放置していた婚約者に久しぶりに会ったら断罪された
乙女ゲーム、悪役令嬢、転生者のヒロイン、卒業パーティーでの断罪
これらを承知の上でお読みいただける物語となっております。
貴族の若者たちが集う学舎の一角。
分厚いカーテンを閉め切ったその部屋には小さなランプがひとつ灯り、壁一面の大きな棚には無数の硝子瓶と分厚い本が並ぶ。
棚に収まりきらない本は机の上に積み上げられている。
部屋の中には大釜を長い棒でぐるぐるとかき混ぜている少女がひとり。
長い黒髪は後ろで緩く三つ編みにし、前髪はピンできっちりと留めている。身に纏っているのはくたびれた白衣だ。
何とも野暮ったい姿だが、それでも少女の美しさは際立っている。
* * *
(……ふう。あとはクジーナ草を入れたら完成ね。ロウ遅いなぁ……)
あと三十分もかからずに戻って来れると連絡があったのに、待ち人はまだ戻ってこない。
仕方がないので、古びた椅子に座り、最後の材料の到着を待ちながら新しく手に入れた魔法薬学書を読むことにした。
本は古代語で書かれているが、難なく読み進めていく。
「あれ? このレシピを応用したら特級ポーションを完成させられるかも……」
彼女はどんどんと本にのめり込んでいく。ノックの音にも部屋に人が入ってきたことにも気付かずに。
「────ルミナ。おーい、ルミナ!!」
顔を覗き込まれてようやく気付くと、本から目を離してゆっくりと前を向いた。
「……あ、ロウおかえり。遅かったね」
「帰ってくる途中でちょっとからまれてな」
「……ああ、お疲れさま」
分厚いレンズの眼鏡に長い前髪、背中まである銀色の髪は後ろで雑に結わえている。
そんな風貌にもかかわらず、彼はただ歩いているだけで、すぐに人に囲まれてしまうようだ。
「ほら、採ってきたぞ」
彼はそう言って、乱雑に袋を投げ渡した。
「ありがと」
ルミナは受け取った袋からさっそく薬草を取りだし、水できれいに洗った。そしてすり鉢でごりごりとすり潰し、釜の中へ。
魔力を注ぎながら長い棒でゆっくりゆっくり丁寧にかき混ぜていくと、中の液体は水色から緑色へと変わっていく。
どんどんととろみがついていき、どろどろになったら完成である。
「うわぁ……それ何?」
何とも言えない奇妙な見た目に、ロウは眉をひそめた。
「これは魔術師団長から依頼された、保存性と粘着性を上げた上級のポーションだよ。もげた腕くらいなら、これでくっつくんじゃないかな。普通のポーションみたいに飲んでもいけるよ」
「うへぇ、これ飲むの?」
「味はそんなに悪くないよ」
「視覚的に無理」
そんなに言うほどだろうか。せっかくの新作なのだから、味見してほしいと思っていたルミナは少し考える。
「それじゃ、目を瞑ったらいいじゃない」
そう言うと、スプーンで少しだけすくって、ロウに差し出した。
「はい、あーん」
口元に近づけるけれど、彼は一向に口を開けようとせず。微動だにしないが、頬は少し赤くなってきた。
「あれ、怒った? そんなに嫌だったんだ……ごめんね」
軽い気持ちで差し出しただけなのに。
悪いことをしてしまったなと、しゅんとしながら引っ込めようとすると、ぱしっと腕を掴まれた。
「待って……その、味見するから」
そう言うと、彼はルミナの腕をぐいっと引き寄せた。
「わっ」
気を抜いていたため、ルミナの顔は彼の胸にぽすっと埋まってしまった。
「もー、急に引っ張らないでよー。はい、あーん」
ルミナは気を取り直してスプーンを差し出した。今度は口を開けてもらえたので、彼の口の中に突っ込むと、彼は顔を赤くしたまま口をモゴモゴとした。
「どう? 意外と美味しいでしょ?」
「……あー……うん。まあな」
自信満々に下から顔を覗き込んだら、ぷいっとそっぽ向きながら、そっけなく言われてしまった。
やっぱり怒ってる。ルミナはまたしゅんとなってしまった。
「ごめんね。勝手に味見させられたら嫌だよね」
「いや、そうじゃなくて……あーもういいよ」
ロウは投げ捨てるように言い放つと窓際のソファに向かい、不貞腐れるように背中を向けてごろんと寝転んだ。
(なんだろう? よく分からないけど、もういいみたいだしいっか)
ロウのよく分からない態度を気にすることを止めたルミナは、釜の中身を大きな瓶に移してラベルを貼る。
後で他の物と一緒に、魔術師団へと渡しにいくのだ。
さてと、次の調合を始めよう。
材料を次々とすりつぶし釜の中へと入れていく。魔力を流しながら長い棒でゆっくりとかきまぜると、赤かった釜の中の液体はどんどんと鮮やかな紫色になっていった。
むむむ、かき混ぜている途中で急に鼻がむずむずとしてきた。
我慢できずに横を向いてくしゃみをすると、その勢いで釜の中の液体がぴしゃっと顔にかかってしまった。
でも大丈夫……なはずなのに。
あれ? おかしいなと口を押さえた。
甘い香りに酔いしれて、頭がクラクラしてきた。
(……何で?)
予想外の影響に、これはまずいかもしれないと、ルミナは少し焦った。
「ねぇ、ロウ。部屋の外に出てくれない?」
「え? 何で?」
「ちょっと、媚薬浴びちゃって」
「……は?」
ロウは気の抜けた声を出すと、ソファーからガバッと起き上がり、慌ててルミナに駆け寄った。
「何してんの、解毒薬は?」
「これ作った後に作ろうと思ってて……」
目を逸らしながらそう言うと、彼は眉をひそめて、はぁーっと大きなため息をついた。
「お前……何やってんだよ……」
そんな会話をしている間にも、ルミナの体は熱くなり、胸の奥が苦しくなる。どんどんとまずい感じになり、いつも基本的に無表情な彼女に焦りが見えてきた。
「早く部屋の外に出て。ちょっともう無理かも」
顔を両手で覆いながら懇願する。それなのに彼はなかなか出て行こうとしない。
「俺が出て行かなかったら、どうなんの?」
至近距離で囁かれ、ルミナの体はびくんとはねた。
(あ、もうダメ……)
理性が消えていく。
「ロウ……」
* * *
ルミナはとろんとした上目遣いでロウを見つめだした。
青い瞳は少し潤んでいて、頬はピンクに染まり、艶やかな唇からは吐息がもれている。
そして彼女の顔は、彼の顔へとどんどんと近づいてくる。
「ロウ……好き」
プチッ
彼の中で何か大事な何かが千切れたようだ。
ルミナの頬に手を添えそっと顔を近づけて唇を合わせる────直前に、なんとか死に物狂いで千切れた何かを繋ぎ合わせた。
「あー、くそっ」
ロウはその場にしゃがみこんで、右手で自分の顔を強く押さえつけた。
冷静になろうと何とか気持ちを落ち着かせる。
「ロウ……」
甘い声で自分の名を呼び続けるルミナの顔を見ないようにしながら、右手のひらを彼女に向け、睡眠魔法をかけた。
そして眠った彼女をソファに運び、毛布を被せる。
すーすーと眠る横顔を眺め、はぁーと長いため息をついた。
「さすがにやばかったな……」
よく耐えたなと、自分を褒めた。いや、そもそもこの状況になるよう仕向けたのは自分なのだが。
まさか彼女の口から『好き』という言葉がでてくるなんて思わなかったのだ。
さすがに婚約者のいる女性に手を出すなんて許されない。踏みとどまれて本当に良かったと安堵の息を吐いた。
* *
ロウはルミナとは幼い頃からの付き合いだ。親同士が仲がよく、二人は顔を合わす機会が多くあった。
他の女の子達が自分を見て色めき立つ中、全く興味が無さそうにそっけない態度の彼女に彼は逆に興味が湧いて、自分から積極的に近付いていった。
しかしどれだけ一緒に過ごしても、ルミナの興味は魔法と魔法薬学にばかり向いていた。
だんだんとそれが面白くなくなり、彼は自分に興味を持たせようとしてみたが、全く効果はなかった。
それでも近くで一緒に過ごすうちに、二人は友と呼べる仲になり、彼も一緒に魔法の訓練をしたり実験に付き合ったりするようになる。
ルミナは才能に溢れていた。ルミナの家族もその才能を伸ばそうと、研究に没頭する彼女を咎めはしなかった。
どれだけ一緒に過ごしてきても、ルミナがロウを異性として意識することは無く、彼の方ばかりが想いを募らせていった。
彼女の気持ちが少しでも自分に向いてくれるようになったら、彼は婚約の申し込みをするつもりでいた。
だが、第三王子に先を越されることとなり、二人の婚約がいとも簡単に成立してしまう。
どうして承諾したのかと尋ねれば、『わざわざ断るのも面倒だし、研究を続けさせてくれる相手なら誰でもいい』という返事。
彼はしばらく立ち直れなかった。
気を紛らわす為、叔父である師団長に頼み込んで、魔術師団の厳しい訓練に参加させてもらうようになる。
毎日倒れ込むまで走り、魔力を枯渇するまで使った。
そうすればルミナのことを考えなくて済んだから。
ある程度の実力がついてからは、実戦にも参加させてもらえるようになった。そしていつの間にか彼は、師団長に次ぐほどの実力を手にしていた。
ロウは学院卒業後は、魔術師団に入る予定でいる。
宰相である父親に跡を継いで欲しいと懇願されていたが、師団長からの熱い説得により諦めてもらった。
二歳下の優秀な弟がいるのだから、宰相の地位を継ぐのも、侯爵家を継ぐのも彼で問題ないだろう。
そうして彼は魔術師団でひとり気ままに生きていくつもりでいた。一生結婚もせずに。
────そう、あの男が愚かな行動にでるまでは。
* *
どれくらい時間がたっただろうか。
ロウが椅子に座り魔導書を読んで時間を潰していると、ルミナが目を覚ました。
「……ロウ? 私いつの間に寝て……」
むくりと起き上がり、目をこすりながらぼーっとしている。
「おはよ、ルミナ。媚薬浴びたって言うから眠らせたんだよ」
ルミナの頭はだんだんとはっきりしてきた。
彼女には、耳元でロウに話しかけられてからの記憶がない。
彼女が作っていたのは、魔獣をおびき寄せる罠に使われるものだ。
火をつけて煙にしてしまえば人体に影響は無いが、原液を口にしてしまったら媚薬となるもの。
媚薬といっても誰彼構わずに欲情するわけではなく、好意を抱いている異性にのみ効果を発揮するものだ。
ルミナは今まで異性に好意を抱いたことは一度もない。だから何の対策もとらずに作っていたのに。
あの時確かに彼女の心と身体はロウを欲していた。
媚薬のせいとはいえ、初めて体験した感覚が忘れられず、また胸が少し熱くなる。
「それじゃ、帰るか」
「うん」
学舎から出ると、いつの間にか外は夕焼け色に染まっていた。
ロウは自分が起きるまで待っていてくれたんだと、申し訳ない気持ちになった。
「もうこんな時間だったんだ……ごめんね」
「気にすんな」
* *
家に帰ってから、ルミナは自室でひとり考えてみた。
(私はロウのことが好きなのかな?)
小さな頃からよく一緒に過ごしてきたけど、ドキドキしたことなんて一度も無かった。
異性を好きになるって、胸が苦しくなったりドキドキすることだと思っていたのに。
思えば、ルミナは前の人生でも人を好きになったことはない。
友達も少なく、毎日部屋でひとりで本を読みふけっていた。
魔法使いが出てくる話を特に好んで読んでいた。だから、この世界に生まれて魔法の存在を知ったとき、彼女は感激した。
そしてどんどんとのめり込んで行った。
侯爵家に生まれた以上、淑女教育など様々な勉学に励まなければいけないのは大変だったけれど、いろいろなことが身に付いていくのは達成感があった。
空いた時間には魔法を学び、充実した毎日を過ごしてきた。
十三歳の時に、彼女は第三王子のカーティスから婚約の申し入れを受けた。
初めて会った時から好きだったと言われたけれど、挨拶以外ろくに言葉を交わした記憶はない。
何にせよ、彼女は魔法の研究ができればそれでいい。それを邪魔しないならという条件で婚約を結んだ。
王子は見目は麗しいが、ルミナにとって可もなく不可もなくといった人物だった。定期的に侯爵家に会いに来たので差し障りのない付き合いを続けたが、話をしていても、彼の話はほとんどが自慢話だった。
彼といて楽しいと思えたことは一度もなかったが、彼女は適当に相づちを打ちながらその場をしのいできた。
十五歳になり、学院に通うようになってからもそんな日々を過ごしてきたけれど、段々と王子がルミナに会いに来る頻度は減り、いつしかぱったりと会いにこなくなった。そして今日に至る。
彼女は特に気にしてはいない。何なら研究時間が増えて嬉しいとさえ思ってしまっている。
学舎の一角に特別に与えられた研究室にひたすら籠って、魔導書や魔法薬学書を読みふけり、研究に明け暮れている。
卒業に必要な単位は早々に取得したので、授業も必要最低限しか出席していない。
王子とルミナは一年生の頃は同じ上級クラスだったけれど、二年生になると彼は中級クラスに降格となった。
勉強だけはできる人だったはずなのになぁと疑問に思いながらも、それ以上は詮索することもなく。特に気にすることもなく過ごしてきた。
ルミナがしばらく疎遠だったロウと、昔のように一緒に過ごすようになったのはその頃からだった。
彼女は他人と一緒に過ごすことが苦手なのだけれど、ロウとなら心穏やかに過ごせた。
話していて気が合うし、伝を頼って自分が欲している薬草や素材などを調達してくれる。
時には自分で採取してきてくれる、とても頼りになる存在だ。
ロウは輝くような銀髪に緑色の瞳で誰もが見惚れるほど整った容姿をしている。
ルミナは昔は可愛らしく思っていたけど、いつの間にか彼は大人の色気を醸し出していた。
整いすぎた顔が近くにあると気が散るんだよねと言われたロウは、翌日からはルミナの前では分厚い眼鏡をかけるようになった。
* * *
「フェルミナ! 君は嫉妬のあまり、私の愛するリーシャに数々の嫌がらせをし、命までも脅かしてきたな。君とは今この場を以て婚約を破棄する。そして国外追放とする」
学院の卒業パーティーにて。
久々に顔を合わせた婚約者のカーティスは、ピンクブロンドの女性と腕を組みながら、ルミナによく分からないことを言ってきた。
彼女は何一つとして理解できない。
「ねえロウ、あの隣の子が殿下の言ってるリーシャって人なのかな?」
「お前……殿下が懇意にしてる相手も知らなかったのかよ」
「だって……ずっと会ってなかったし」
ずっと放置していたため、そんな人がいるなんてことすら知らなかった。
(会ったことも無い人に嫌がらせしたなんて言われてもなぁ……)
そもそもルミナはそんな身にならないことはしない。そんな無駄なことするよりも、研究していたいのだ。
「カーティス様、私はその方に何もしておりませんよ」
「しらばっくれても無駄だ!」
「ひどいです、フェルミナ様!」
「あぁ、可哀想なリーシャ!」
「カーティス様ぁ!」
二人は全く聞く耳を持たない。
そのまま見つめあいだし、二人の世界に浸りだした。
(あれ? 私の婚約者なはずだよね、この人)
もしかして、もう違うのだろうか。
だけど、さっきは確かに婚約破棄だと言っていた。それならやっぱりまだ婚約者なのだろうか。
ルミナは自信が無くなってきた。
「ねぇロウ、あの人私の婚約者だった気がするんだけど、もう違うのかな? 私の知らない間に婚約解消してたとか」
「残念ながら、今この瞬間もまだお前の婚約者だぞ」
やっぱりまだそうらしい。ルミナは心底残念な気持になった。
「何でこんな人と婚約したんだろ……ロウが私の婚約者だったらよかったのにな」
思わずポツリと呟いた。
「ルミナ、今のは本心か?」
「え? うん、心からそう思ってるよ」
そう言うと、ロウは分厚いメガネを外し、前髪をかきあげた。
相変わらず色気がすごいので、周りからは女性達の悲鳴が聞こえてくる。
「なっ……宰相子息のロウエル様と同じ髪色だと思ってたけど、本人だったなんて……何でそんなダサい眼鏡かけてたのよ!?」
ルミナはもう名前を忘れた、ピンクブロンドの女性が甲高い声で言い放った。
「あなたには関係ないでしょう、尻軽女さん」
ロウは妖艶な笑みを浮かべながら、冷たく言葉を返した。
「誰が尻軽女よ! いくらイケメンだからって許さないわよ。私はこの国の聖女になる存在なのよ! 敬いなさい!」
ピンクブロンドさんはわめいている。
高位貴族にすごい口のきき方だなぁと、ルミナは呆れた。
(それにしても聖女かぁ。そう言えば聖魔法に目覚めた人が編入してきたとか何とかクラスメートが騒いでいた気もするな……この人のことかな)
「ははっ、寝言は寝てからおっしゃってくださいね。あなたは聖女になんてなれませんよ。もし誰かが聖女になるとしても、それはあなたじゃなくてフェルミナ嬢です。彼女はこの国の宝なんですよ。あなたの持つ力で癒せるようなことはポーションを使えば事足りますから」
「なっ、何よそれ? そんな設定無かったわよ! ポーションなんかで千切れた手足を元通りにしたりできるわけないでしょ!」
あ、それは私が開発したポーションでできますよ。
ルミナは口には出さず、心の中で返事をした。この女性は騒がしくてヒステリックという苦手な人種なので、会話はしたくないのだ。
「できるんですよ。だからもうこの国には聖女なんて必要ありません。男爵令嬢と第三王子が結婚することも身分的にまぁ無理でしょうね。お気の毒に」
「「なっ……」」
「あと、あなたが嫌がらせを受けたと自作自演していた証拠は揃っていますからね。自分を襲わせるために暗殺者を雇ったことも。ああ、ついでに何人もの男と関係を持っていたことも。それはそれは事細かにね」
(うわぁ、なにそれ……最低)
ルミナはドン引きだ。
ピンクさんはサーッと青ざめていく。そしてロウの表情からは、いつの間にか笑みが消えていた。
「侯爵令嬢を陥れようとした罪は重い。きっちり償ってもらいますよ。さぁ、連れていってください」
ロウが合図すると、すぐにやってきた衛兵によって彼女は連れて行かれた。
その場に残された王子は呆然としながら呟く。
「そんな……すべて狂言だったなんて……しかも何人もの男と……」
しばらく独り言をぶつぶつと呟いたかと思えば、彼は捨てられた子犬のような顔をしながらルミナに言った。
「すまないフェルミナ。許してくれ」
(許してくれって……なにそれ)
この人は、彼女のことをいわれのない罪で国外追放しようとしたのに。
本当になんなのだろうと、呆れと怒りがわいてくる。
何事もなかったかのように婚約破棄宣言は撤回するつもりなのだろうか。
「もうやだ、この人……」
ルミナは独り言のように小さく呟いた。
「ルミナ、殿下と婚約解消したいか?」
「うん。すごくしたい」
今すぐにしたい。彼女は心の底からそう思う。
「よし、それじゃこれにサインしな。そしたら解消できるぞ」
そう言いながら、ロウは懐から紙とペンを取り出した。
受け取って内容を確認すると、円満に婚約解消ができる書類のようだ。あとはルミナのサインのみとなっていた。
「これ……なんで?」
「陛下から第三王子の動向を探るように言われててな。あまりにひどいようならそれ相応の対応をとるって言ってたんだよ。だからサインも貰っておいた」
王子は二人の会話を聞いて慌てふためいた。
「なっ、何だよそれ? 僕はそんなのサインした覚えはないぞ?」
「この前何枚か渡してその場でサインさせたでしょう。書類の内容をよく読まずにサインするからですよ、本当に無能ですね。昔はまだ幾分かマシだったのに。ついでに、学院で問題を起こしたら、自主的に東の要塞にて数年間奉仕するという同意書にも、あなたはサインしてますからね」
さすがロウだ、抜かりはないと、ルミナは感心する。
王子はその場に膝から崩れ落ちた。
ルミナとロウは彼をそのまま放置し、その場から立ち去り別室へと移動した。
「ロウ、なんかいろいろありがとうね。ロウがいなかったらどうなっていたか」
いきなり思いもよらない身に覚えもないことを言われて、うまく対処できなかっただろう。
ロウが隣にいてくれて、全部すっきりと解決してくれて、すごく頼もしかったと感謝する。
「気にすんな。俺は、跡は継がないとはいえ一応宰相の息子だからな、情報収集はまかせろ。ところでルミナ、さっき俺が婚約者だったらよかったのにって言ってたけど、本当に俺を婚約者にする気はあるか?」
彼は真剣な表情になった。
冗談ではなさそうだが、なぜだろうと疑問がわいてくる。
「ロウは結婚する気はないって言ってなかった? 魔術師団に入ってひとり気ままに過ごしたいって」
「あー……それはもういいんだよ。お前と結婚できないならそうしようと思ってただけで」
それってつまりは、ロウは自分のことが好きってことだよねと、ルミナは過去をふり返ってみた。
一体いつからだろう。
「ロウから私への好意を感じたことなかったんだけど」
「これっぽっちも?」
「うん」
「マジかよ……やっぱ直接口にするべきだったか。俺は子供の頃からお前のことが好きだったんだよ。お前は俺のこと何とも思ってないだろうけど」
まさかそんなに昔から想っていてくれたなんて。さすがに彼女は驚いた。
『何とも思ってない』そう言われ、ルミナは考えた。何とも思ってないことはないのかもしれないのだ。
「あのね、ロウ」
彼女は媚薬を浴びた時のことを説明しだした。
ロウは聞いているうちに段々と顔が赤くなっていく。
「ははっ、マジか……」
両手で顔を覆ってしまったけれど、これは照れているってことでいいのだろうか。恋愛ごとに疎い彼女でも、さすがにそれくらいは分かる。
「ルミナ、今はまだ自覚はないだろうけど、俺と婚約して欲しい。もう誰かにお前を奪われるのは嫌なんだ。お前の気持ちが伴うまでは、嫌がることはしないと誓うから」
「うん。私もロウ以外の人と婚約は考えられない。だからよろしくね」
そうして二人は婚約することとなった。
ロウからストレートに愛情表現をされるようになり、ルミナがロウへの恋心を自覚して、研究が手につかなくなる日がくるのは、もう少しだけ先のお話。