01、手のひらサイズの魔王と出会った日
美紗は桜の木の一番下の枝から、夏の空を見上げていた。
(空を、飛べるかなあ)
飛べる気がする。なぜならあたしは「選ばれし者」だから。
両手に抱えているのは三十六色の色鉛筆。昨日の誕生日パーティーで、お父さんとお母さんからもらったのに、今日学校に持っていって三時間くらい自慢話をしたら、机の中に入れて教室を離れたすきに全部真っ二つに折られていた。
腹が立つ、許さないぞ。下手人は大体予想がつく。だけど悪事を見ながらそれを許すクラスの奴ら、全員敵だ!
大切な色鉛筆を猫の絵がついた布袋に入れて、木の枝にかけて隠した。重たいランドセルを下に放り投げると、急に軽くなった背に羽が生えたみたいだ。
(あたしの羽は真っ黒い羽。こうもりみたいに奇妙な形をしてるんだ)
青空の下、七月の日差しに輝く川。桜の木は流れの上に、美紗の乗った枝を差し出している。
(飛んでみせる)
美紗は枝から身を躍らせた。一瞬あと、全身がむち打たれたようにしびれて息ができなくなった。必死で空気を吸い込むと、大量の水が口から流れ込んだ。
上から見ているのとはまったく違って川の流れは急だった。やみくもに動かしていた手が何かをつかんだ。袋だ。いろんなものが入っているようだ。
(助けて!)
叫んだつもりが声にならない。
(岸はどこ?)
両手でしがみついた袋が、空気の塊みたいに浮かび上がった。みなもに顔を出して、まるで生き物みたいに岸へと近付いてゆく。
「すごいすごい、行けーっ」
おぼれかけたことも忘れて、美紗は革袋に声援を送る。
あっという間に、岸にあがることができた。びしょぬれになって桜の木の下で息をつく。同じくびしょぬれの革袋を膝に乗せて紐を解いた。中には見たこともない不思議なものが、たくさん詰め込まれている。何かの道具? 骨董品? 宝石? その中に、ぼんやりと赤い光を放っている石があった。だんだん弱まる光を興味津々みつめる美紗の耳に、男の声が聞こえた。
「人のものを勝手に見るな。勝手に触れるな」
呆れた口調はなんとも偉そう。感じの悪い声にむっとして、あたりを見回すけれど人影はない。美紗は革袋の中に視線を戻した。光る石は黒炭のように真っ黒くなって、もうちっとも赤くない。
「その袋をこちらへよこせ。言うことを聞かないと、痛い目に遭わせるぞ」
また聞こえる男の声。その脅しが気に障って、美紗は袋を抱いて立ち上がった。
「かっこつけたこと言ってないで姿を現しなよ。早く出てこないとこの袋、川に捨てちゃうよ」
「そ、それはよせ、小娘」
声は慌てた。
「小娘じゃない、美紗だ」
「では美紗、桜の木を見上げるんだ。枝の端に私の姿が見えるだろう」
言われたとおり、さっきまで座っていた枝を見上げる。その枝の先の先、細い枝に何かひっかかっている。
背伸びして目をこらすと、美紗は思わずつぶやいた。
「なにこの変な人形」
くるりと曲がった角が生えているけど、一応人の形をしている。
「失礼なことを申すな。私はこの世界の闇と悪を統べる魔王だぞ」
黒いマントが枝に絡まって、じたばたもがきながら彼は怒った。
「うそ。そんなちっちゃい魔王がいるわけないじゃん」
「『いじわる天使』につかまって、このような情けない姿に変えられてしまったのだ。とにかく話はあとだ。美紗、私をここからおろしてくれ」
美紗は精一杯高く、両手を差し出した。
「早く飛び降りてよ」
男は思いきって首からマントをはずすと、美紗の手のひらに落っこちた。菜の花の雄しべと雌しべを観察するみたいに、美紗は自称魔王を眺め回した。血を抜かれた白人男みたいに青白い顔をして、金色の目ばかりぎろぎろと光らせている。だけどその目に見覚えがあるような気がして、美紗は記憶の糸をたぐった。
「そんなにみつめるな」
なにを勘違ったか、魔王はふっと笑って目をそらす。美紗は無言で彼を草の上に落っことした。
「これはあんたの?」
革袋を示すと、
「そうだとも。早く返しなさい」
尻餅ついたまま、また偉そうにする。
「それの中に闇の呪書も入っている。呪書に記された魔法陣と解呪の言葉で、きみは私の本来の姿を見られるのだ」
見たくないよ、と呟いた美紗には気付かず、
「天使は、私が宵の宴に歌い踊り明かしていた隙をついて、私に呪いをかけ空から落としたのだ。しかも、七つ道具の入った袋を川に放り投げた」
洒落た仕草で銀髪をかきあげ、
「卑怯者め」
と吐き捨てる。
美紗は幹に寄りかかって、袋の中からさっきの石を取り出した。
「これはなに? 色が変わったよ」
「勝手にさわってはいけない」
けちなことを言って魔王は手を伸ばすけれど、美紗の膝までしか届かない。美紗は紅い唇でにっと笑い、
「やっぱりあんた偽物だ。歌と踊りに興じて天使の罠にはまっちゃう魔王なんて、聞いたことないもの。これがなにか分からないから、教えられないふりしてるんでしょ」
石を片手に乗せて、ぽーんぽーんと放り投げる。足下で魔王は難しい顔して考え込んでいたが、迷ったすえプライドが勝った。偽物なんて言われるのは許せない。
「それは『黒いルビー』だ。強く念じれば、どんな願いも叶う。だが人間の精神力などたかが知れている。大きな願いをかけながら祈る力が弱ければ、石に吸い込まれて二度と出てこられない」
ふーん、と新興宗教の勧誘を受けたような顔をして、美紗はまた袋の中をあさる。
「これはオルゴール?」
石をしまって次に出したのは、紫檀のような木彫りの蛇だ。とぐろを巻き、目には青い石がはめこまれ、尾を回す仕組みになっている。
「そう。それが奏でる『忘却のメロディ』は、世界一素晴らしい音楽だ。だが私以外の者が聴けば、あまりの素晴らしさに様々なことを忘れてしまう。音をひとつ聴いただけでも一時間ほどの記憶を失う。一曲最初から最後までを聴けば、自分の名前すら忘れてしまうぞ。真の音楽は、この世でただひとり私にしか分からないということだな」
魔王はのけぞって、さも楽しそうに笑った。
「そんなのつまんないじゃん」
「なぜだ?」
美紗の言葉に、魔王は不思議そうに目を見開く。なぜと訊かれてもうまく答えられないけれど、おもしろい本を読んだとき、おもしろいよね、ね、と言いあえる人がいれば、そのおもしろさは倍になる。世界一素敵な絵を手に入れてもそれが誰にも見えなかったら、美紗はそれを持っていることすら本当なのか嘘なのか分からなくなる。
「これは?」
と、また袋の中を探り今度は黒い羽を取り出した美紗に、魔王はついに怒った。
「もういい加減にしたまえ。それはしまって袋ごとこちらへよこすのだ。さもないと恐ろしい目に遭わせるぞ」
「どんな?」
怖いもの見たさに美紗は身を乗り出す。
「お前の一番大切なものが、私のものになるのさ」
美紗は首をひねった。
あたしの一番大切なものは、あたし自身。あたしがこの男のものになっちゃうの?
(悪くないかもしんない)
繰り返しの毎日にはもう飽き飽きしている。学校に行って帰って、明日も行って帰って、一週間、一ヶ月、一年、みな繰り返し。この男は、学校の猿みたいな男子たちと違って大人の匂いがする。ようく見れば、けっこういい男かもしんない。
「いいよ。あんたのものにしていいよ」
うなずいて身構える美紗に、なぜだか魔王は困った様子であごを撫でている。しばしの沈黙ののち魔王はひとつ咳払いして、
「袋を返してくれないか。『銀の魔笛』もその中だ」
「これがないとなんにもできないんじゃん」
拍子抜けして美紗は袋をのぞきこむ。下のほうに銀色の縦笛が見えた。端に銀細工のこうもりがくっついて、吹き入れた息がこうもりの口から出る仕組みになっている。
「いじわる天使に力を封じられたゆえだ」
額を押さえて呻く魔王に、
「これを吹くとどうなるの?」
美紗は銀の笛を片手に尋ねる。
魔王はおもしろくなさそうに、金色の目で美紗をにらんだ。美紗に協力しない限り力を取り戻せないけれど、こんなの絶対俺のスタイルじゃない!
「あの枝にひっかかった私のマントを取ってくれば、教えてやろう」
美紗は、
「うんいいよ」
と意外なほどあっさりうなずいて木に登った。だけど革の袋は、しっかりと腰にくくりつけている。
美紗に手渡されたマントを元通りに羽織って、
「『銀の魔笛』を吹くと嵐が起こる。そして嵐に吹かれた者の一番大切なものを、私の城まで吹き飛ばしてしまうのさ」
ひとつうなずいて美紗は叫んだ。
「それっていいかも! これ借りるよ!」
あたしの大事な色鉛筆を折った奴らに、目にもの見せてやる!
駆けだした美紗を魔王は慌てて追う。この小娘と一緒に大事な革袋まで見失うわけにはいかぬ。
細い足にしがみつかれて、美紗はきゃっと笑い声をあげた。
「くすぐったいよ!」
足からひきはがして、ちっちゃな魔王を頭の上に乗せる。
「今日一日、あたしが魔王をやってあげる。そこでゆっくり見物しててね!」
魔笛片手に土手を駆け上がる。魔王は振り落とされぬよう必死で、うさぎの耳みたいに結んだ美紗のツインテールにしがみついた。
新連載、はじめました!
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