なんだか割に合わないの意義が
佐佐木陸好き。
僕がキッチンでスパゲティを茹でていると、一本の電話がかかってきた。僕の呼吸は荒くなった。理由はないけれど、確かに僕の呼吸は荒くなっていた。
理由は分からないけれど、兎にも角にも呼吸が荒くなっていたのだ。つまり僕は、呼吸が荒くなっていた。それは確かな事実だった。
いや、事実どころか真実にさえ手が届いているのではないか? と僕は疑いを持った。いや待て。どうして僕は疑いを持ったのだろうか?
いや、持っていない。確かに僕は疑いを持っていたけれど、持ってはいなかったことに気がついた。
そういえば今思い出したのだけど、僕は羊を飼っている。彼女は羊にしては珍しく、草食なんだ。僕はあんまり驚く質の人間じゃないんだけどね、彼女が草食動物であることには本当に驚いてしまって、思わず腰が砕けて病院に担ぎ込まれたよ。もちろん、彼女に担がれてね。
僕は恥ずかしかったんだ。患者やら受付嬢やら医師やら看護婦やらがじろじろ僕を見るんだ。
おい! どうしてそんな目で僕を見る? って喚いてやろうと思ったんだけどね、可愛い羊の彼女がね、『あまり喋らないで。私は肉食よ』って僕に笑いかけたんだ。
いやあ、驚いてさ。僕はまた腰が砕けちゃったよ! もう立てない。あはは! でも僕のペニスは膨らみまくってたね。まるでそれは、フィッツジェラルドの小説に出てくる鯨のペニスよりもずっと膨らんでたに違いないよ。おいおい、本当だよ。
ねえ待ってよ。僕はさ、電話になんて出たくないんだ。たぶん女だよ。いや、女の子かもしれない。
「あるいはそうかもしれない」
僕はそう口に出してみた。うん、なんだかこれは、しっくりこないんだよな。僕には似合わないって意味だぜ?
えっ? どうでもいいって? そりゃ君らにとっては些事かもしれないけどね、僕らにとっては違うんだよ。分かるだろ、えっ?
『……いい加減、黙って頂戴』
「えっ? なに、怒ってる? もしかしてさ……」
僕がそう云うと、彼女は空に浮かんだ月を落っことせそうなため息を吐いて云うんだ。
『あるいはそうかもしれない。なんて云いたくないわ、馬鹿らしい』
「えっ? いや待ってよ。そんなに怒んないでよ。ねえ、僕がキスしてあげる。ねえ?」
『やめてくれる?』
本当に不愉快なの、って君は云った。いや、そうだね。僕だって冗談くらい云うよ。冗談だと思って云ったんだ。そうに決まってるだろう? ねえ……。
ああ、ちょっと待ってよ。腹が痛くなってきたんだ。ねえ、本当だよ。信じてくれよ。僕はね、嘘なんて一度も吐いたことないんだよ、えっ、本当だって。
嘘を吐いたことなんてないっていう嘘なんて吐かないよ。僕はね。
ねえ、つまりさ。僕は病院のキッチンでスパゲティを茹でてたわけだよ。嘘じゃない。彼女さ、そんなに僕を疑わないでほしいよねえ、君らもそう思わない? 思わないのかなあ……。
僕は悲しい気分さ。そんな気分でぐだぐだ遊んでたらさ、看護婦のお姉さんが云うんだ。
「電話に出なくていいんです? さっきからずっと、鳴りっぱなしですけど……」
僕は恐ろしくて口を噤んだよ。黙るべきところっていうのは人生ではいっぱいあってね、今がそう。僕はそう思う。えへへ、ってお姉さんに笑いかけたら、彼女、顔を青くして僕を殴ったんだ。本当だよ。
『…………』
羊ちゃんも黙ってる。僕と同じだよ。でも僕は君じゃない。いや、当たり前すぎるね。ちょっと待てよ。僕は今、一体どこにいるんだ?
看護婦のお姉さんに対してね、静かな夜に隠れた太陽みたいな感じを僕は覚えたよ。つまりね、好きになったんだ。たとえ殴られたってね、好きになっちゃったものは仕方ない。僕はそれを知った。思い知らされたね。
「やれやれ」と僕は云った。あはは! ねえ、彼女? 僕のこの台詞って、誰かに似てると思わない? と僕が訊くと、お姉さんは「もう喋らないでください!」って云ったんだよ。
僕は衝撃を受けたね。とびっきり愚かな恋心が爆発したみたいだった。僕の病的精神を覆っていた静寂を木っ端微塵に壊したね、お姉さんの声は。
僕の哀しみが分かったのか知らないけど、空に浮かんだ大きなお月様も僕と同様にどんどん沈んでっちゃってる。 君らも知ってるだろ? 月は沈むんだ、僕たちの世界ではね。常識なんだ、それが。って自信満々に病院で云い放ったらね、どこかの病室で煙草を吸ってたお爺ちゃんが僕にこう云うんだ。
「おいガキ。俺はな、めちゃくちゃイラついてんだ。この苛立ち、どうしたものか? ええ? ガキ、俺はどうすりゃいいんだい……?」ってね、云ったんだ。
僕は「知らないよ!」って叫ぼうと思ったんだけどさ、なぜか口が開かないの。無言でさ、肉食の羊ちゃんに視線を向けたらね、彼女、ムスッとした顔で白けてんの。
僕は笑った。大声でね……ってあれ?
「おい! 喋れんじゃん! あは!」ってね、云ったよ。
ねえ、お爺ちゃん。僕は云う。
「ああ?」とか怖い反応してくるの。僕、嫌だよ。僕はとびっきり悲しげな表情浮かべてね、云うんだよ。
「ねえ、お爺ちゃん。あんたは、『羊たちの沈黙』って観たことある? もちろんさ、映画じゃなくたって構わないけど」
「ええ? あるさ。舐めるなよ、俺を。トマス・ハーディだろ、ええ?」
「トマス・ハーディ……? そりゃたぶん違うけどさ、合ってるかもしれないぜ。なあ、お姉さん?」と僕がセクシーな気持ちを乗せた視線を飛ばすとね、看護婦のお姉さんは首を傾げるんだ。
ううん、可愛いねえ、って僕は率直に思ったさ。ありがたいね。拝みたい気分になっちゃった!
でね。僕は羊ちゃんから降りて、速攻で土下座の体勢に入ったんだ。するとさ、お爺ちゃん、すぱすぱしてた煙草をポイッと床に落としちゃってね、唾を吐くみたいに云うんだ。
「ガキ、何やってんだあ?」
「地に臥して、ああ我ら、空を仰ぐ……」
「ああ? そりゃあ、どういう意味だよ? ええ?」とか云うんだね、お爺ちゃんは。僕は呆れた。知らぬ我が身、それ即ち仏なりや。ってね。そういう感じさ。
僕は云うよ。「C・M・プリーストが昔云ったんだ。『人は愚かなり。いやしかし、あるいはそうかもしれない』ってね」
『嘘つき』とぼそぼそ云う羊ちゃん。僕は涙目さ。
青い海が僕の両目とリンクしたね。意味分からないと思うけどさ、そういうことなんだよ。事実というか、それよりは真実なんだ。それ以上、僕には上手く云えないな。
ちょっと待てよ。だんだん痛んできたんだ、お姉さんに殴られた傷がさ。分かるだろ? 君らも。
人の痛みを知る人になりなさい、って、僕のおじいちゃんが云ってた。お爺ちゃんとは全然違う、とっても穏やかな気性のご老人だったんだ。
「……もう死んじゃったんです?」
って彼女、云うんだ。無神経なお姉さん! きっと彼女の全神経はね、彼女があぶー! て産まれた瞬間にね、突如目の前に現れた神様にでも引き抜かれたに違いねえや! 僕はそう思うよ。そういう人って、意外といっぱいいるんだ。かくいう僕も、って嘘だけどねそれは。本当に嘘さ。
『やっぱり嘘つきじゃないの』と羊ちゃんは云った。地獄のさらに奥底から響き上がる大音声に聞こえたよ、僕からしたらね。恐ろしいよ。僕は泣きそうだしチビりそうになった気がする。
嘘は英語でライ。ライアーゲームってあるでしょ? そういうあれさ。僕はあんまり深くは知らないんだけどね。
腹痛さ。ああ、仏様! 僕は祈った。祈る前にね、お医師さんに診てもらうべきだと僕は思ってね、名前とか住所とか電話番号とか書いたんだ。なんかのペーパーにね。
本日のお熱はどうですかあ? とか云うんだよ、お姉さんが。別のお姉さんさ。僕を殴った無礼者と違ってね、僕にニコニコ笑いかけるこの女の子は素晴らしいと思ったよ。願わくば、さあ結婚したい。僕はそう思うよ。本当さ。
「ライさん、で、良いんですかあ?」って練乳に浸したプリンみたいな声で僕の病的精神を撫でるんだな、これが。
「良いです。それで、良いです……」僕は冷静かつ静かな声を返した。苦しくて目が回るあの化け物みたいな羊ちゃんは『ゴミ女』って、ええ? おい、どういう言葉だよそれは!
羊ちゃんの子宮をさ、ベリベリって引き摺り出してね、あったかいマフラーにしてやりたい気分がムクムク心臓らへんから伸びてきたよ。
しませんよ。君らだってしないでしょ。僕は穏やかさにかけては家族譲りなんだ。本当さ。僕は、でっかいため息で全部を誤魔化せたら良いと思った。とかね、思いながらね、書いたよ。記入すべき全部をさ。
「はい、大丈夫でえす」って甘ったるい声さ。ねえ、お姉さん。あの無礼者とは大違いさ。どっちも可愛いけどさ、僕の好みはすぐに変わっちゃうんだ。やっぱり優しくしてほしいのは男はみんな同じだよ。僕は彼女に云う。
「ねえ、僕をぶったお姉さん」
「あの……さっきからずーっと、電話が鳴り止みませんけど……」って僕の言葉は全然届いていないみたい。
僕は頭に生えたチェンソーを振り回すみたいにして、ただヘッドバンギングを繰り返していた。
「健康に悪いですよお、それ」と上唇だけリップスティックを塗ったみたいに赤いお姉さんは云った。ねえ、やっぱり僕は好きだと思う。
君らもね、きっと会ったら好きになっちゃうと思うよ、彼女のこと。
安心した生活に安心しきっている君らに、僕は死んだカササギを投げつけてやる。