08、二人で眠ればあたたかい
「助けて!」
冷たい手が、美紗の足を雲の上へと引き上げる。
されるがまま、美紗は雲の上に這い上がった。
「河太郎!」
足をつかんだ主を振り返って、美紗は安堵の溜息をもらす。
「危ねえことしないでくんなさいよぉ。おいらが魔王様に怒られちまうんだから」
しゅんとしている河太郎に、美紗は、
「ごめんごめん」
と舌を出して、反省しているのかしていないのか分からない顔。
「望みの海が入っていた小瓶を持ってるでしょう?」
河太郎に訊かれて、美紗は革袋の中をまさぐり、
「これ?」
と空の小瓶を河太郎の目の前へ持ってゆく。
「そうそう、その口のコルクを抜いて、この海に向けて――」
言われたとおりにすると、海と雲が音もなく小瓶に吸い込まれ、しゅるっと入ってしまった。首をかしげて小瓶をみつめていると、瓶の中でちゃんと重い水は下のほうへ、雲は上のほうへと移動してゆく。おもしろ半分、振り混ぜたら河太郎が、やめておくんなさい! と悲鳴をあげた。
河太郎の湿った手に引かれて、からの猫の袋を片手に魔王の待つ部屋へといそぐ。重い扉を押し開けると、
「遅い!」
と第一声、魔王に怒鳴られた。声の主はテーブルの上にちょこんと立って、胸を張っている。
「料理が冷めてしまうではないか。人の家の中を勝手に歩き回って、なんとデリカシーのない娘だ。まったくどこへ行っていたのだ」
頬を膨らませて答えない美紗の代わりに、
「望みの海を使って、自分の国へ手を伸ばしていました」
と河太郎がありのままを報告する。
「美紗はあちらへ帰りたいのか? あちらでの毎日は最悪だったのだろう?」
美紗の心をのぞき見るように、金色の目を細めた。
「違うよ。あたしはただ、木の枝に置きっぱなしにした色鉛筆を探してただけだよ」
「すべて折られているものを?」
「だからだよ。真希への恨みを忘れないために」
魔王はにっと笑った。
「よいことだ」
美紗もにっと笑って、
「じゃあディナーにしよう!」
「海鮮地獄尽くし、スペシャルメニューを特注したぞ」
わーい、とばんざいする。猫の袋を敷いて椅子に座る美紗の横から、河太郎はそそくさと退出した。
洒落た仕草で料理を運んでくるのは、牛の頭に大きな角を持ったボーイだ。
「地獄巡り其の一、地獄血の池スープでございます」
赤いスープにあさりと海老が沈んでいる。ひとくち飲んでみるとトマトの風味に海の幸が香って、とてもおいしい。スプーンに乗せたスープをふうふうしている美紗に、魔王は自分専用に特注した小さな小さなスプーンを口に運びながら、
「美紗、そろそろその革袋を私に返す時間だぞ。一日という約束だったろう」
「えー、一日は二十四時間、だから明日の昼までだよ」
「いや、一日は日没と共に始まるのだ。日が暮れたのだから、もう約束の日は終わったぞ」
二人はにらみあう。先に目をそらしたのは、美紗のほうだった。
「だってこれを返したら、魔王は『闇の呪書』を使ってもとの大きさに戻るんでしょ?」
当然とばかりにうなずかれ、
「あたし怖いもん。けっこうひどいこと言ったり身勝手なことしたりした気がするから」
「自分で気付いていたのか」
感心したような声を出す魔王。美紗は余計に焦って、
「ほら、そんなふうに言われたら絶対返せない! 魔力が戻った途端、仕返しされちゃうもん」
う~ん、と魔王は腕を組んで考える。眉間にしわ寄せ首をかしげ、それからぽん、と手を打った。
「美紗、私を信用しろ」
「できるか!」
美紗は一蹴した。
魔王が用意させた寝室には、天蓋つきのふわふわベッドが用意されていた。ずいぶん離れた向こうの壁に、かごに入った小さなベッドが置かれている。押し問答のすえ結局美紗が革袋を抱いて寝ることになったので、魔王はまた特注サイズを用意させねばならなかった。食器もバスローブもベッドも、家来たちが魔力を集結させて魔王様の意に添うものを作っているのだ。
ベッドは豪華でふっかふか、だけど美紗は革袋を抱いたまま寝付けずにいた。どうして色鉛筆がなかったのだろう、不安の種が、頭にくっついて離れない。風に吹かれて袋から出て、木の下に落ちてしまったのだろうか。草の上で土にまみれ、ばらばらになっていたらどうしようと、美紗は泣き出しそうになった。いくら布団を掛けても、ちっともあったかくない。雲のお風呂は最高に気持ちよかったし、ディナーはとてもおいしかったけれど、お母さんと夕樹と作るえび焼売がなつかしい。あたしは一生ここで暮らすのかなあ、と考えてみる。べつにそれも悪くはないんだけど、お母さんたちにはちゃんとお別れくらい言いたい。
魔王はいじわるだけど、悪い人ではない気がする。革袋を返さなければ、ずっとこのまま、ここにいさせてもらえそうだ。だけど美紗自身がどうしたいのか、それが一番分からない。仕返しもできたし気も済んでしまった。
暗闇の中で目を開けていると、今日見た様々なものが浮かび上がる。冷蔵庫に貼ってあったあたしの似顔絵、昔の手紙、猫のぬいぐるみ―― なんだかむしゃくしゃしてきた。昔のあたしの大切なものは、みんな誰かに関わるもの。お母さんが描いてくれた絵や、友だちからの手紙や、おばあちゃんの買ってくれた猫や。今のあたしが大切なのは、この自分自身だけ。なんだか人でなしに育ったみたいで腹が立つ。自分を人でなしなんて分かってしまう、まともな感覚が残っていることも腹立たしい。
真希の大切な好きな人の写真も、明美の大切な真希からのプレゼントも、みんな誰かにつながっている。真希の言ったとおり、あたしだけがひとりぼっちなんだ。
美紗はやおらベッドに身を起こしスリッパを突っかけると、つかつかと扉に向かった。無用なことを考えるときは、ほかのことをしたほうがいい。トイレにでも行って来よう。扉を押すとやけに重い。その理由はすぐに分かった。扉に寄りかかって、天狗のじいさんがいびきをかいていたのだ。
「なんでこんなとこで寝てるの?」
美紗はちょっと怒って、その耳元で大きな声を出した。じいさんはびくっとして目を開けると、
「わしゃあ、おぬしの見張りをしているのじゃ。おぬしが、そいつをいつまでたっても魔王様に返さねえから、みんな仕事が増えてるんじゃぞう」
と革袋をにらむ。
「見張りが寝てちゃだめでしょ。あたしが逃げないようにトイレに連れてってよ」
じいさんは、どっこいしょ、と立ち上がった。
「わがままな娘じゃなあ」
トイレから帰ってくると、向こうの壁のほうにぼんやりと、小さな二つの光が見える。
「眠れないのか?」
声をかけられて、それが魔王の金の瞳だと分かった。美紗はうなずいて魔王のほうへ近付く。考えてみたら、いつも夕樹と二段ベッドで寝ているのだから、こんなに離れて寝たら淋しいに決まっている。
「せっかく同じ部屋にいるんだから、もっと近くで寝よう」
美紗はかごを抱き上げると、広い部屋を横切って自分の枕の横に置いた。枕元には窓がある。カーテンの隙間からさしこむ月明かりに誘われて、そっとカーテンを引くと、豪華なベッドとかごの中の魔王が透明な光の中に浮かび上がった。冷たい窓に額をくっつけると、下に広がる石の町は冷ややかな銀の光に照らされて静かに眠っている。
「ここで寝てよ、いいでしょ」
ちょこんと首をかしげて、美紗は魔王の銀色の髪を撫でる。魔王は猫みたいに頭を振って、
「偉大な私を馬鹿にするな。美紗、寝相はいいのか?」
「悪いよ。でもあんなに離れてちゃ淋しいでしょ」
魔王は溜息をついて、かごの中の布団にもぐり込んだ。
「悪い夢を見ろよ、美紗」
「魔王ちゃんもね」
笑って足を突っ込んだ布団の中は、トイレに行く前とはうってかわって、こたつの中みたいにあったかい。態度に似合わない、魔王の静かな寝息を聞きながら、美紗もやがて小さないびきをかきだした。