第1章 ── 殺意
マウスピースを押し込まれる。
ゴムの匂いと唾の味。リングライトが、頭の奥でひりつく。
「おい、拓真、集中しろ!」
トレーナーの声。顔を近づけ、俺の頬を叩く。
「相手は左フックのカウンターを狙ってくる。わかってるな? 練習通りに合わせろ!」
うなずいた。
けど、心はまったく違うところにいた。
どうでもよかった。
計画通りなんて、どうせ上手くいかない。
俺はいつも、計画を立てるたびに、それを裏切ってきた。
タイミング、距離、呼吸。全部、頭の中じゃ完璧なのに、いざ本番になると何かが狂う。
信じられるものなんて、結局、この拳だけだ。
右を出す。左を引く。それだけ。
「おい! もう始まるぞ! 集中しろ、拓真!」
怒鳴り声が、どこか遠くで響いた。
それに返事をする前に、ゴングが鳴った。
ヌルッと、試合が始まっていた。
対角線の向こう、相原の顔。
氷みたいに冷たい目。
あいつの左肩が、わずかに下がる。次の瞬間、ジャブが飛んできた。
頬に当たる感触。ガードが遅れた。
軽い衝撃なのに、頭の奥がじん、と熱を持つ。
世界が一瞬、白く点滅した。
『ねぇ、いつまでこんな生活続けるの?』
声がした。
彩香の声だった。
リングじゃない、あの狭い部屋の、夜の光の中。
「うるせぇ」って吐き捨てた記憶。
その言葉の冷たさが、今になって拳より重くのしかかる。
次の瞬間、相原の右。
また被弾。
脳が揺れる。視界がぐにゃっと歪んだ。
まるで画面が水面に映ってるみたいに波打つ。
『試合? お前の都合で回る店じゃねえぞ』
店長の声。
ああ、そうだ。バイト、もう辞めちまったんだった。
何度も同じミスをして、何度も怒鳴られたような気がする。
相原のボディが刺さる。
肺の奥から、酸素が押し出される音がした。
そこで初めて、重さを感じた。
足が、床に吸い付く。
手が上がらない。
まるで腕にも脚にも、鉛がくっついたみたいだ。
計画なんて、、、
「左フックが来たらカウンター」──そんな練習、今じゃ笑える。
実行しようにも、身体が言うことを聞かねえ。
ほら見ろ、まただ。
計画なんて、いつもこうだ。絵に描いた空気だ。
息を吸う。肺が痛い。
相原が一歩下がる。
殺してやる。
その瞬間、心が妙に静かになった。
リングの向こう、観客席に彩香がいた。
泣きそうな顔で笑っていた。
俺を責めない、どこまでも優しい笑顔。
あの目が、俺をダメにしてるって分かってる。
でも彼女は、絶対に否定しない。
「頑張ってるね」って言って、涙をこぼす。
その涙を見るたび、胸の奥がチリチリ焼ける。
彩香は、俺のせいで壊れていく。
それを止められない。止める気も、もうない。
全部、終わらせたい。
相原のジャブがもう一発。
顎が跳ねる。
冷静な思考なんて、もう出来ない。
ただ殺意だけが、身体を動かす。
殺す、殺す、殺す。
拳が、頭が、心臓が、その言葉だけで満たされていく。
呼吸が荒い。音が遠い。
観客の声も、トレーナーの怒鳴り声も消える。
あるのは、相原の顔だけ。
俺とあいつだけの世界。
時間が歪む。
相原の動きが、遅く見える。
汗の一滴が空中で止まり、光が曲がる。
何かが狂っている。
パンチを放つ。
右。
“あの”右だ。
毎回、ここで俺は打っている気がする。
何度も、何度も、同じ場所で。
拳が空を切る。
相原の左フックがめり込む。
頭の奥で破裂音。視界がグニャリとねじれる。
光が波になり、音が泡みたいに弾けた。
世界が、しずかに溶けていく。
蒸気。
熱い。
汗でぐっしょりだ。
目を開けると、サウナの天井が見えた。
鉄のバケツから、水がジュッと音を立てて落ちる。
心臓がまだドクドクいってる。
手のひらが震えてる。
足が、鉛の様に感じる。
時計を見る。
数字が霞んで見えない。
でも、日付の文字だけが妙に鮮明だった。
──試合まで、あと七日。
「……またこの夢、か?」
呟いた声が、蒸気に吸い込まれて消えた。
夢、のはずだ。
だけど、拳の痛みも、肺の焼けるような重さも、ぜんぶ“今”のことみたいにリアルだった。
ロッカーの上に置かれたタオル。
その上に、彩香のハンカチ。端が少し濡れている。
昨日、泣いてたんだろう。
あの顔が浮かぶ。
俺を見つめて、泣きながら「頑張ってるね」って言う顔。
──頑張ってる? 誰が?
頑張る意味なんて、もうどこにもない。
テレビの音が漏れてくる。
「この勝敗が、人生を変える大一番です!」
どこかで実況が叫んでる。
拳を握る。
骨の音がした。
右拳に、まだ熱が残っている。
血の気が、ゆっくりとそこに集まってくる。
目を閉じて、吐き捨てるように呟いた。
「今度こそ……ぶっ殺してやる。」
その言葉と同時に、ライトのような白が、瞼の裏を照らした。
まるで、ゴングの音が鳴る直前みたいに。




