生意気JKな姪が俺の家に押しかけてくる~悪く言われるところを直してるのに、なんで不満そうにされているんだ?~
ぽち……ぽち……。
せっかくの休日。
かた……かた……。
休日というものは、社会人になると途端に価値が増すような気がする。
かたかた……ぽちぽち……。
新入社員として会社に入ったのが五年以上前、今や立派なサラリーマンとなってしまった。
日々、業務をこなす。
残業もそこそこあるが、ひどくは無い。
同じ部署の同僚が楽しそうに雑談する間、それに混じらず、孤独に淡々とタスクを消化……。
休日に遊ぶような友達はいない。学生時代の数少ない知り合いとは疎遠になったし、会社の同僚とも馴染めない。
だから休日は一人家でぼーっとするのだ。ゲームをして、横では好きな配信者の配信を流し、疲れたら横になってネット小説や漫画を読む。好きな時に寝る。好きな時に好きなものを食べる。
これこそ至福の時間。
休日最高。涙が出るなあ!
ぽちぽちかたかた……。
――の、はずだったが。
がちゃりと鍵の開く音がした。
「おじさ~ん♡」
玄関から聞こえてくる甘ったるい声。
「あ~、また太ってる~♡」
ぶかぶかのカーディガン、茶色く染めた髪、耳にはピアス。ぎりぎりまで短くたくしあげられたスカート。何が嬉しいのか、ずっとにやにやした笑みを浮かべている。
姪の高峰夕華が俺を見下ろしていた。
「夕華? 何しに……」
「だらだらしに来た~♡」
「そうかい……」
「おじさん痩せたらそこそこなのに~。はいこれ」
そう言って、ビニール袋を差し出してくる。
「これは?」
「ポテチとコーラ♡」
「はいはい……」
言ってることとやってることおかしいだろ。
夕華は近所に住んでいる兄貴の娘で、関係としては姪にあたる。
気まぐれに俺の家にやってきては、生意気を言いながらだらだらして帰っていく。
「ベッド借りるね~!」
夕華はスクールバッグを置いて、許可が出る前にぼすっとベッドに飛び込んだ。やってることが子供の頃と一緒だ。
「あ~、おじさん太もも見てる~、えっち~♡」
見た目と口調だけが子供の頃と違う。
恰好はギャルっぽくなって、生意気な悪口や俺を煽るような事を言うようになった。
ため息を吐いて、この前買ったブランケットを夕華に放る。
「寒そうだからこれ使ってくれ」
外の気温は最近ずいぶん低い。それなのにスカートで過ごすのは大変じゃないんだろうか?
暖房を付け、俺はカーペットの上に座りなおした
夕華はきょとんとした後、ブランケットを触って頬を緩めた。
「えへへ、ありがと~。オタクくんやさし〜」
「オタクくんって言うな」
「オタクじゃないの?」
「…………」
「やっぱオタクくんじゃん」
それには答えず、コントローラーを持ってゲームを再開。
人気格闘ゲームのオンライン対戦だ。あまりゲームが上手いわけでもないのにやり続けてしまう。
勝ったり負けたり。どちらかと言えば負けの方が多い。
夕華はベッドで寝転がってゲーム画面を眺めていた。いつの間にか、勝手にコップを出してコーラを飲んだりしている。もう完璧に自分の家だ。いつものことだが。
「あれ、そういえばこの前の筋トレのゲームは?」
「…………」
対戦に負けたタイミングで、夕華が不意に言う。
それには気づかないでほしかった。
前に夕華が来た時、俺はリングを使うトレーニングのゲームをやっていた。チュートリアルのステージで疲労困憊になり、夕華に笑われた記憶がある。
「ちょっとコントローラー借して~」
「あ」
夕華にするっとコントローラーを盗まれ、慣れた動作で俺のプレイ時間を見られる。
「え! 三十分しかやってないじゃん! やば~w おじさんこれで痩せるんじゃなかった~?」
けらけら笑われるが、何も言い返せない。やってないのは事実である。
夕華が言うように、俺は太った。
仕事はデスクワーク。休日もだらだら好きな物を食べ、好きな時に眠る。太らないはずがない。
まずいと思って人気のゲームに手を出したはいいものの、三十分くらいで結局やらなくなってしまった。
「おじさん大丈夫だよ~♡」
唯華が面白そうに笑みを向けてくる。
「ぼっちでコミュ障なおじさんが太っても、私が遊びに来てあげるから♡」
「……はいはい」
そうやって、また喜べばいいのか悲しめばいいのかよくわからないことを言う。
夕華はにやにや楽しそうにしているが、俺は結構気にしている。
ぼっちなのもそうだし、コミュ障なのもそうだ。夕華は幼い頃から知っているから普通に話せるが、会社の同僚とはうまく話せない。特に後輩に仕事を教える時が難しい。
最近はそれに太ってることが加わった。
良くないとは思うものの、どうしても気力が湧かず、家ではぐうたら過ごしてしまう。
変えようとは思ってるんだけどな……。
「――じゃーねおじさん、また来るね~」
その後、存分にだらだらと過ごしてから、夕華は帰っていった。
夕華が帰ると、だいぶ部屋が静かになる。
暖房の温度を下げて、ゲームの前に座りなおした。
夕華のことを考える。
あいつは高校生にもなったのに、今年も同じように俺の部屋にやってきている。
友達なんかもいるだろうに、こんなおじさんの部屋に来ていいんだろうか。
もしかして……この頼りないおじさんを不安に思って、うちに時々見に来ているのか?
そんなぞっとしない考えが浮かぶ。
兄貴とか、うちの母とかに言われているのかもしれない。
心配だからたまに様子を見に行ってくれる? とか。
(……独居老人だな)
そう考えると、俺も変わらなければという気がしてくる。ぼっちなどと言っていられない。
結婚して身を固めるとか、そういうことを考えなければならないのではないか。
変えるべきところは明確だと思う。
夕華に馬鹿にされるところだ。
にやにや悪口を言われているから、逆にそれを参考にして直していけばいい。
「痩せるか……」
まずは、最近よく言われる「太ってる~♡」からなんとかしよう。
身を固められるように、そして夕華や家族が安心できるように。
せめて努力する様子を見せなければ。
俺はこの日、悪口を受け入れて改善していくことを決意した。
◇◇◇◇◇
「おじさ~ん♡ 今日もぼっち~?♡ ――って、え?」
一週間後。
夕華がやってきた。
唖然とした様子で目を丸くしている。
「な、なにしてるの?」
「何って……トレーニングだが?」
床に肘を付け、足の爪先だけで体を支え、背筋を床と並行に伸ばす。
体幹トレーニングである。
「おじさんが、トレーニング……?」
「ああ……まあ、始めたばっかりなんだが……くっ」
そう言ったところで、俺は耐えきれず床につっぷしてしまう。
たかが一週間のトレーニングでは、俺の体を一分も持たせられないらしい。
「……な、なんだぁ~。まだよわよわじゃ~ん」
「…………」
なぜか少し安心したような顔で、夕華がいつもの調子を取り戻す。
「おじさん急にどーしたの?」
「ちょっと、俺も頑張んないとなと思って」
「今までちゃんと何か続けたことあったっけ? ずっと全部諦めてたのに?」
「う……」
辛辣すぎる。
そこを突かれると痛い。
しかし心配させないためにも、頑張らねばならないのだ。
「そうかもな。でもなんとかやってるよ。ジムの人にも助けてもらったり……」
「え……ジム?」
目を丸くする夕華。
やるならしっかりやりたいと思って、俺はジムにも通い始めた。
「ああ、通い始めたんだ。そこに親切な女性の方がいて……」
「じょ……女性!?」
「いろいろ教えてもらってさ」
「いろいろ!?」
「ゆっくりでも続けるのが大事とか、食事はタンパク質を取るといいとか、アドバイスもらって……やっぱ一人だと難しいけど、ちゃんと教えてもらえると続けやすそうだ」
「ふ……ふぅ~ん」
夕華が目をぱしぱしさせている。
何を動揺してるんだ。
まあ、死んだような目をしてたおじさんが急に真面目に筋トレしてたらびびるか。
「……別に太っててもいいのに」
夕華がなぜか不満そうに言う。
「そうかもしれないけど。ちょっとやってみたいんだよ」
何か嫌なんだろうか。俺が勝手に努力しているだけだけど。
夕華は複雑な表情で腕を組み、自分に言い聞かせるようにぼそぼそ呟いている。
「……まあ、コミュ障キモオタ陰キャどーてーのおじさんに続くわけないか」
……なんてシンプルできつい詠唱なんだ。
だがそう言われようと、続けるしか道はない。
ここで諦めたらこの先ずっと似たような生活を続ける気がする。
だから、頑張るしかないのだ。
俺は弱りそうな心を叱咤した。
◇◇◇◇◇
一か月程経った。
この頃になると、なんとなくトレーニングの成果が目に見えてくる。
「……おじさん。やっぱ痩せた~?」
「そうか?」
今日も相変わらず勝手に夕華がうちに上がり込んでいる。
傍から見ても俺は痩せてきたらしい。
夕華はベッドに寝転がり、じとっとした目で俺の体を眺めている。なにか不満そうな顔だ。悪口を言いにくくなって面白くないのか。
「おじさんさ~、今も親切なおねーさんに教えてもらってるの~?」
「え? いや、最近は一人でやってる……」
「あ、やっぱり~?♡」
"一人"という言葉に嬉しそうに夕華がにやりと笑う。
「コミュ障どーてーのおじさんには女の人とのお話なんてレベル高いもんね~♡ どーせ話しかけても声が小さくて聞き返されてるんでしょ~?」
「……うっ」
「いつも話し出すタイミングが悪い♡ その日の会話を思い出して一人で辛くなってる♡」
「…………ううっ」
やめてくれえええ……。
今だけじゃなくて、学生の時まで思い出して刺さるからやめてえええ……。
「おじさんに話しかけてくれる女の子なんて私しかいないもんね~♡」
たしかに、そうだ。
女の子とかだけじゃない。仕事上必須な会話を除くと、俺に話しかけてくれる人がそもそも少ない。というかほぼいない。ちょこちょこ話すのは本当に夕華くらいだ。兄貴とか家族はたまに電話してくるが……。
「体を鍛えてもコミュ障は治らないもんね~♡ ずっとぼそぼそ喋ろうね~♡」
夕華がにやにや言う。
と、すれば。
次はそこを改善しないといけないんだろうな……。
◇◇◇◇◇
「――なあ、夕華。コミュ力ってどうしたら改善できるかな……」
「え~? それ私に聞く~?」
コミュニケーション能力をなんとかしようと思ったのが先日のこと。
だが何をすればいいのかわからない。
というより、すぐに改善できるならしている。
治せないから同僚とはうまく喋れないし、夕華に「今日もぼっち~?♡」と言われ続けているのだ。
今日の夕華はカーペットの上に座り、毛布をポンチョのように羽織ってスマートフォンをいじっている。
「コミュ力とか、ふつーにしてればよくない?」
何でもないように言われる。
それが難しいんだろうが……!
「おじさん見てると気負い過ぎっぽいよね~。うちのママと喋る時もちょっとキョドってるし。ふつーにすればいいのに」
「そのふつーがわかんないんだよ」
「え? 私と喋ってる時はふつーじゃん」
きょとんと言われる。
いやそれはお前がずっと一緒にいるから……と反論しようとして、あれ? と思った。
それはもしかしたら、とてもいいアドバイスではないか?
盲点だった。
たしかに夕華と話している時は自然だ。幼い頃から知っていて、特に気負うことも無い。
そうか。俺は気負い過ぎだったのか。
誰と話すにも、自分の発言が相手を不快にさせないかとびくびくしていた。
夕華と話すようにすればいいのか。
そう考えると、少し気が楽になる。
明日から、意識を変えてみよう。当然すぐにはうまく行かないだろうが……。
「とゆーか、おじさんなんで急に色々やりだしたの?」
「いや、恥ずかしいんだが、そろそろ俺も身を固めようと思ってて」
「え゛」
スマートフォンがぼとりとカーペットの上に落ちた。
「そそそれって結婚とか?」
「ああ……まあ、すぐには難しいかもしれないけど」
「な、なんで急に?」
「家族にもお前にも心配かけてるなと思ってさ」
「え? そんなことないけど」
「でも、ありがとう。夕華のアドバイスのおかげでやっていけるかもしれない」
「え゛」
俺は職場の光景に想いを馳せた。
同僚たちが談笑する中、一人黙々を業務をする俺……。
真面目に業務をするのは良いが、普通に同僚とも話したい。
「おじさんが、結婚……?」
「まあ、先は長いし、無理かもしれないけどな」
「そ、そうだよね。そんなうまく行くわけないよね……」
スマートフォンを拾いながら、震える声で呟いている。
たしかに、俺もそう思う。だがちょっとずつでも変えていきたい。
せっかくいい事に気づけたのだ。行動にも起こしていこう。
◇◇◇◇◇
その日から、職場で自分から声を発するようになった。
あまり気負わずに、平常な自分をイメージする。
おはようございますとか、お疲れ様ですと挨拶をする。あまりごちゃごちゃ考えすぎず、自分の意見をちゃんと聞こえるように伝えてみる。
夕華と話しているように、自然に。そうしていれば問題ない。
そう思うと少し声にハリが出る。
しばらくそんなことを続けていたら、だんだん同僚から話しかけられる時の雰囲気が柔らかくなってきた。雑談も少しずつだができるようになってくる。
そうすると居心地が良くなってくるのがわかる。出社するときも、前より気が楽だ。
「先輩、なんか最近、いいですね」
「……いい?」
ある日、二つ下の後輩からとてもふわっとしたことを言われた。
可愛い顔立ちで、しっかりしている女の子だ。仕事上、俺が色々と教えることが多い。
少し前までは、何かを教えるにもだいぶ硬い雰囲気で話していたが。
「話しかけやすくなりました」
後輩が微笑む。
雰囲気が変わった。ちゃんといい方に。
「今度、食事とか行きませんか?」
「え?」
「別にデートしようとかではないですよ。ただ食事するだけなので」
「あ、うん」
「いつ空いてますか? 私は――」
なし崩し的に日時が決まった。
スマホのカレンダーの予定に『食事』と登録する。
プライベートな予定を入れるのは初めてかもしれない。
「よろしくお願いしますね」
さらっと言われて、後輩は仕事に戻っていく。
スマホを机に置き、俺は信じられない気持ちでパソコンの画面に向き直る。
まさか、女の子と食事の予定を入れられるまでになるとは。
圧倒的な進歩だ。
(これは……夕華に感謝すべきだな……)
この進歩は夕華のおかげだ。感謝しないといけない。今度うちに来た時に何か買ってあげたいくらいだ。「パパ活じゃ~ん」とか言われるかもしれないが。
それに、食事をするにしても俺だけじゃ失敗しそうだ。お店とか、話す内容とか、異性の意見も聞いてみたい。そして身近な異性といえば夕華だけだ。
スマホで連絡を取ってみる。
『突然ごめん。夕華、今度食事に行かないか? 奢るから』
すぐに既読が付く。
『え、別にいいけど……急にどしたの?』
『ちょっと、伝えたい事があって』
『え』
一文字だけ返ってくる。……その返答、どうしたらいいんだ。
しばらくしてから、ちゃんとした文が返ってくる。
『わかった』
なぜか殊勝な返事だ。内容を聞かれるかもなと思ってたけど、何か察したのかもしれない。
そのまま夕華との食事の日取りも決めた。
アドバイスを貰って、これで完璧だ!
◇◇◇◇◇
「――というわけなんだよ」
「ソウナンダー」
「相談できそうな人が夕華しかいなくて、聞いてくれないか」
「スゴイネー」
「夕華? 目が死んでるぞ?」
「アーソウカナー」
夕華との食事の当日。
なぜかいつもより落ち着いて洒落た服を着た夕華と、ちょっと高めのお店に入った。
夕華は始め緊張した様子だったが、段々と俺の話を聞くにつれ表情が死んでいった。
目のハイライトが無い。
「あの……体調悪かったら言ってくれよ?」
「ヘイキー。ゴハンモイッパイタベレルシー」
ロボットみたいに言って、テーブルの上の料理をばくばく食べ始めた。確かにさっきから大量に食べている。まるで『カロリーでも取らないとやってられない』と言っているかのようだ。
何か嫌な事でもあったのかな……。
と思ったら、急にぴくりと手を止めると、恐る恐る顔を上げてくる。
「お、おじさんさ……」
「ん?」
「もしかして、このお店……その後輩さんと一緒に行こうとしてる?」
「ああ、そうだけど」
「う゛っ」
「もしかして……やめた方がいいか?」
「ううん、良い……。値段も丁度いいし、雰囲気も硬すぎないし、おじさんにしてはアリ……」
褒められてるのに、夕華の表情はずぅぅぅんと沈んでいく。
なんなんだ……。
「……ねー、おじさん」
少しして、夕華がぽつりと口を開いた。
沈んだような雰囲気は消えたが、何か考え込むような様子だ。
「その後輩の人と付き合うつもり?」
「い、いや……そこまでは考えてないよ。できるだけお互い楽しめたらいいとは思ってるけど」
「ふ~ん……」
ぼんやりした返事。
どう思われているのかわからない。
やがて、「はあ」と夕華がため息を吐く。
「わかった。じゃあ、相談のったげる」
「……いいのか?」
「うん。いーよ。おじさん一人じゃ失敗しそうだし~」
少し寂しそうな雰囲気。
「なんか話して。おじさん」
「なんか……ってなんだよ」
「雑談。後輩さんと無言で過ごすつもり~?」
「そう言われてもな」
「変なとこあったら言うから。れんしゅーれんしゅー」
夕華は首を傾げて、試すように俺を見つめる。
雰囲気が違うから調子が狂う。
「じゃあ、ゲームとか」
「はいだめ~。エロゲの話とかむり~♡」
「エロゲじゃねーよ」
「でもさー、まずは自分だけがやってるやつじゃなくて、相手と関係ある話がよくない?」
「あー、それはたしかに……」
「でしょ〜?」
夕華がにやっと笑う。
いつもの雰囲気に近い表情で、少し安堵する。
生意気を言われてほっとするとは、俺もだいぶ慣れたものだな……。
◇◇◇◇◇
夕華と雑談をして帰った。
意外とちゃんと対面で話をしたことが無いから新鮮だった。
定期的にダメだしされたが。
でも色々とわかったものもあった。
やはり気負い過ぎないのが大事なんだな、というのが所感だ。ふつーが大事なんだろう。
と、ベッドの上で今日の会話を反芻していたら、電話がかかってきた。
兄貴だ。珍しい。
「兄貴? 急にな――」
『なあ……キレそうだよ……お前夕華に何したんだ……?』
「は?」
『あんなに嬉しそうに出かけて行ったのになぁ! 今は自分の部屋で泣い――がぁっ』
呻き声がして、電話を落としたようなノイズが鳴った。
なんだ?
ホラー映画か?
急にわけわからない事を言われたかと思ったら、突然兄貴の声が途絶えた。
「……あ、あれ? 生きてる?」
『――あ~久しぶり~、元気してる~?』
「浅香さん?」
今度は兄貴の奥さん――浅香さんが電話に出た。滅多にない展開で戸惑う。
「え、兄貴生きてます?」
『いや、悪いけど君の兄貴は死んだ』
微かに『うぅ……』と兄貴の返事が聞こえる。良かった。なんとか致命傷で済んだらしい。
「……あの、どうしたんですか? というか、夕華が泣いてるって……」
『あ~そこまで聞いてたか……この阿呆が……』
『ぐぇぇ』と兄貴の蛙みたいな悲鳴が聞こえる。
浅香さんが額を抑える気配と、どうするかな~、と呟く声。
その会話が途切れた隙間で『夕華が泣いている』という台詞が頭の中に入り込んでくる。
今日の事を思い出す。
後輩の女の子と食事をする話をしたら、表情が沈んでいった夕華の事。
まさか、それが原因なのか?
『うーん、まあしょうがないか……』
浅香さんが苦笑して、『なんか言っとく?』と俺じゃない誰かに向けて喋る。
その相手は、たぶん兄貴じゃない。
電話の相手が切り替わる気配がした。
『……おじさん』
「…………はい」
夕華だ。ちょっと鼻声だった。
もしかして、俺は夕華に対してだいぶひどい事をしたんだろうか? そんな思いで心臓がすぼまる。
夕華は黙っている。鼻を啜る音がする。
静かな間が怖い。
『別に、他の女との予定を楽しそうに報告すんなとか思ってないから』
「は……?」
『紛らわしいメール送ってくんなとか思ってないから』『他の女と行く予定の店にあたしを連れてくんなとか思ってないから』『ってか、アドバイスって何? とか思ってないから』
「え――」
淡々と畳みかけられる。
『急に努力しだすなとも思ってないから』『ちょっと明るくなんなとか思ってないから』『ジムのおねーさんとのいちゃつき聞かせんなとか思ってないから』
俺は愕然と口を開けていた。
これは……何を告白されてるんだ?
『別にそのままでいいとか思ってないし、むしろかっこよくなられると困るとか思ってないし、でもかっこいいのもいいなとかも思ってないし』
電話口の奥から、くすくす笑う浅香さんの声と、未だ苦しそうに呻く兄貴の声が届く。
夕華の言葉はあまりにも想定外すぎて、俺の頭はパンクしそうだった。
そのままでいい、とか、思ってない? 思ってないのか? そのままでいいのか? え?
夕華が息を吸う。
『結婚するとか言ってたのも、嘘だったんだとか思ってないし』
それを聞いて、ずいぶん昔の記憶がフラッシュバックした。
――あたし、おじさんと結婚するから!
十年くらい前の記憶。
まだ幼くて素直だった姪が、俺を見上げて放った言葉。
俺はそれになんと答えたんだろう。
悲しませるのが申し訳なくて、曖昧に頷いたような気がする。
その後夕華は、浅香さんから「姪と叔父は結婚できないよ」と教えられて大泣きしていた。
『別に裏切られたとかも思ってないし!』
もう忘れられてると思っていた。
『だから食事楽しんできてね!!』
思いっきり叫ばれて、思わず耳を離した。
そしてガン! と電話で思い切り何かを叩く音と、『がぁ』という兄貴の末期の声。
向こう側で、電話が手渡される。
『あはは。今のが言いたいことだってさ』
今度は浅香さんが受話器越しに笑っている。
『もうバレちゃってると思うから言うけど……夕華は、昔からおじさんが大好きだったから』
「……ええ」
『近所のおじさんの話してる時が一番楽しそうだったよ、あの子。うちの旦那はちょっと気に入らなかったみたいだけど……』
兄貴の話が出たが、もう呻き声もしない。亡くなってしまったらしい。
『結婚できないってのも知ってると思うけど、だめだめなおじさんを自分だけが見てるのが良かったんだね』
そんなだめだめな俺が急に変わりだしたものだから、びっくりしてしまったのだろうか。
「……どうすれば」
心の声が漏れてしまう。脳のリソースが足りない。
『でも、さっきの言ったことは全部思ってないらしいよ?』
「……いや、それは嘘では」
『あはは、どうかな』
からっとした様子で笑われる。
『うちらとしては、泣かせたら承知しない……って言いたいけど、もう泣かせてるからね』
「は……はい」
『私の娘だし、このままで終わるってことは無いだろうから……誠意ある対応を頼むよ、おじさん』
ひどく静かな声。部屋は暖房がついているというのに、急に背筋に寒気を感じる。
「もしまた夕華が泣くようなことがあったら――』
「……あったら?」
ごくりと、唾を飲み込む。
『──じゃあ、また』
そうして、電話が切れた。
……怖すぎる。
泣くようなことがあったら……なんなんだ。
兄貴もそうだが、浅香さんもたいがい親バカだ。そして、浅香さんは兄貴より圧倒的に怖い。鳥肌がすごい。
と言われても、今、こんな風に夕華の事を知って、それにうまく対応ができるんだろうか?
相手を傷つけないようにとか、そんな微妙なやりとり、どうしたって難しい。
そんな高度で複雑なコミュニケーションが俺にできるんだろうか?
いや、無理だ。
ただの雑談だってダメ出しされたのに……。
(どうしたらいいんだ……)
夜の間、ずっと頭を抱えて呻いていた。
◇◇◇◇◇
食事の日になった。
普通に平日。仕事もある日だ、
後輩は先に上がっていて、そこに俺が合流する。
お疲れ様ですと挨拶して退勤した。残っている同僚から、自然にお疲れと言われる。
数日間、夕華の事で悶々としながら過ごしていた。
胃が重たい。だが、後輩との食事を断る理由にはならない。
腹部を押さえながら、俺は待ち合わせの場所まで向かう。
そこで、驚愕の光景を見た。
「――でさ、望月さんに上手く教えられないっておじさんめっちゃ落ち込んでたんだよ~」
「――ふふ、そうだったんですね」
待ち合わせ場所で、後輩と夕華が楽しそうに歓談している。
え、どういうこと?
「あ、おじさ~ん♡」
夕華が俺に気づいて、満面の笑みで手を振ってくる。
「ゆ、夕華? なんで……」
「おじさん、どーせきょどってちゃんと話せないでしょ~? だから助けてあげようと思って~。あ、望月さんめっちゃいい人だね!」
望月とは後輩の苗字である。その後輩はぺこりと俺に頭を下げてきた。
「先輩、こんなに可愛い姪御さんがいたんですね。知らなかったです」
「も~、望月さんもめっちゃ可愛いのに!」
「ふふふ、ありがと」
なんだ、これ。
この女の子女の子しい空間はなんだ。
「ほらおじさん、早くお店行こ~。寒いとこに女の子待たせてるのもマイナスだし~」
「え、よ、予約は?」
「私が連絡しておきました。一人増えても大丈夫みたいです」
後輩がさらりと言う。相変わらず、手際が良い。
「おじさ~ん♡」
夕華が俺の右腕を取って、抱き着いてくる。
いつものような、にやりとした笑顔を向ける。
「結婚はできないけど、一緒にいるだけなら問題ないでしょ?」
小声で言われて、どきりとする。
なんだ、この距離感。
今までと違う、一歩踏み込んだ距離に動揺する。
「だから早くご飯食べ行こ~♡ あそこの料理、美味しいし~♡」
「あ、夕華ちゃんもお店知ってるんですか?」
「知ってるー! この前おじさ――」
「行こう、寒いしな」
腕に抱き着いたままの夕華を引っ張ると、「あ~」と楽しそうな声を上げる。
「いいの~? 下準備してたって言ったら評価上がるかもよ~?」
「いや……恥ずかしいし、よくないだろ」
「ふふ、じゃあ、あたしとおじさんの秘密だね~♡」
したたかな笑みで囁かれる。
まだ気持ちを整理できていないのに、こんなに距離を詰められると、対応しきれない。
夕華が後ろを向いて、後輩に呼びかける。
「望月さんはおじさんに抱き着いてなくていい~?」
「うん、大丈夫だよ」
「じゃ~私が借りてるね~♡」
がっちり右腕を抱きしめられる。
後輩は微笑ましいものを見るような顔をしていた。
きっと、これが逃がさないという意思表示であるとはさすがに思っていないだろう。
「また家に行くからね、おじさん♡」
夕華が赤い頬でにやりと微笑む。
俺はこれからどうするか、まだ整理はついていない。今だって夕華に甘えてしまっている。
夕華も色々思う所はあるだろう。だがこうして歩み寄ってきてくれた。今度は俺が"誠意ある対応"をしないといけない。
「ああ……できるだけ暖かい格好して来いよ」
「え? でもおじさん生足好きでしょ?」
「人聞きの悪いこと言うな」
にやにや笑いながら、夕華が俺を見上げてくる。
きっとこれからも、この生意気な笑顔を見続けるんだろうな。
そんな予感に暖かいものを感じながら、俺たちはお店へと足を進めるのだった。
読んでいただきありがとうございました。
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