。
相原の顔。
トレーナーの怒鳴り声。
そして、倒れた後のサウナの蒸気。
何度も何度も、同じ映像がリピートされる。
“夢の残響”が、頭の奥で鳴り続けていた。
朝が来ても、眠った気がしなかった。
鏡の前で歯を磨く手が震えている。
そこに映る自分の目が、昨日と違う気がした。
光が少し、濁っている。
それでも拳を握る。
骨が鳴る。
この感触だけは、変わらない。
何度繰り返しても、ここだけは現実だ。
頭がおかしくなりそうだ。
信じられるものなんて、やっぱりこの拳だけだ。




