07、獅子の扉の向こう側
「ようこそ。お前の指を、我が輩の口に」
かがんで獅子の口に指を入れると、扉がかすかにきしんだ。獅子の口に入れた人差し指で、扉を押し開く。膝をついてくぐった先は、引っ越す前の家だった。ダイニングルームの美紗の椅子に、猫のぬいぐるみが座っている。ずっとずっと昔に従姉と動物園に行ったとき、おばあちゃんが買ってくれたものだ。引っ越しのどさくさに紛れて失くしてしまったことを思い出す。
(違うよ)
美紗は首を振った。貸別荘に持っていって、落としてしまったんだ。小さい頃の記憶はぼんやりとしていて、つかみどころがない。
(うんと泣いたことは覚えてるのに)
あたしはどこで泣いていたんだっけ? 肝心なところが思い出せない。この子を抱いていなければ、どこにもいけなかったのに、いつのまにか忘れてしまった。
きっと魔王は、人の大切なものがすぐに欲しくなってしまうのだ。「銀の魔笛」でそれを叶え持ち主に「忘却のメロディ」を聴かせれば、もう探されることもなく誰かの大切なものは魔王のものになる。だけど彼はまたすぐに飽きて、ほかのものが欲しくなる。そうして放り出されたものたちは、持ち主からも魔王からも忘れ去られて、ここで眠っている。
(魔王はなにを探しているんだろう)
美紗は静かななつかしい部屋で、テーブルに肘をついて目を伏せた。魔王は大きな魔力と大きなお城とたくさんの家来を抱えて素敵な七つ道具を持っていて、なんでも思い通りになってしまうから、それ以上必要なものがあるなんて思いもしないんだろう。だけど人の大切なものを奪ってみたくなるのは、大切なものを探しているからだ。
(でも魔王は、探し物があることにすら気付かない)
壁に掛けた籐の箱に古い手紙が入っている。宛名書きはひらがなの目立つ幼い字、前の小学校で一番仲の良かった子が、美紗がこちらに引っ越してきてからくれた手紙だ。今も机の奥にしまったままだと思っていたけれど、魔王に盗まれていたんだ。そういえばあの子のこともこの手紙のことも、このごろまるで思い出していない。
(あたしはなにを探してここへ来たんだろう)
冷蔵庫に、髪を二つに結った小さな女の子の絵が貼ってある。ずいぶん前に、お母さんが色鉛筆で書いたくれた絵だ。長い間、宝物と思って大切にしていたのに。
(そうだ、色鉛筆)
木の中に隠したままの、三十六色色鉛筆を思い出す。すべて折られてしまったけれど、たった一日しか使えなかったけれど、一生大切にしまっておきたい。置き去りにされたまま日が暮れて、色鉛筆はどんなに心細いだろう、それを思うと、いても立ってもいられなくなり、美紗は低い扉をくぐって石段を駆け下り、「望みの海」を広げた部屋へと走った。
(あの色鉛筆は一生大切にするんだから。魔王に盗まれて忘れたりしないんだ)
無惨に折られた姿を見るたびに、美紗の胸もえぐられるだろう。だけどそれも構わない。この怒りと恨みを忘れたら、そんなのもうあたしじゃない。一生覚えていて、真希のやつを呪い殺してやるんだ。
部屋の中に黒い海が広がっている。それを縁取る雲に乗って、
「海さん海さん、河原で一番高い桜の木を見せてちょうだい」
水面がゆらめいて、町明かりと月明かりに照らされて、夜風に葉を揺らす大きな木が現れる。
「もっともっと枝の中を見せてよ」
美紗の記憶をたどるように、みなもの画像は太い幹を這い上がり、生い茂る葉をかきわけ枝を映し出す。美紗は目をこらした。
(このへんのはずだけど)
暗くてよく見えない。雲から身を乗り出して片手を突っ込むと、水の向こうに葉っぱの感触がある。手を伸ばした指先に、布の袋が触れた。
(やった、みつかった!)
手探りで布の袋を枝からはずす。だが妙に軽い。嫌な予感が美紗の心をかき乱す。
体をあげて雲の上で、布の袋をひっくり返した。
「ない」
血の気が引いてゆく。猫の絵がついた布の袋に何も変わったところなどないのに、中はからっぽだった。
(どうして)
冷や汗のふきだした背中に、薄手のシャツがひっつく。
もう一度、半身を水の中に突っ込んで、できる限り手を伸ばす。思いきって息を止め顔を水につけると、ほどなくしてふと息ができるようになった。湿った夜の風が頬を撫でる。足の先で雲をつかんで片手で枝を握って体を支え、美紗は目をこらして色鉛筆を探した。
(どうしてないの)
額に汗が浮かぶ。もっと奥を探そうと身を乗り出したとき、雲をつかむ足がすべって、美紗はほとんど木の上に落ちかけた。体勢を立て直すこともできず、恐る恐る足のほうを振り返ると、膝から先がかき消えている。
「ひゃあっ」
と思わず悲鳴をあげて視線を前に戻した。体を支える両腕がきりきりと痛み出して涙目になったとき、濡れた手が足首をつかんだ。
「助けて!」
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