第10章 ── 再会の朝
夜明け前の街を、拓真は走っていた。
いつもの道。舗装のひび割れも、信号の点滅のタイミングも、すべてが見慣れている。
けれど何かが違っていた。
肺が焼けるほど冷たい空気の中、拓真の呼吸は不思議なほど静かだった。
心のどこにも目的がない。ただ、足が勝手に前へ進む。
気づけば、毎朝同じように走っている。彩香を探すために。
曲がり角を抜けたとき、
彼女はそこにいた。
通りの向こう、コンビニの前。
白いコート、少し伸びた髪。
冷たい朝の光に照らされて、まるで記憶の中から滲み出たように。
拓真は立ち止まる。
喉が震える。声が出ない。
彩香がこちらに気づき、目を丸くした。
数秒の沈黙。
やがて彼女は、ほんの少し微笑んだ。
その笑顔だけで、世界の音が戻ってくる。
拓真は、歩き出した。
そして、言葉にならない言葉を胸の奥で繰り返した。
――やっと、見つけた。
二人は近くのカフェで向かい合った。
小さなテーブル、白いマグカップ。
彼女がスプーンでカップをくるくる回しながら、ふと呟く。
「……大丈夫? 顔色、悪いよ?」
「うん。大丈夫。……やっと、夢から覚めた気がする。」
彩香は驚いたように目を瞬かせた。
今までの彼とは、どこか違う。
声も、目の奥も。
その変化が少し怖くて、でも嬉しくて、何も言えなかった。
カフェを出る時、拓真が立ち止まり、
「ありがとう」とだけ言った。
「何が?」と聞かれても、首を振るだけ。
彩香は、半ばあきれながら笑った。
「ほんとに頭、大丈夫?」
「たぶん、もう大丈夫だと思う。」
翌日。
拓真はバイト先の裏口に立っていた。
まだ開店前の空気。
店長が鍵を開けに来た瞬間、拓真は深々と頭を下げた。
「この前は、すみませんでした。迷惑をかけました。もう一度、ここで働かせてください。」
店長は一瞬固まり、
「……お前、どうしたんだ? 誰かに脅されてんのか?」
「ちゃんと働いて、借金も返します。試合が終わったら、ボクシング辞めようと思ってます。」
「……はぁ?」
店長は半笑いのまま煙草をくわえ、ため息をついた。
「お前な……ま、いいや。当分休め。勝手に戻ってくんなよ。」
「ありがとうございます。」
拓真が頭を下げると、店長は目をそらした。
「……まったく、何がどうなってんだか。」
午後。
拓真は古びた雑居ビルの階段を上がっていた。
錆びた鉄の扉。
その向こうに、いつもの借金取り。
「金、できたんか?」
「次の給料で半分払えます。残りは試合のファイトマネーで。計算は自分でやります。」
借金取りは鼻で笑った。
「へぇ。急に真面目になったじゃねぇか。」
拓真は黙ってうなずく。
目をそらさない。
その視線に、借金取りが言葉を失う。
「……お前、変わったな。殴っても意味ねぇ顔してる。」
「殴らなくても、分かるようになりました。」
借金取りは苦笑し、頭を掻いた。
「勝手にしろ。死ぬなよ。」
夜。
ジムの屋上。
ビルの隙間に滲む光の帯を見ながら、拓真はスマホを耳に当てた。
「……もしもし、母さん?」
「拓真? どうしたの?」
「うん、次の試合でボクシング、終わりにしようと思う。」
「え? なんで?」
「なんか……もう、他のことにも挑戦できそうな気がしてさ。」
しばし沈黙。
風の音が通り抜ける。
「……そう。元気そうでよかった。」
その声が、少し震えていた。
通話が切れたあと、拓真は夜空を見上げて小さく呟く。
「ありがとう。」
その数日後――。
試合の記憶は、ない。
ただ、眩しい光と、遠のく歓声。
ピッ……ピッ……という電子音。
消毒液の匂い。
白い天井。
拓真がゆっくり目を開ける。
ぼやけた視界の中、泣きながら笑う彩香の姿があった。
「……よかった。やっと、起きた……」
拓真は口元だけで笑い、
かすれた声で言った。
「よかった。……また会えた。」
外の窓から、柔らかい春の光が差し込んでいた。
生きるって、案外、難しいことじゃないのかもしれない。
ただ、誰かを探すように歩き続けるだけでいい。
俺は、もう一度、歩き出す。
静かに、確実に、
彼の中で世界が動き始めた。




