デーモンは処女の掟を説いたものだった
アセットはパモナを探す必要もなかった。
「アセットー!」
パモナがエクウスに乗って斜面を下ってくる。
ふたりはオークの集落の外れで合流した。
アセットの見たところ、パモナの顔色は青ざめているようだった。
「パモナ、危ない目には遭わなかった?」
「ちょっと疲れただけ。アセットのほうこそだいじょうぶ?」
「うん、たぶん……」
口ではそう言ったものの、身体を包むヒリヒリした痛みには軽い恐怖を覚えていた。
プライマル・スーツを脱ぎたくない。
しかしイステバが告げた。
「近くにオークはいない。離れるよ」
装甲が帯になって解け、イステバの姿に凝集する。
生身に戻ったアセットを目にして、パモナは悲鳴を抑えたような声をだす。
「アセット!」
その目は悲壮さを湛えていた。
見ているとアセットも怖くなってくる。
恐怖を噛み殺して、アセットは自分の身体に目をやった。
「そんな……!」
アセット自身、悲鳴をあげそうになった。
半袖チュニックから覗く腕、ハーフパンツから伸びる足、
両方とも、四肢のすべてが焼けただれて赤剥けになっていた。
服は無傷だったが、下の皮膚はボロボロだった。
チュニックをめくりあげると、腹もひどい火傷を負っている。
無事なのは顔だけだった。
イステバが冷静な声で言った。
「デーモンの魔法を甘くみるから。普通の火じゃないのよ。悪魔の騎士の装甲は焼けなくとも、中身を直接炙ってくる。次は油断しないことね。次があればだけど」
アセットは震えて手をみつめた。
「そんな、どうすればいいの、イステバ?」
「アタシにはどうしようもない。時間の許す限り悪魔の騎士になって痛みを抑えてあげることぐらい。大きな街で治療を受けるしかないでしょ。下手したら街に着くまでに死ぬ」
アセットは泣く余裕さえなかった。
「わたし、こんなところで死ねない! こんなことで死ぬなんてお断り! どうにかしてよ、イステバ!」
「アタシには治療できない。すぐに引き返して医者にみせるしかないよ。気力の続くかぎり走るの。死にたくなければ」
プライマル・スーツの麻酔効果が切れてきたのか、徐々に痛みが強くなってくる。
アセットは自分の慢心を呪った。
自分は無敵だと思っていた。
デーモン魔法がこんなに強力だとは思わなかった。
けっきょくこの旅は失敗だ。
しかし、命さえあれば次の機会もあるだろう。アセットは決断した。
「わかった。戻る。途中で力尽きたら、パモナが操縦を代わって」
パモナは青ざめた顔で言った。
「わたしが治癒魔法を試してみる」
口をわななかせて続ける。
「でも失敗するかもしれない。傷がひどいから。そうなったら貴重な時間を浪費してしまう。それこそあなたは助からなくなるかもしれない。賭けだけど、あなたが決めて」
思いがけない申し出だった。
希望が恐怖を押しのける。
アセットとしては、もうほかの選択肢は考えられなかった。パモナの力を信頼するだけだ。
「ありがとうパモナ。わたし、あなたに賭ける」
「じゃ、じゃあ場所を移しましょう」
イステバが無感情に言った。
「アセットが死んじゃったら、あなたが責任をとってよね。アタシと契約するの」
三人は大岩の陰に移動した。
オークの住居は不潔だったので利用はためらわれた。
それなら屋外のほうがよいと判断したのだった。
岩の陰に入り、エクウスを衝立のように置くとパモナは言った。
「服をぜんぶ脱いで、横になって」
羞恥心が湧いたが、ためらっている余裕はなかった。
服は傷から滲んだ体液で、べっとりと湿っていた。
身体全体がじんじんと痛み、熱かった。
衣服をすべて脱いで裸になると、アセットは身を横たえた。
身体の下の草が冷たくて慰めになる。
パモナが傍らに腰をおろす。アセットのほうへ屈んできながら言った。
「術中、眠くなってきたら我慢しないで眠って。寝ているほうが治癒効果が高まるから」
「わかった」
「じゃあ始めるから」
パモナはアセットのじくじくと湿った腹に、直接手を置いた。澄んだ声で呪文を唱える。
「天然自然に満ちあふれ、生まれ、育て、癒やす諸力よ、その恵みをわけあたえ、わが小窓より流れいでたまえ……」
爽やかな安らぎが、パモナの手からアセットの腹へ広がった。
それは優しく染み入ってくる。
焦燥感が溶かされていくのを感じた。アセットは早くも眠気を感じていた。
「わたし眠りそう。パモナ、あとはおねがい」
術に集中しているらしくパモナは返事をしなかった。
アセットは意識を失った。
どれほど時間が経ったのか、アセットが目覚めると辺りは暗かった。
月明かりが照らしていて周囲の様子はわかる。
パモナが横で寝息をたてていて、さらにその隣にはイステバが大の字になって伸びていた。
なにがあったかはわからない。危険はないようだった。
アセットは自分の裸体を調べてみた。
治っていた。
月明かりのもとでは、前と同じように張りのある肌が蘇っていた。
ここまできて、アセットはやっと泣く余裕を取り戻したらしかった。
我知らず涙が頬を伝って落ちる。
「ありがとう、パモナ。ありがとう……」
鼻をすすりながらアセットは思うさま泣いた。
服は乾いた体液でくっつき、もう着る気になれなかった。
裸のままエクウスから数少ない着替えを取りだして身につける。
ブーツまで履くと、アセットはまずイステバの身体を揺すった。
「イステバ、起きて。なにがあったの」
パチリと青い瞳が開いて輝きを放った。
身体を起こしてあくびをする。
目をこすりながらイステバは言った。
「さすがのアタシも寝たわ。いま何かあったらヤバかった。完全に意識を失ってた」
「なにがあったの?」
イステバは寝ているパモナを見下ろした。
「パモナ、魔力が尽きちゃって。それで刻印を描いて臨時に魔力供給したんだけど、すごい勢いで吸われたわ。それでいつの間にか寝てた。アタシともあろうものが、人間に魔力供給したぐらいでへたばるなんて信じられない。パモナはほぼ超人級じゃないの?」
アセットはイステバの小さい手を握った。
「ありがとう、イステバ。あなたもわたしを助けてくれたのね」
「ま、まあ、死なれても面白くないからね。これからは自分の幸運に頼りすぎないで」
「わかった、ありがとう」
状況がわかって落ち着いてみると、どこか遠くから騒いでるような音が漂ってきた。
オークの集落、出入り口のトンネルからだ。アセットは気を引き締めた。
「オークが戻ってきたの?」
イステバは否定した。
「あれは人の声よ。オークじゃない」
「じゃあ開放した人たちが戻ってきたの? 様子を見にいこう。パモナを屋根のある場所で寝かせたいし」
アセットはイステバと抱きあって悪魔の騎士となった。
パモナも大柄なほうではないが、アセットの素の腕力では運べない。
エクウスから毛布を取りだして、パモナの身体を包む。
抱きあげてもパモナは身じろぎひとつしないほど、深く眠りこんでいた。
オークの集落へおりていくと、月明かりの下、累々たる死体の山がほったらかしだった。
どこへ行けばいいか。
アセットは少し考えて、パモナを鍛冶小屋へ連れて行くことにした。
鍛冶小屋へ入っていくと、ここにもオークの死体が残っていた。
パモナをいったん降ろして死体を外へ放りだす。
ここはオークの施設にしては清潔なほうだった。
比較的きれいな場所へパモナを寝かせる。
パモナの表情が和らいだような気がする。それからアセットは山裾のトンネルへ向かった。
山の内側へ入って二番目の扉、奴隷部屋を調べるてみたが、もぬけの殻だった。
さらに奥へ進む。明かりも騒ぎもそっちのほうだった。
山の奥にある広間は、松明が何本も灯されて明るかった。
いくぶん掃除もされており、衛生も保たれている。
その広間で人々が宴会を開いていたのだった。
オークの酒や食料をやせ細った身体に流しこみ、高らかに歌っていた。