第2章 ── 減量と、夢の残響
サウナの木がまだ皮膚に張りつくような感覚を引きずって外に出ると、冷気が胸を貫いた。
ペットボトルの水を一口。冷たい液体が喉を滑り落ちた瞬間、世界が少しだけ戻ってくる。
減量の最終段階で飲む水は、いつだって泣きそうになるほど旨い。
──けど、今日の味は、どこかで知っている気がした。夢の中のような既視感が舌の奥に残る。
駅のホームの光は冷たく、人混みのノイズが遠くに聞こえた。
計量を終えた安堵と、リングに立つ恐怖が入り混じる。
29歳、12戦9勝3敗。しかも2連敗中。
ボクシングでは「3敗目」は致命的だ。もう後がない。勝たなければ、終わる。
彩香の部屋に入ると、匂いでようやく呼吸ができた気がした。
彼女は小さなテーブル越しに俺を見つめていた。
「グローブのことなんだけど……」
言い訳を準備していたが、口に出すと舌に嘘の味がする。
彩香は一瞬黙ってから、財布を差し出した。指が震えていた。
「返してくれるんでしょ?」
「返すよ。試合が終わったら、すぐに」
彼女は目を伏せて小さく頷いた。
問い詰めない優しさを、俺は利用している。
それが分かっていても、止められない。
翌朝、計量会場の空気は張り詰めていた。
冷えた床の上で裸足になると、血の気が引いていくのが分かる。
体重計の上に立つ。針がふらつき、静かに止まった。
トレーナーが短く頷く。
「リミット、クリア。」
わずかに息が漏れた。
その一瞬だけ、頭の中が真っ白になる。
これで“戦う権利”だけは得た――それだけのことなのに、全てを許されたような錯覚を覚える。
ジムに戻ると、ミットを軽く打った。
拳の重さ、呼吸の速さ、どれもぎこちない。
体がまだ戻りきっていない。
トレーナーが淡々と声をかける。
「軽くでいい。呼吸を合わせろ。――左見て、右を返す」
何度も聞いた言葉。だが今日は妙に遠く響く。
鏡越しに映る自分の顔が、他人のように見えた。
頬がこけ、目の奥の火がどこかで消えかけている。
この1年、2連敗。敗戦のたびにスポンサーも減り、バイトのシフトも削れた。
昨日、店長と口論になってクビを言い渡された。
「もう限界だ」と言われたが、限界なんてとっくに越えている。
夜、帰宅すると彩香がテレビの前で座っていた。
彼女の横顔を見ただけで、胸が痛む。
「ねえ、もし……勝っても何も変わらなかったら、どうするの?」
真剣な瞳に、言葉が詰まる。
「変えるよ。全部変える」
簡単に言ってしまった。
だが、そう言わなければ崩れてしまいそうだった。
眠れぬ夜。夢で何度も見るのは、あの白いライトの下。
相原の顔。ゴングの音。
そして、殴られる直前の静寂。
すべてがひとつの輪郭に溶けていく。
朝、体重が戻り、わずかに思考が冴えた。
ペットボトルの水を飲む。やはり格別にうまい。
同じ味。
あの“夢の中”と同じ味がする。
リングへ続く通路。
マウスピースを噛む。グローブを締める。
革の匂いと、薄い恐怖の混ざった空気。
トレーナーが短く言う。「行くぞ」
俺は小さく頷いた。
光の中で相原が立っている。
速い。映像よりもずっと速い。
左が来る。右で返そうとした瞬間、視界が白く弾けた。
世界が泡のように弾け、音が消えた。
――サウナの蒸気の中。
天井の木目がぼんやりと揺れている。
扉の上の紙に「試合まで、あと七日」とあった。
胸の奥が熱くなる。
また、同じ場所に戻ってきたのか。
彩香のハンカチがタオルの上に置かれていた。端が濡れている。
昨夜、泣いていたのだろう。
自分が誰かの時間を削っていると知りながら、それでも拳を握る。
テレビの実況が遠くで叫ぶ。
「この勝敗が、人生を変える大一番です!」
嘘だ。そんなものがあるなら、とっくに変わっている。
けれど、信じたい。今だけは。
右拳の温度が指先に残る。
瞼を閉じ、小さく息を吐いた。
「今度こそ……ぶっ殺してやる。」
蒸気が言葉を呑み込み、白が瞼の裏を満たした。
だがその白は、終わりを示さなかった。




