あのね君と出会ったことを今
佐藤友哉が云うんだ。「蛍の一匹、たかが一匹じゃないか」ってね。僕は呆れた。そういう夜と朝を繰り返してるんだ。
ああ、疲れたよ。僕は疲れた。何度でも云う。
「疲れた。疲れた疲れた、疲れた疲れた疲れた……」って繰り返してね、最後は「脳みそウオッシャー!」で締めるんだ。
『脳みそウオッシャー? とは……?』と羊の彼女は云う。それはあんまり良い言葉じゃないんだ、と僕は返答。
『じゃあ、どういう意味なの?』
「分からない?」
『当たり前でしょ。あなたはおかしいのよ。自覚してないの?』とか云って、僕を目一杯傷つけようとしてくるんだよ。
息を吐く。勢い余って……いや、吐きやしないさ。寸前で堪えたよ。そういうの、僕はずっと前から得意なんだ。あまりにもささやかでくだらない、醜い特技の一つさ。
でもね、僕の妹がそれを褒めてくれてさ。僕は飛び上がったよ。そのくらいにめちゃくちゃに嬉しかった。
「忍耐は人間の傲慢なのよ、お兄ちゃん」って云う。
「はあ。僕にはちと難しいや。もっと噛み砕いてくれないかなあ? ねえ、頼むよ」僕は云った。
ところでさ。僕はね、大学に結構な頻度で行っているんだよな。もちろんね、僕が大学生だったら当たり前といえば当たり前なんだろうけどね、僕はそうじゃない。
市民ならたぶん誰でも入れるんだな、そこは。たぶんだよ、たぶん。詳しいことは司書のお姉さんかおばさんにでも訊いてくれよ?
でね、海外の小説が雑多に並んだコーナーがあるんだ。そこにさ、『奇術師』っていうタイトルの本があってさ、手に取って見たら世界幻想なんちゃらかんちゃら賞を取ってるっていうんで、へえ……なんか分からないけどすごい小説なんだろうなあ! て思ってたわけ。
「作者……えっ、プルーストじゃん!」
あのプルーストだよなあ? って僕はそのときそう信じ込んでいたわけだけどね、何度か図書館に来る度に読もうか読むまいか迷っててね、あるとき気がついたの。
「プルーストじゃなくて、プリーストじゃんか!」ってね。これは僕が阿呆の極みだったんだ。頂点に君臨してたね、きっとさ。で、結局のところ読まなかった。
名前がどっちであっても僕は読まなかったと思う。興味なんて欠片もないんだから。本当だよ? 本当さ。誰一人として疑いはしなかったけどね。
その話を妹に話してやるとね、彼女、なんでか知らないけどめっぽう喜んだよ。喜びすぎて疲れを知らないヘラジカみたいだと僕は思った。
あの可愛らしいお姉さん──僕をぶん殴ったほうじゃないよ、もちろんだけど──がね、例の甘ったるいお声で電話かけたんだ。
誰に? それは、見ての通り妹の笠原メイにさ。僕は頼んだつもりなんてなかったけどね、お姉さんが気を利かせてくれたのさ。でもここで一つ疑問が生まれる。
おい、誰がどうやって彼女に、僕に妹がいることを知らせたんだ? って疑問だな。当然だろうと思うよ。君らも怖いでしょ、初対面の相手だと自分は思っているのにさ、相手は自分だけじゃなくて家族のことも把握してるんじゃないかって疑い持つとさ。
何も信じられなくなっちゃうよ! は、少し大袈裟かもしれないけど。
僕は云ったよ。「あのですね。大丈夫なんですよ。僕はですね、身体だけは一等丈夫なんです。だから、大丈夫。あはは! ねえ」ってね。
いや別にさ、笑わせるつもりも笑うつもりもなかったよ。まったくさ。でもお医師さんは真顔だった。その真顔に石膏を塗りたくって真っ平らな無人島でも作れそうな感じだったな、あれは。
いや、完璧な冗談さ。これは笑ったほうがましだし笑ってほしいと僕は思う。どうでもいい。僕は気にしないよ、君らがどんな態度でいても。
看護婦のお姉さんは笑ったんだ。ふふふ、って。僕は有頂天になったよ。見ての通りごく単純な機械よりもね、もっとシンプルな構造をしているのが僕の脳みそなんだ。
人をいつまでも笑わせようとする、あの死にたがりの道化とは全然違うけどね。僕は嫌いじゃないけど、君らはどうなのかな?
まあそれはともかく、お医師さんの顔はちょっと変化したんだ。無から有が生まれる神秘現象みたいにね。
深刻そうに深い笑みを浮かべたのさ。深い笑みっていうとよく分からないと思うけど、そこは想像力がものを云う世界さ。
僕は彼の表情だけでビッグマックを二十個は食べられるね。深夜に開いてるパン屋を探してたあの二人は、たったの十個しか食べなかったはずだけどね、僕は一人でその倍はいけるよ、って話を妹にしたらね、ああ面白い! って親切な近所のご婦人らみたいに微笑んだんだ。
あれ? 本当に十個だったっけ? 忘れたな。昨日読んだ小説のことなんだ。実は二十個で僕と同じかもしれない。まあそれでも、二人で二十個だから一人分なら僕が倍さ。
「ライ兄ちゃん、ライ兄ちゃん」て、僕を小さく呼んだのは、まだ会って一週間の子供さ。小学生、それも二年生か三年生だったような気がするね。
そういえばね、僕はアルバイトをちょっと前から始めたんだ。学童保育所とかいう辛気臭い──もとい混沌よりずっとカオスで騒がしい場所でね、子供たちの世話を手伝ってたんだ。
僕は保育士とか小学校の教師とかの資格なんて持ってないからね、あくまで補助みたいなものさ。
小さい子には、まだ補助輪がいくつも必要だから。僕も昔は同じだったんだからね。彼らの中には、僕に似ている子も含まれているかもしれない。そういう子は助けなくていいと思うんだ。僕の意見さ。すごく個人的なね。
僕が孤独な狼になっちゃったように、僕みたいな奴はね、生まれたときに名もなき狼に頭から食べられちゃって病的精神に陥るのさ。
心の中にはさ。真っ白な薄紙に墨をぽちゃんと一滴垂らすくらいの暗い闇があればいい。そこにね、他人は強く強く惹かれるんだ。ごく一部の子がね。みんなはそりゃ無理さ。孤独を身に纏った狼ちゃんには無理だよ。
「無理せず生きよ。さすれば、食べかすに群がる蟻のようにうようよと、お前の同類が寄ってくるだろう」と、井伏さんもたぶん云ってたはずだしね。
黒子さ。平凡な顔立ちの女の子であってもね、お目目の近くにぽつんと小さくてもいいから黒子が蠢いているとね、それはまるで花の蜜さ。愚かな男の子ばかりかもしれないけど寄ってはくるよ。僕の想像だけど。あくまでも。
そんな風な僅かな粒という魅力にね、ブラックホールに吸い込まれるみたいに人が寄り集まってくるんだ。強靭な人間はすぐに離れていくと思うけど。僕は違うよ。そんなに強くないんだ。寧ろ貧弱さが取り柄っていっても冗談じゃないぜ?
で、変でお馬鹿なお話を病院のベッドでしているうちに、僕は眠くなってきた。駄目だ、眠い……ってな感じで、眠りという谷底に落ちかけたところでね、思う。
「どうして僕は、点滴まで打たれてベッドに縛りつけられてんだろ?」
当然だよ、そう思うのは。おい! ベッドに縛りつけられるのは、精神を病んで狂った割れたガラス瓶みたいな患者ばかりじゃないのかあ? ってね。逆らえない重力みたいな眠気と闘いながら、僕はお医師に云うんだ。
「ねえ、お医師さん」
「……一体何です? クレームならやめてくださいよ。私はとてつもなく疲れているんです」
「それってさ……どのくらいなもんなの?」と僕は云った。そういう細かい言葉のお尻をぎゅっと掴んでね、僕はしばらく離しやしないわけ。
でさ、お医師は眉を顰めるんだ。こう、なんだろう……喩えるならね、まず彼の顔はね、電柱に正面衝突して潰れたくろんぼみたいにグロテスクなんだ。
君らはね、僕のそんな喩えじゃまったく理解できないと思うけどね、良いんだそれで。分からないものはどっかに置いていけばいい。断捨離ってやつさ。すべてを断ち、すべてを捨て、すべてから離れよ。たぶんそういう意味さ。
詳しくは知らないけどね。まあいいんだ。お医師はちょっと怖い顔でね、なんだか深みのある声で云うんだね。深みっていうのは、こう……奥行きがあるって意味なんだよ。分かるだろ? 平面的で魅力のない歌声ってあるだろ? それとは真逆ってことさ。
「とんでもなく、です」って彼。
「へえ、それってどんくらいなの?」と僕が云うとね、彼は怒り出してユーラシア大陸全部を一気にひっくり返しそうなオーラを放ち始めたね。嘘じゃないよ。
「蝋燭の火が揺らめいて消えたとき、佐藤友哉は闇の中で云った。『君の幽霊が、お前の背中に張りついている!』ってね」と僕は云った。
「はあ……死ね」
「えっ? えっ? おい、今なんて云った!」
僕はちょっとの驚愕と、ちょっとの歓喜を滲ませて声を発したんだ。つまりさ、喜んだんだよ。妹のメイみたいにね。相変わらず僕はベッドの上でお行儀良く座っていたけどね。もう我慢の限界に近い感じだった。点滴なんてね、最初からいらないに決まってたんだ。
僕は云おうとする。メイはベッド近くの椅子に腰かけている。ねえ、可哀想だよ? 背もたれがないってのは。
僕はね、背もたれのない椅子を見る度に涙が出そうになるんだな。理由は自分でも上手く説明できないけどさ。嫌なんだ。彼女が苦しそうに爪を噛んだりしてるのはさ。本当に云うよ。
「ねえ、僕さ。限界なんだ。見れば分かるだろ?」
「はあ。何です。くだらないことだったら殺す」
強大な殺意が病室に張り巡らされた感覚だったね。でも僕は我慢ならない。妹もいるんだから、ここにはさ。
「トイレに行かせてよ。ねえ、お願いだよ。一生の願いさ。もう二度と云わないから、お医師さんに文句も云わないし突っかかったりもしないからさ。頼むよ」って僕は云ったんだな。
すると彼、びっくりしちゃったみたいでね、どこぞの漫画みたいに両方の目ん玉が外に飛び出ちゃったんだな。それはね、どこぞの漫画でたまにある、野球ボールが教室の窓を破壊する様子に似てたね。ものすごい勢いで人体と離れ離れになったんだよ。
メイは欠伸してたね。興味がないことに対してはいっつもこうなんだ。いや待ってよ。それが悪いってわけじゃないんだ。本当だよ? 僕は「ライ」って名前だけどさ、嘘つきとは程遠いパーソナリティの持ち主だって、ほんとに自負してんのよ。
彼女ね、目ん玉を一つ拾ってね、僕に渡したんだな。おい、どうすりゃ良いんだよって、そう思う他ないだろ?
「おい! どうすりゃ良いんだ? これ」ってね、実際に口に出していたよ。メイは云う。
「ご勝手に」なんて云ったんだ。
「……不気味だよね、これ」
僕の声は震えてたさ。ぶるぶるっておしっこした後みたいにさ。で、ため息か呼吸か判断つかない軽い息も漏れちゃってたね。無意識のうちにね。
お医師も僕と同じでさ、自分の目ん玉が外に落っこちちゃったことによっぽど驚いているみたい。慌てすぎてね、部屋中のタンスをいくつもいくつも開けては閉じて開けては閉じてを繰り返してたんだ。
実はね、ここ、やたらとタンスばかりが多いんだ。何が収納されているのか見当もつかないけどね、見当をつけてみることにした。とりあえずは人の意見さ。僕は云う。
「ねえ、メイちゃん。あのタンス、何が入ってるんだろ? 分かるかな?」
「うん? どのタンス? お兄ちゃん。愚かで馬鹿馬鹿しいお兄様」って云って、彼女、いつも浮かべる笑みとは一味違った笑みを浮かべたんだな。
おいおい、それってどんな感じなんだよ? って疑問に思うよな。僕だって云えない。それはともかく、僕は自分のベッドから一番遠いとこにあるタンスを指差したんだ。
うん、て頷いて、メイちゃん様はとことこ歩いていってタンスをさ、こう……ガバリ! と、滅多に開けない古い冷蔵庫の扉を開けるみたいに思い切った感じでさ、開けたんだよ。するとね、その瞬間にね、中から跳ねるみたいに登場したのは、お姉さんだったわけさ。
「あらあ? ライくん、おトイレ行きたいのかなあ?」
「えっ、なんで知ってるの?」つって、僕はもじもじ固くなった股間のとこをすりすり弄んだんだ。彼女、にっこりして僕の手を取ったよ。
「行きましょ、ねえ、行きましょ」
「うん……うん……」
僕は赤べこみたいに相槌を打つだけの機械になっちゃってた。妹は背もたれのない椅子にいつの間にか座っててね、足を組んで右膝に右肘を乗せて、その手のひらの上に顎を乗せてね、所在なさげに宙を睨んだり左手のひらの匂いを嗅いだりしていたよ。
そこに青い蝶でも舞っていたらね、たぶん完璧だったんだ。
「ねえ〜……行きましょう?」
「はい」と僕は嫌味ったらしい優等生みたいに頷いた。僕の顔はね、赤べこよりもずっと真っ赤だったに違いないよ。だってすごく熱いんだもの。
とは云っても、今は真夏だもんね。それを加味したってね、僕の顔と首筋から溢れる汗はプール一杯を優に超えていたよ。本当だって!
脳みそウオッシャーって何だろう? ねえ、妹よ。