悪魔のくちづけは旅のはじまり
不運にも探し求めていたものを見つけてしまった。
デーモンの墓場を。
見つからなければちょっとした冒険譚、山の中を探索して疲れて帰宅。
それで済んだはずだった。番人を目覚めさせることもなかった。
しかしアセットたちはデーモンの墓場をみつけてしまった。そこの番人を目覚めさせてしまった。
岩の身体を持つ巨獣、四足のガーゴイルがアセットを睨めつけている。
威嚇するようにあぎとを広げて咆哮した。
「ひっ……!」
アセットは倒れた墓石の上にしゃがみ込み、動けない。身体中が瘧のように震えていた。
仲間たちが助けに戻ってくる気配はない。
仲間たちだって十代の新米冒険者だった。
いちばん年下のアセットは荷物運びでどうにか連れてきてもらった。
みんなかよわい未熟者だった。
不運にも足を挫いたアセットが囮になったような形で逃げ延びたのだ。
彼らが戻ってくる可能性はない。
アセットは左足を挫き、膝から血を流していた。
その血が脛をつたい、倒れた墓石に染みこむ。
ガーゴイルは、より多くの恐怖を味わわせるかのようにゆっくりうろついた。
獲物が自分を楽しませるほどの力を持っているか、値踏みしているようでもあった。
アセットはもちろん、そのような期待に応える力を持たない。無力な子うさぎだった。
目立たない黒髪の、十四歳の少女でしかなかった。
値踏みも終わったというように、ガーゴイルの動きが止まった。
次の瞬間、あぎとを開いて咆哮とともに飛びかかってくる。
「……っ!」
アセットは最期を悟り、固く目をつぶった。
アセットは身を固くして待った。
だが、最期の瞬間は訪れない。
アセットはおそるおそる薄目を開ける。
見えたのは白くて細い左腕。
地中から生えたその弱々しい腕が、
ガーゴイルの突進を押し止めるかのように、大きく手を開いていた。
ガーゴイルは腕を前にして、戸惑うように首を捻っている。
アセットは息を呑んで腕を凝視した。それしかできることもなかった。
すると腕がもう一本、今度は右腕が地中から飛び出してきた。
両腕は地面に手をつき、地中の身体を持ち上げる。
頭が、次いで身体全体が現れた。
それは少女だった。
生き埋めにされた少女が脱出してきたような図だった。
アセットの見守る前で、コルセットドレスを着た少女は優雅に手で土を払った。
それだけでまるで洗いたてのように少女の汚れが落ちる。
薄暗い洞窟のなかで、燐光のごとく金髪が輝いた。
ガーゴイルが警戒の唸り声をあげる。
少女は不自然に煌めく青い瞳でアセットを見た。腰に手を当てて口を開く。
「処女の守護者、イの三姉妹が長女イステバ。処女の血によって現し世に返り咲いたわ」
そういってイステバは、血が滴るアセットの傷口を指差した。
アセットはただ震えるように頷いただけだった。言葉はまだ出せない。
この十二歳ていどに見える妖しい少女はデーモンに違いない。
超常の魔法生物。
アセットは直感した。それ以外に説明しようがない。
このデーモンの墓場に葬られていたところを、アセットの血を吸って蘇ったのだ。
それで、どうすればいいのか。
巨体のガーゴイルは健在で、デーモンが蘇り、自分は足を挫いて血を流してへたりこんでいる。
痺れを切らしたようにイステバが言った。
「アタシとしてもアンタみたいなちんちくりんは困るんだけど、するしかないっしょ、契約。期間はアンタが死ぬか処女じゃなくなるまで」
なにか返事をしなければならない。
言葉を返さなかったら、この窮地で唯一の味方である彼女も去っていってしまうかもしれなかった。
アセットは気力を振り絞って、かすれた声を出した。
「け、契約したらどうなるの……?」
なんとか言えたのはそれだけだった。
イステバは得意げに胸を反らした。
「ここから外へ出られる。あのガーゴイルもいまはおとなしいけど、外へ出ようとしたら誰彼かまわず襲ってくるから。回収したいお宝もあったはずだし。とにかく困ってるの。契約しないとアタシ、ほぼ見た目そのままの力しかないし。たぶん、アンタもあんまり選り好みしてるよゆーないと思うけど」
アセットは萎縮した。
こんな少女の身なりをしていても、デーモンと契りを交わすことは恐ろしかった。
デーモンと関わることで大きな不幸に陥るおとぎ話を、数限りなく聞かされて育ったのだから。
大昔、人とデーモンは当たり前のように契約し、超常の力をおおいに振るっていた。
その世の末に起こったのがパルツァベルである。
人々とデーモンは愛憎のるつぼで争い、大地は荒廃した。
その争いの果てに、人は数を減らし、デーモンは地獄へ還り、
人でもデーモンでもない異形の怪物たちが地上を跋扈することになった。
いまや人の数は回復し、怪物たちの数は減ったが、パルツァベル以前の理想郷には程遠い。
アセットは本物のデーモンと出会うとは思わなかったし、
ましてやデーモンと契約したいと思っていたわけでもない。
デーモンの墓場なんていう神秘に包まれた場所が見つかれば、
彷徨城塞アガモルゲの、その中心部にあるという時の門について、
なんらかの情報が得られるかもしれないと考えただけなのだ。
アセットの目的はただひとつ。時の門を使って姉の死を回避したかった。
オークの群れに村が襲撃されたとき、アセットを庇って死んだ姉を。
決してこの身をデーモンに委ねたいわけじゃない。
いま、アセットの目の前には地の底から蘇ったデーモンがいる。可憐な少女の姿をして。
彼女のいうとおり、生きてこの場所をあとにしたければ、選べる道はひとつ。
姉の死をなかったことにできるまでは、自分は死ねない。
イステバとの契約に賭けるしかなかった。
アセットは決意を言葉にした。
「け、契約します、あなたと……」
「まあ、それしかないけどね」
イステバはさばさばとした様子で続けた。
「それじゃ、契約の証として首筋から血をいただくから」
「えっ」
イステバは有無を言わせず、アセットの黒髪をかきあげて首筋に唇を這わせた。
そして隠れていた犬歯で皮膚を裂く。一筋流れる赤い血潮。
「うあ……!?」
アセットは酩酊に似た感覚を味わった。
首筋には二孔の穴が開き、
ひとつの穴からはアセットの神経が流れ出てイステバの体内に広がり、
もういっぽうの穴からはイステバの体感覚が流れこんできてアセットの体内に広がる。
それが錯覚か現実かわからない。すべてがほのかに心地よかった。
その感覚も終わる。
こうしてアセットとイステバは契約を交わし、お互いの体内に魂の共有部分を作りあげたのだった。
「はぁ、おいしいけど、ほんのひと吸い。これでアンタは悪魔の騎士よ。運命共同体」
恍惚とした表情で妖しく微笑み、イステバは続けた。
「見て、アンタの髪、きれいな銀色になった」
アセットは自分の髪を見た。黒髪だったそれはすっかり色が抜け、青みがかった銀色に輝いていた。
デーモンと契約した者の外見的な変化。
アセットは十四歳の若さにしてデーモン使いとなったのだった。
この変化がアセットに決心をもたらした。いままでよりもはっきりした口調で言う。
「これからどうしたらいいの、イステバ。わたし、足を挫いていて」
「さっそくあたしの能力を使うしかないわね。プライマルスーツを展開するから。悪魔の騎士なら襲ってこないかもしれないし、襲ってくれば叩き潰す。それだけよ。じゃいくから」
座っているアセットに、イステバが身を屈めて顔を寄せてくる。
「あっ」
アセットはたじろいだ。
顔が近づき、唇と唇が触れ合うかどうかという瞬間に、イステバの身体が帯状に解ける。
イステバだった帯はアセットをくまなく包み込むと硬化した。
アセットはほの温かい感触に包まれていた。
顔を触る。視界はいままでと変わらないが、硬い兜に包まれていた。
腕も鋭く流線型をした装甲に覆われている。身体中が鮮やかな紺碧と金色の金属光沢を放っていた。
イステバはアセットを包み込む鎧となったのだった。
頭のなかにイステバの声がする。
「あら、アンタ、なかなかいい色に染まるじゃない。わりと素養があるのかもね」
アセットは手足の具合を確かめながら聞いた。
「これは、なに……?」
「あたしよ。アンタに力を与えるプライマルスーツになったの。そしてアンタはもう悪魔の騎士。剣も矛も矢も跳ね返し、素手で岩を叩き潰せる魔人よ。立ってみて。プライマルスーツの内側には痛みを麻痺させる呼気が循環しているから」