天界の瑠璃 人生の記
二十三歳の春。大学を卒業した誠は、目黒川のほとりに立っていた。川沿いを染めるソメイヨシノの花が美しい。ひらひらと舞い落ちる桜吹雪が、水面一面に彩を添えている。流れ行く花びらは、ライトアップされた光に反射して、薄紅の命の精を、橋のたもとでくつろぐ人々の命に散らしている。
今日は、赴任した職場の同期たちとの初めての食事会だ。
誠は、酒の場が苦手だった。飲めないにもかかわらず、まわりからは、飲めるような存在として、一目置かれてしまっているからだ。新人歓迎会のとき、無理やり飲んだのが、災いしたのか。
「誠君、こっちよ」
小粋な声が聞こえる。律子だ。赴任してから、彼女は、若くして大任を任されてしまって、缶詰になっていた誠の替わりに、毎日昼のお弁当を誠のために買ってきてくれていた。華奢な割には、行動力のある子だ。そして、何よりも、気が利く。
「ほら、仁君も、もう来てるわよ。」
重厚な体格の仁が、橋の向こう岸から手招きをしている。体格に似合わず誰からも好かれそうな柔和な笑みを浮かべて、ゆっくり聡史の予約した店のほうに、体を反転させた。社会科が専門なのに、地理に関しては、まったく疎い誠は、ただ付いて行くより仕方がない。
込み入った路地を抜けると、聡史が立っていた。聡史か。一つ上だが、人の性格を見抜く目は、僕などより、はるかに鋭い。でも、反面、とても情深い。僕とは対照的な性格だけに、逆に親近感をもって、誠は見ていた。
「誠、遅いな。明ももう来てるぞ。」
聡史が店内を指差す。明がもう席の奥に陣取っている。少し、にやりとした表情を浮かべたように見えたが、暗い店内の中、はっきりとは分からなかった。彼は、去年、常勤講師として赴任したが、今年、晴れて教諭となった。一年目から教諭として採用された誠からしてみれば、彼が、一年目から教諭として採用されなかったことが、不思議でならない。何よりも、彼の教育にかける情熱と、知識は、生半可なものではなかった。たった十日間の間に、そのことに感嘆することが、幾度もあった。彼も、僕より一つ上だ。
「おーい、誠先生。今日も、電車通勤ですかあ?」おいおい、出てきた、克美だ。克美といっても、女ではない。僕より、一つ下のひょうきんな男だ。東京生まれ、東京育ち。
「克美君、あったりまえでしょ。愛車のスポーツカー売っぱらったのに、新丸子からここまでどうやってくるの?」
これで全員揃ったな。律子、仁、聡史、明、克美、そして僕だ。
紅一点の律子が音頭をとる。
「それじゃ、乾杯しましょ!。新人、みんな揃ったわね。あ、明さん、ごめんね。明さんは、もうベテランよね。」
「いやいや、知識に関してはさておき、情熱は君らと変わりはないよ。」
うん?少し皮肉ったな。でも、事実であるだけに、憎めない感じがした。
「さあ、さあ、飲みましょう!。今日は、みんなの素顔、垣間みちゃうぞ!」
律子、楽しそうだな。いつもこんな感じなのだろうか。彼女も、常勤講師だったな。下校時に必ず通る暗いトンネルをくぐる律子の姿を昨日見たけれど、コツコツと響くヒールの音が、寂しげに聞こえたのは、気のせいだろうか。
まあ、少しずつ、みんなの事、分かり合えれば、いい。今日は、あまり飲むまい。
「かんぱーい!」律子がグラスを掲げる。「乾杯!」男性陣が、一斉に律子のグラスにグラスを重ねた。
赴任してからといもの、いきなり中学一年の担任となった誠は、休むまもなく疲弊していた。新入生のオリエンテーションの引率、担任業務、また、社会科の教科主任、テニス部の顧問、その他の校務に追われていた。また、一人一人の教員との人間関係も大切にするように、心がけてきた。「美化委員か、誠にぴったりだな」聡史に言われたことが、妙に頭をもたげてくる。
「誠君、明さんの話、しっかり聞いといたほうがいいわよ。」
時折、自分の世界に入り込もうとする僕の性格も、律子には分かっているようだ。本当に話を真面目に聞け、ということではない。話の場に引き戻そうとする律子の配慮だった。
「誠、飲みなよ」
仁がぼそりと呟く。口数は多くないが、柔和な笑顔とその動作に、どうしても拒めない気がした。
「誠先生、今度、クリップ買ってきてもらえませんかあ?」
克美がヒョウタンのような顔をして話しかける。
「クリップ?何、資料まとめるやつ?」
「そうそう、購買部にいい感じのやつ売ってないんですよ。」
「しょうがないなあ。うちの近くに百円ショップ見つけたから、どっさり買ってきてあげるよ。」
「誠君、真面目に受けないほうがいいわよ。ほんと、克美君は、人の仕事増やすんだから。誠君が忙しいの知ってるでしょ。」律子がすぐさま助け船を出してくれる。
「そうだよ、誠、こいつ、共産主義のスパイかもよ。」うん?聡史の言うことは、一見分からないけれど、克美の言う事は、それなりに受け流していたほうが良さそうだ。
「克美、よく聞けよ。」明が何かしら克美に懇々と話し出した。他の所でも、話が盛り上がってきてるようだ。駄目だ、早くも、酔いがまわってきた。
皆、酔いがまわってきた時に、聡史が、誠に言った。
「誠、サンクスな! 俺、学校に寝泊りしてもいいぜ。お前も同じだろう?」
聡史が尋ねる。
「そうだね。でも、男だけだと、汗臭いな。」
「なにお~、この変態!」聡史が初めて、素顔を覗かせた。一気に、そして初めて、酒の場が爆笑の渦に呑み込まれた。
その直後だった。いまだかつてない感覚が誠の身を襲ったのは。急に身体がスーッと吸い込まれるような状態になっていく。その感覚が全身を麻痺させていく。酔いではない。それは、即座に分かった。今までの酔った時のその感覚とは全く違う感覚が、全身に行き渡る。そして、周りの状態が、全く一つとなって陽炎のように目に映し出されてゆく。一つが全てで、全てが一つ。そのようにしか説明がつかない。全ての世界が一つとなって、自分自身の存在さえも、その中に溶け込んでゆく。それはむしろ肉体的感覚を超えていた。その感覚が、しばらくの間続いたが、次第に収束していった。
「誠君、大丈夫?」気がつくと、律子が僕の体を支えていた。あの暗いトンネルをくぐり、ようやくのことで、校舎近くの静かな公園にたどり着いた。
「どうしたの?急に横になって。随分と酔っ払っていたみたいだけど。ほんとに、あの人たち、誠君がそんなに飲めないの知ってながら、飲ませるんだから!」
律子にあの感覚は説明がつかない。
ここの教員生活もそれほど長くはないことが、なぜか誠には予感された。
東京での二ヶ月、誠は疲弊しきっていた。希望を抱いて、上京してきたが、休みのない激務に、夜になると、食事が喉を通らない。満員電車での通勤にも、辟易としていた。あの人とまた会いたいな。三月はじめに教えられて始めた観音経の読経も、この二ヶ月、できていない。
ようやくの昼下がり、はじめて外出許可を得た。心配した教頭の心遣いだった。初夏を迎えた小さな公園は、ツツジの花で満開だった。
「あの車、売るべきじゃなかったな」独り言のように呟く。
「誠君、少し痩せたようだけど、食事ちゃんと摂ってる?」
律子が心配そうに、弁当を差し出す。今日は、ハンバーグ弁当か。比較的肉類が好きな誠だったが、最近は、あっさりとしたものしか口にしていない。
「誠君、明日、部活午前中だけでしょ。新丸子行ってみたいな。」
多摩川を渡ると、家賃が少し安い。それに、川の風景は、子供のころより好きだった。車を売った代わりに、少しでも、綺麗な風景を見たいと、選んだ場所だった。
「うん、いいよ。律子の手料理食べてみたいな。」
少し緊張していたような律子だったが、嬉しそうに頷いた。
昼からはまた会議だ。少しでもここで休憩しておこう。誠は、ゆっくりと弁当のふたを開け、シーザーサラダから箸をつけた。
「いい天気だね」。誠が言った。
「そうね。なんか幸せだなあ」律子は少しうつむき、誠のペースに合わせるように、ゆっくりと箸をつけた。
多摩川を渡ると、そこは、武蔵小杉だった。
「ここから歩こうか」。学生時代から運動を日課にしていた誠だったが、部活の顧問といっても、運動をするわけではなかった。もっぱら生徒の監督だ。久しぶりに、長い距離歩いてみたかった。
「そうね。誠君の家、ここから近いの?」沈みかけた夕日の光が、律子の頬を染めている。
商店街を抜けると、大きな運動場が広がる。その脇を過ぎると、誠の新居だった。アパートの一階には、小さな花屋と、一軒の中華料理屋があった。花屋があったことは、幸せだった。生花を生けることが、誠にとってささやかな楽しみだった。中華料理屋にもお世話になっていた。店長と向き合うカウンターが、誠の指定席だった。階段を上がる。
「さあ、どうぞ。」階段を上った、401が、誠の部屋だ。
「楽しみだわ。」夕食の材料を手に持った律子が嬉しそうに微笑む。部屋に入ると、フローリングの新しい匂いがする。
「あら、すごくきれじゃない。男だから、もっと汚いのかと思っていたけど、少し残念だわ。」掃除をする事も、律子にとっては楽しみだったようだ。
「それに、この一輪ざし、これ、何の花かしら。」
オレンジ色のガーベラ一輪が、小さな青磁の花瓶に生けられている。誠にとって、この青磁の花瓶は、特別なものだった。「あの人と初めて出会った時、上京の餞別として、もらった物だ。あの人とは、初めて会ったような気がしない。あの人もそうだったのだろうか」。この一輪ざしは、素人の誠が見ても、安物ではなかった。おそらく、高麗か、李朝時代の韓国の古い品物だ。上野の国立博物館で本物を見た事があるが、それに、極めて近い。それを、惜しげもなく、帰り際、手に持たせてくれた。
律子が早速キッチンに立つ。こぎわ良く響く包丁のリズミカルな音が、誠にとっては、心地よかった。誠は知らないうちに、眠りについた。
「あら、寝ちゃったのかしら。誠君、出来たわよ。」あれから、小一時間ほど経っただろうか。すでに、五品もの和風創作料理が出来上がっていた。
「さあ、さあ、しっかり食べてね。あっさりしたものがいいって言ってたでしょう。それに、誠君、以外に、日本男児って気がするし。でも、本格的な和風料理なんてできないから、アイデア集めて、創ったわよ。」
「うれしいな。久しぶりの手料理だね。」
「でしょ。いつでも創ってあげるわよ。でも、頻繁には、こっちには来れないわ。うちとまったく逆方向だし、それに、二回も乗り継がないといけないでしょ。誠君、いっそのこと、うちに引っ越してきたら?部屋が一つだけ空いてるのよ。もちろん、実家の隣のマンションだけどね。」律子の家は、中野だった。実家は、不動産をやっているらしい。そのマンションの一部屋に、律子は住んでいた。
「中野か。」誠は律子の言葉に、とっさには言葉が出てこなかった。引越しが嫌だということでもない。それに、むしろ、律子がそばにいてくれたほうが、安心する。しかし、それ以上に、あの人のことを思い出した。
「近いな。」あの人ともすぐ会える距離だ。
「でしょ。学校までも、そんなに遠くないよ。それに、駐車場は、無料にしてあげるから、また、車買うことも考えたら?ぜったいそのほうが似合ってるし。満員電車は、もう疲れたでしょ。それに、車買ってくれたら、休日、いろんな所、一緒に行けるじゃない。わたしなんかより、ずっといいお給料もらってるんだから。」律子が、弾んだ声で、一気に話しかける。「ずっと、一緒にいたいの」。律子のそんな心の声が聞こえたような気がした。、しかし、何か、嫌な予感がする。いいこと尽くめのような話なのに、急に胸騒ぎがしてきた。
突然電話が大きく鳴った。いつもより、大きな響きのように聞こえる。誠の心臓が弾む。
誠は、急いで受話器に手をやった。
「誠さん、こっちに電話があったわよ! それも、二人の校長先生からよ。」
「二人!?」どういうことだ。母親の声も誠以上に驚愕しているように聞こえた。
数日後、誠は地元の中学校に電話をかけた。
「はい、三六中学校です。」
「北条と申します。先日お電話をいただきまして、ありがとうございます。」
「北条さんですね。校長の松平と申します。突然で、失礼いたしました。実は、去年の採用試験の受験者名簿を拝見させていただきまして、ぜひとも、こちらの中学校で、社会科の常勤講師として、7月からご勤務していただけないかと思い、お電話差し上げました。」
「はい、母から承っております。」
「一度、こちらに来校していただき、直接お話をしたいのですが。」
「わかりました。こちらの校長と、早急に相談いたしまして、折り返し、お電話させていただきます。」
「そうですか。それでは、お待ちしています。」
生家のある地元の公立中学校からこのような話があるとは、想像さえしていなかった。それに、こんなかたちで、校長から補欠者に直接電話で打診があることも、初めて知った。確かに、今の仕事は、負担が大きすぎる。経験不足からくる失敗も、この頃目立ってきた。こちらの校長が、実家に電話したのも、無理はないかもしれない。あの人に相談してみよう。きっと確かな答えをいただけるはずだ。
「北条君、君には、負担が大きすぎたようだね。色々な失敗も看過できないが、君の体調を、一番心配している。二ヶ月、自宅研修をしていただきたい。その間に、もう一度、教育心理と、教育原理の勉強をしていただきたい。その間、実家に戻って、しっかり静養してください。お母さんにもお願いしてあります。」
無理はなかった。些細な事から発展してしまったクラスの保護者とのトラブルを収束させるためにも、このような措置を学校側もとらざるを得なかったからかもしれない。
「北条君、ぜったい戻って来いよ!」赴任してから、特別にかわいがってくれた理事の一人が、心配して、声をかけてきた。彼は、内情を一番良く知っているはずだった。
誠は吉祥寺に向かっていた。閑静な住宅街をぬけると、そこには、武蔵丘陵の鬱蒼とした森の木立が広がっている。「ここだ。東京に来て、はじめて立ち寄ったのは…」誠は思った。
地理の勉強のためにも、一度は訪れたい場所だったが、そこを抜けると、その先に、美しい枯山水と珍しい花々に囲まれている、小さな庵があった。誠は、吸い込まれるように、その庵を訪ねたのだった。もうあれから、三ヶ月以上経ってしまった。
「久しぶりですね。ずっと待っていましたよ。北条君、まあ、上がりなさい。」墨衣を着た背の高い方だ。なにしろ、大きなお山で修行したという。
「あれから、どうですか?」
「はい、色々ありまして、今日、相談にあがりました。」
「そうですか。君の気持ちには、おおよそ察しがついていますよ。まあ、楽にして、お茶でも飲みなさい。さあ、これも。仏さまのお下がりだが、君には、これがいいでしょう。」彼が、茶と一緒に、和紙で包まれたモナカを差し出してくれた。あえて「仏さまのお下がりだが」と言ってくれたことが、誠には嬉しかった。
茶を喫し、モナカを食べ終わると、彼は、ゆっくりと振り向き、本尊に向かって合掌を手向けた。その後姿は、今までに見た事がない筋の通った、荘厳な姿だった。部屋の空気が澄み渡っていく。本物の祈りは、こういうものなのか。後姿からでも、祈りの深さが伝わってくる。そして、本尊は…。右手には、智慧の利剣、左手には、慈悲の索。青黒の不動明王だ。
「先生、不動明王ですね」。誠が言った。
「そうです。この苦しみの多い現実世界においては、このみ仏が相応しい。どぶ泥の中で苦しむ人々を慈悲の索で摑んで引き上げ、救いに導く。そして智慧の利剣でもって、一切衆生の煩悩の縛を絶ち切るのです。そして、仏道修行を行じる者にとっては、そのみ心をわが身に頂き、不動の信念と覚悟をもって、大衆の救いに身を捧げるのです。そのために、お祀りしています。さあ、少し、祈らせてもらいますよ」
彼が、朗々と不動経をあげてゆく。時に高く、時に低く、その見事な節に、誠はただ合掌して見とれていた。刹那、彼の体が宙に浮いていくように見えた。そして、何の音か、部屋の柱の隅が、ピシっと大きな音を立てた。
「さあ、これで、終わりました。今日は、特別にお見せしたい部屋があります。どうぞ、こちらへ」。彼の口調がさらに丁寧に変わる。
右片隅に「久松」と書かれた、いかにも重そうな松の水墨画の襖を開けると、そこには、暗い感じの不動明王の部屋とは違って、日差しの差し込む明るい仏間がもう一つあった。夕方の明るい太陽の光が、障子を透して、赤く部屋を照らしている。部屋の南の奥に、金箔にしつらえられた四方壇があった。そして、その密壇の上に、美しい仏器が整然と並べられている。その中央には、護摩を焚く護摩炉がある。護摩をあまり焚いていないのか、まだ金箔が新しい。そして、すでに、香炉には、香が焚かれ、仏器の中には、美しい純白の蓮の花弁と、シキビの葉が盛られている。周りには、四方壇を囲むように、十二神将の屏風も飾られている。本尊は…。本尊がない。護法神が十二神将であれば、普通、薬師如来が本尊であるはずだが…。観音経の修練とともに、仏教の知識も多少蓄えていた誠は、そう思った。
「この十二神将は、私が描いたのです。本来、屏風に描くものではないのですが、若いころ、画家を目指していましてね。色鮮やかな十二神将の屏風があってもいいのではないかとも思いましてね。一つ一つ祈りを込めて描いたのです。それに、ここでは、特別な時だけ、祈りを捧げるのです。二十四年前にしつらえました。入るのは、私以外は、君がはじめてです。」二十四年前。僕が生まれた年だ。それも驚いたが、この部屋は…。
「先生、驚きました。この部屋は昨晩見た夢の部屋と、まったく同じです。」
「そうでしょう。きっとそうだと思いましたよ。昨晩、久しぶりにこの部屋で祈りを捧げたのです」。彼が、嬉しそうに答える。
誠が改まって尋ねる。
「先生、僕はこれから、どの道を進んだほうがよいのでしょう?自分では、判断がつきません」。
「そうですか。それならば、新しい道を行きなさい。その方向に、君をして、君を自覚せしめる風景が広がっているはずですよ」。先生は何ともいえぬ柔らかな笑みを浮かべて、まっすぐに誠の目を見つめた。
「新しい道ですね」。
先生にお会いしたら、食事会での出来事や、律子のこと、その他、学校の細かい事柄を色々お聞きしようと思っていたが、誠には、この短い言葉で十分だった。
明日は、朝から残務処理をしなければいけないな。午後にはまっさらの教務机になるだろう。誠は、静かに目を閉じた。ふうっと、誠のまぶたの裏に、律子の顔が浮かんできた。
三日の朝、誠はさすがに緊張していた。教員皆が日常通りの業務に精を出す中で、朝から、教務机の全ての教科書や参考書類を片付け、書類の整理に追われなくてはならない。
昼休みまでにはすべて片付けたいと思っていた。右斜め前の律子にだけは、ある程度、一部始終を話し終えている。ただ、この学校での生活に終止符をうつことだけは、まだ話せずにいた。
「おはようございます」なるべく普段どおりの朝のあいさつを、一通り終えると、早速残務処理に入った。大きなかばんを横に置き、黙々と作業を続ける誠の姿に、聡史も、仁も、克美も、そして明さんも、大方の意味を感じ取ったのだろう。いつもとは違い、誠に話しかけることはなかった。無論、その他の教員たちもそうだった。右斜め前に座っている律子だけが、時々、寂しそうに、誠のほうを見つめる。引継ぎの教員が、誰になるかは、分からなかったが、書類一つ一つに付箋をつけ、やるべき事を、短い文章で書き留めた。
「律子の弁当も、もう食べられないな」誠は心の中で、そう思った。昼休みのほんの少し前に、すべての作業が終了した。たった二ヶ月だったが、それにしても、ずいぶんと長い時間ここで過ごした気がした。
「誠君!これ、持って行って!」律子が小走りに、校門を後にした誠の背中に声をかける。
「誠君、京都とか、金沢とか好きだって言ってたでしょ。これ、買ってきたの」まだ息を弾ませている律子が、誠の右手を握る。
「友禅染のハンカチ」律子が言う。左手には二枚のハンカチが握られていた。色違いで、同じ柄のハンカチだった。瑠璃色の雲中に、一人の天女の舞う姿が描かれていた。律子に似ていた。
「これから、暑くなるでしょ、男の人だから、持ち歩く事は出来ないかもしれないけど、私の気持ちだから」
「ぜったい戻ってきて!」律子は涙目で、誠を見た。
「わかった。きっと再会しよう」この学校に戻る事はもう出来ないが、なぜだか、いつかまた律子と再会できるような気がして、誠はとっさに答えた。
「ぜったいだからね!」律子は、握り締めていた誠の右手をゆっくりと離し、ハンカチで涙を拭い、校舎に戻っていった。
昼下がりのいつもの校舎は、いつもよりも静寂に、誠には感じられた。校門から、しばらく歩くと、そこは、あの暗いトンネルだった。「またこのトンネルか」誠は、おそらくは、もう通ることがないだろう、そのトンネルを、書類のぎっしり詰まったかばんを右手に持って、歩き抜けた。トンネルを抜けると、太陽の日差しが眩しい。もう一度、あの人にご挨拶にいこう。あの人ともしばらく会えなくなる。
手持ちのカバンと、青磁の一輪ざし一つだけ残して、すっきりと空になった新丸子の部屋を誠は見つめていた。ここでの生活も短かったな。誠は思った。フローリングの匂いがまだ新しい。これから、吉祥寺だ。あの人とは、じっくりと、ほとんど話をしていない。今日はゆっくりと話をしたいな。誠は、一輪ざしを、丁寧にラップに包んで、カバンにしまった。さあ、出発だ。
吉祥寺を下りて、しばらく歩くと、あの鬱蒼とした森の入り口が近づいてきた。遠くに人影が見える。先生!?遠くから、自分を待ってくれていたかのように、こちらに手を振っている。
「北条君、待っていましたよ。すっきりとしたようですね。」全てを見透していたかのように、先生が、短い言葉で、誠を歓迎した。
「はい、色々ありましたが、これから実家にもどります。新しい学校で、また一からやり直すつもりです。」
「そうですか。それがいいようですね。東京は、あまり君には向いていないようだ。それに、君はまだ若い。これからいくらでもやり直せますよ。」先生が温かい目で、見つめる。
「ありがとうございます。先生とは、帰る前にもう一度だけお会いしたかったのです。」
「そうですか。それは、嬉しいですね。庵まで少し歩きましょう。」先生が先導してくれる。木々の隙間からこぼれる日の光が眩しい。こういう場所はいいな。とても都心とは思えない場所だ。湿りを帯びた空気と、落葉樹の腐葉土の匂いが、森を包んでいた。誠は、実家のあの川を思い出していた。青竜川。子供のころから、川遊びに夢中になった場所だ。ここの森の空気と匂いは、あの川の森の空気とよく似ている。誠は、ゆっくりと、森の空気を胸に吸い込んだ。
「君とこうして歩くのは、私もたのしいのです。」先生が嬉しそうに振り返る。
「僕も嬉しいです。」誠は答えた。
「さあ、着きましたよ。今日は、少しだけお話しましょう。」
庵を入ると、あの不動明王が、憤怒の相をして、こちらを見つめている。誠には、以前と違い、なぜか、さらに厳しい表情に見えた。一瞬、部屋の空気に火花が散ったように感じられた。
「北条君、さあ、こちらへ。」先生は、庵に入るとすぐ、あの護摩壇の部屋に案内してくれた。
「ここの部屋の中では、今まで、一切、何も口にはしてこなかったですが、今日は、この部屋で、ゆっくりお茶でも飲みましょう。」先生が炒り立てのほうじ茶を差し出してくれた。
今日は、密壇に香は焚かれていない。
「わたしもね、以外に苦労したんですよ。」先生が誠に話しかける。
「大きなお山、と仰っていましたが、どのような修行だったのですか?」
「残念ながら、あまり詳しく語ることは、禁じられていましてね。とにかく、一通りの修行を畢えさせてもらったのです。お山の座主になる道もあったのですが、伝統あるお山の修行体系を根本から変革しようと試みましてね。それが元で、仲間や、高弟たちから疎まれましてね。自らお山を下りたのです。そのようなわけで、今は、こうして小さな庵で生活し、修行しています。」先生が少し固い面持ちで、言った。
「そうだったのですね。でも、そのようなことがなければ、東京で、僕も先生とお会いすることは、できなかったかもしれません。」
「そうですね。それは、私にとっても、大きな喜びです」。先生の顔が明るく変わった。
「今日は、君に手渡したいものがありましてね。大切にとっておいたものですが、これらを差し上げましょう。」先生が、陀羅尼経典と、密教辞典を誠に渡した。誰も手にしていないのか、白い薄紙に包まれたそれらは、とても新しい。
「これらを少し勉強してください。」
「先生、先生の弟子になることはできないのですか?」誠が尋ねる。
「北条君、私にはその資格がないのです。それに君には、これから教員としての道を全うしていただきたい。勿論、仏教については、許される範囲で、出来る限りの指南は、させていただきましょう。地元に帰っても、休みの時、時々こちらにも足をのばしてください。」
「わかりました。そうさせていただきます。」誠は少し残念だったが、先生に指導していただける道がついたことは、嬉しかった。
「さあ、久しぶりの地元でしょう。お母さまや、ご家族の方もきっと楽しみにしていらっしゃる事でしょう。しばらく、会えなくなりますが、あなたのこと、祈っていますよ。」
そろそろ新幹線の時間が近づいてきた。この庵とも、しばしのお別れだ。
「先生、今日は、ほんとうにありがとうございました。」誠は丁寧に頭を下げた。
「楽しみですね。」先生が柔和に微笑む。
庵を出ると、日が高く昇っていた。太陽の周りに大きな虹が架かっている。
「先生、あれ、何でしょう?」誠が尋ねる。
「日暈ですね。これは幸先がいい。それでは、また会えるのを楽しみにしていますよ。」
「ありがとうございました。」
誠は、庵を後にし、武蔵野の森を抜け、東京駅へと向かった。
誠さん、おかえりなさい。」駅のロータリーに、母が迎えにきてくれていた。
「大変な二ヶ月だったわね。新しい学校生活が始るまで、少しゆっくりしてちょうだい。」
ここは変わっていないな。駅周辺を見渡すと、見慣れたビルや見慣れた看板が目に入ってきた。正月に帰省してから、久しぶりの地元だ。
橋を渡ると、夕焼けに染められた青竜川の幻想的な風景が広がっていた。夕日に照らされた静かな水面は、空に広がる美しい雲を映し出している。中流域に広がる鬱蒼とした柳の森は、人を寄せつけない、手つかずの自然を今に残している。所々に華の咲く木が点在している。いつ見ても心休まる風景だ。トビが一羽水面の上空高く舞っている。誠は、ふうっと一息、息を吐いた。すぐにまた忙しい日がやってくる。今日はゆっくり休もう。
「新進気鋭の先生が、今日からこの学校で、勉強を教えてくださいます。皆さん、しっかり勉強するように!」甲高い声の教頭が、壇上で、僕を紹介した。
誠は、少し硬くなっていた。公立中学校での慣わしだ。壇上で挨拶しなければならない。誠は、ゆっくりと、壇上に向かって右側の階段を上る。四段目にさしかかろうとしたその時、硬くなった右足のつま先が、階段に引っかかった。誠の体が宙に浮いた。なんとか、顔面を強打する事だけは避ける事が出来たが、幅跳び選手のように空中で何度か腕を回した。もちろん、幅跳び選手のように、さまにはなっていない。体育館に並んでいた生徒たちが、クスクス笑いだす。中一の生徒か始った笑いは、中二、中三へと広がり、大きな笑いの渦となった。
「静かにするように!!」生徒指導部長の先生が一喝する。それでも、クスクスとした笑いは、続いていた。
「これから、社会科を担当することになりました、北条といいます。みなさん全員の授業を担当するわけではありませんが、一緒に楽しく、そして、しっかりと勉強していきましょう」誠は、動揺を抑えながら、それでも、しっかりした口調で、最後まで言い切った。やれやれ、新進気鋭とは、到底言えないな。
「北条君、少し緊張してた?」三年E組の担任の安西先生が、にこやかに誠に声をかけた。
「はい、初めてのことだったものですから。お恥ずかしい所をお見せして、すみません。」
「いいのよ、気にしなくて。一緒にがんばりましょうね」優しい方だ。
誠は、三年E組の副担任を任されることになっていた。担任の安西先生は、中学時代、お世話になった先生だ。結婚されて、安西と姓が変わったが、初めてお会いしたとき、すぐに、中学時代お世話になった先生だと分かった。授業は担当していただけなかったが、安西先生も、僕の事を覚えていてくれたみたいだ。、
「北条君、中学時代は有名人だったようね。この間この学校を退任した、北条君の同級生が言ってたわよ。」安西先生が言った。
「そうなんですか?。あまりそんな自覚はなかったんですけど」
「そう?でも、すごく大人しい子だったわね」
「北条君。名前を見て、まさか、とは思ったけど、やっぱり君だったんだね。驚いたよ」飯田先生だ。中学時代の部活の顧問の先生だ。なぜか、笑う時、決して口を空けないが、笑みの素敵な、恩師だ。
「中学時代はお世話になりました。僕も、びっくりしました」
「そうだね、中三の夏の大会覚えてる?藤川杯で、個人戦、県三位になったでしょ。あれは印象深いな」飯田先生が、嬉しそうに話す。テニスのパートナーと組んで出た個人戦の大会だ。記憶では、ベスト8だったと思っていたが、三位だったのは、忘れていた。
「また、放課後、暇なとき、テニスコートにおいで。時々一緒に打ちたいな」飯田先生は、今でもテニス部の顧問だった。
「せんせ~い!」帰り際、3人の女の子が話しかけてきた。「先生、あれ、わざとにこけたんですかあ?爆笑しましたよ!」
「どうだろうね」
「えぇ~、わざとじゃないんですか?わざとですか?どっち~?」
「どうだろうねえ」誠は、この学校を退任するまで、秘密にしておこうと、思った。
「気をつけて、お帰り」誠は言った。
「は~い、わかりました。いつかぜったい教えてくださいねえ!」3人はキャッ、キャッ、キャッ、キャッ言いながら、楽しそうに下校していった。仲のいいトリオだな。ここでの生活は以外に楽しいものになりそうだ。誠は、そう思ったが、それが長く続くだろうか。一抹の不安が、誠の脳裏をよぎった。
誠は、二ヶ月勤めた東京の学校の給料を頭金にして、新車のツーリングワゴンを買っていた。色は黒。5速マニュアル、1500CC。通勤する時に決まってかける音楽は、ファイヤー・ハウスのグッド・アコースティク。兄からもらった、兄もお気に入りのCDだ。車の走りに熱を与えてくれる。これで、好きな車でどこでもいけるな。誠は4速から5速にマニュアルをシフトして、グンと車を走らせた。学校までの道のりは、田畑に囲まれた、見透しのきいた直線の道路が多い。三六丘陵の端を登りきったところに、三六中学校がある。20度はあるだろう坂の手前で、2速にマニュアルをシフトダウンして、300メートル、一気に駆け上がる。登りきったところが、三六中学校の正面入り口だ。正面には、今にも崩れ落ちそうな筋肉質の裸の青年の像が立っている。三六中学校のシンボルだ。グリコのお菓子の箱に描かれているあの青年の姿にそっくりだ。片足を上げて、万歳をしている。それも、裸で。誠は、それを見るたびに、いつも笑いそうになった。古ぼけたその像の台座には、校訓が掲げられている。「自立心、克己心 友愛心」立派な校訓だ。ただ、その心を、この像が、すべて具現しているとは、あまり思えない。片足で立ち、均衡を保っているあたりが、自立心と克己心を少しは表しているようだが。救いなのは、短いランニングパンツを履いていてくれることだった。無言で見るものを笑わせてくれるところあたりが、唯一身近に「友愛心」を表してくれているようには思えた。「君とは友達になれそうだ。グリコ。」誠は、めずらしく冗談めいて、心の中で呟いた。
誠の仕事は忙しかった。中三の副担任、中一、中二の歴史・地理の授業。中三の公民。その他、剣道部の副顧問、厚生委員会の仕事と、常勤講師といっても、教諭の仕事とさほど変わりはない。勿論、仕事量は、教諭よりもかなり少なかった。ここで、しっかり経験を積ませてもらおう。そう思って、誠は一心に励んだ。秋が過ぎ、冬が来た。その間、誠は、日曜の暇な時間を見つけては、吉祥寺の先生からもらった陀羅尼経典、密教辞典の研究にも励んでいた。自分で購入した浄土三部経の研究にも熱を注いだ。
青竜川に沈む夕日は美しい。土曜の授業が終わり、部活が一段落すると、決まって誠は、青竜川まで車を走らせた。青竜川を見つめていると、決まって誠は、律子の事を思い出した。律子、どうしてるかな。元気にやっているだろうか。夕日を見つめると、しんみりとしてくる。
私立高校の入試が終わり、県立高校の入試が終わった。大方の生徒は、第一志望の高校に入学を決めていた。誠の中三副担任としての仕事もようやく一区切りがついた。勿論、中三学年団の担任の先生たち、学年主任の先生の重圧は、誠の想像を超えていた。三月も終わりになると、誠の進退も決まってくる。しかし、退任する日が近づいても、誠の元には、次の教員としての仕事の話は、舞い込んでは来なかった。「やれやれ、就職浪人か」誠は、ふうっと、長い息を吐いた。それも道なら仕方がない。
「あきらめずに、がんばって生きよう。つらくなったら、きっと、そばにいてくれる人がいるんじゃないかな。笑う時は笑おう。泣く時は泣こう。遊ぶときは遊ぼう。そして、勉強するときは、思いっきり勉強して、すかっと、素敵な人になろう。そんなことを思いながら、僕も卒業します。卒業は新しい始まり」
誠は卒業文集にそんな短い言葉を残した。
「せんせ~い!わたしたち、やりましたよ!第一志望合格です!もう教えてくれてもいいですよね。初めての挨拶のとき、こけたのは、わざとだったんですかあ?」あの三人組が、卒業式の日、話しかけてきた。やれやれ、あのトリオだ。今まで、何度か、はぐらかしてきたが、今度はどう答えようか?
「せんせ~い。どうなんですかあ?」
「うん、自然に。」
「自然に?自然にこけちゃったんですかあ?う~ん、まだどっちか分からないけど、先生の存在、なんか、見てるだけで、うけましたよ!」
「どんな印象だったんだ?」真面目をやり通した誠だったが、生徒は違って見ていたようだ。「あの校門のグリコと友達になったからかな」誠は、じっと、あの銅像のグリコを見つめた。「グリコ」。誠は自分を慰めるように、少し、冗談めいてそう呟いたが、今、さられている壁が、一気に誠を現実の世界へと引きずり戻した。
忙しい数ヶ月だったが、これから先、進む道をを考えなければならない。教典の研究にも明け暮れたが、吉祥寺の先生が言っていた、「君をして、君を自覚せしめる風景」というものは、どういうことだったのだろうか?青竜川の風景、三六丘陵の雄大な自然、そして、今となってはあまり笑えないが、グリコを見るとなぜか脳裏をよぎる「友愛心」。大学時代、親友が言っていた「友情」。彼は決まってこう言った。「一番大切なものは?」「友情!」二人声を合わせて、右手と右手を握り合った。そんな事が思い出される。壁にぶつかると、楽しかった大学時代を思い出すものだ。教員になるために、一心不乱に勉学に勤しんだ。大学の並木道が美しかった。
律子はどうしているだろうか。あれから、連絡をとっていない。いつもカバンに忍ばせている友禅染のハンカチが、今となっては、悲しい記憶として思い出されてしまう。律子もまだ持っているだろうか。「ぜったいだからね!」と言った律子の最後の言葉が、胸に刺さる。彼女も新しい生活を始めていることだろう。この数ヶ月、あっという間だった。東京での生活のほうが短かったはずなのに、思い出されるのは、東京での事ばかりだ。吉祥寺の先生は、どうしているだろうか。この数ヶ月、現実の火宅の波に流されて、他愛もない生活を送ってしまったような気がしてならない。誠は、自分という存在が、一体どういう存在なのか、深く考えるようになっていた。現実の影が濃くなればなるほど、一筋の光はあたりの闇を明るく照らしだす。自分はその光になる事ができるだろうか。誠はそんなことを思うようになった。しかし、いたたまれない喪失感が、誠の体全体に広がる。人生に対する失望。誠は、初めて、人生に対する虚無感を身に染みて感じていた。
ここでの生活も、一区切りつけたい。誠はそう思っていた。何もせず、だらだらと送った数日間、誠は、一人ここを飛び出す事を考えていた。母は、納得の行く道を、と背中を押してくれた。父は泣いていた。残ったのは、愛車のツーリングワゴンだけだった。
誠は、ひたすら高速を走っていた。名神を抜け、東名に入った。東名を抜けると、首都高速に入る。誠はひたすら「流鐘」を目指した。「流鐘」か。頼る者が誰もいない「流鐘」はどんな風景だろうか。学生時代の同級生は、ほとんどが「流鐘」を後にしている。午前一時過ぎ、流鐘に着いた。古ぼけたアパートの屋根の上に満月が煌々と光っていた。
翌日、明浄予備校に誠は電話をかけた。
「はい、明浄予備校、高嶺教室です。」
「講師として学生時代にお世話になっていました、北条と申します」誠は思い切って、明浄予備校に電話をかけた。
「北条さん!?あ、北条君じゃないか!久しぶりですね。教室長の谷口です。いったい、どうされましたか?」
「はい、実は、もう一度、そちらで働かせていただけないかと思い、お電話差し上げました。突然で、申し訳ありません」
「あ、そうですか。驚きましたね。今どちらにいらっしゃるんですか?」
「はい、今、流鐘におります。」
「流鐘ですか。そうですか。今はもう四月に入って、ある程度のカリキュラムは、埋まってしまっていますけど、少し待っていただければ、なんとか空いたコマの所から徐々に入っていただく事は、可能ですが、それでも、よいですか?」
「はい、大丈夫です。どうぞ、よろしくお願いいたします!」
「わかりました。それでは、一度講師として働いていただいていることですし、一次試験は、免除できます。本部の方に連絡しておきますから、追って本部での面接の日時をご連絡します。」
「ありがとうございます!」賭けに近かった。誠は、嬉しかった。失望の淵から、ようやく顔を覗かせたような気がした。また、流鐘での生活が始る。吉祥寺のあの人とも車で二時間、会える距離だ。流鐘の青春の空気は、もう遠いものになっているように思われたが、それでも、誠は嬉しかった。
木造二階の暗いアパートの部屋に、うっすらとした裸電球が、チラチラと光っていた。障子を開けると、日没後のひんやりとした湿り気を帯びた空気が、隣の深閑とした林の霊気と混ざり合って、部屋に流れ込んできた。誠はもうすぐ二十六歳になろうとしていた。
「北条先生じゃないですか!村山です。覚えていらっしゃいますか?」
体格のいい、声の通る人だ。誠が学生だったときより、貫禄が増したように見える。
「村山先生!もちろん覚えています。今も、こちらの教室ですか?」
「いえ、いえ、今は、神屋教室です。若干二十七歳で、教室長を命じられましてね。今日は、会議でこちらに来ています。それから、もう一年です。北条先生は、今どちらにお住まいですか?」
「はい、流鐘です。」
「流鐘ですか!神屋教室にも近いじゃないですか。今日は、急ぎですが、またゆっくり話しましょう!」学生時代と変わりなく、はきはきとしたパワーのある声だ。二つ年上だが、必ず、いつも敬語で接してくれる、身の低い人でもあった。
面接が終わり、数日後、誠の配属先が決まった。
「村山先生、よろしくお願いします。」誠は、神屋教室に配属になっていた。
「北条先生、ようこそ、ようこそ!まあ、授業までは少し時間もあることですし、コーヒーでも飲みながら、少しお話しましょう!」村山先生が、教室奥の喫煙室の隠れ部屋に案内してくれた。学生時代に村山先生のために、誠が買ってきた、土器の素焼きの灰皿がまだ置かれてあった。
「いやあ、北条先生、お久しぶりですね!まさか、またこちらで働いてくださるとは、思ってもみませんでしたよ。確か、教員として、東京に行かれたんでしたよね?どうされたんですか?」
「いや、実は、色々ありまして、辞めたんです。」
「そうですかあ。なかなか思うようにならないですねえ。でも、また、北条先生と働かせてもらえるなんて、光栄ですよ。何しろ、私、あれでしょ、数学とか理科とか出来ないし、北条先生、オールマイティーで、何でもできますから、大戦力ですよ。私の代わりに、社会と国語にも入ってもらうことも、できますしね。実は、無理言って、こっちに配属してもらうように、お願いしたんですよ。」
「そうだったんですか。僕こそ、嬉しいです。先生とは何か、他人のような気がしなかったですから」誠は安心して答えた。この人となら、ずっと一緒にやっていけそうだ。
「そうですか!それは、うれしいこと言ってくれますね!まあ、とにかく、これで、神屋教室も、他の教室よりパワーアップしましたね。他の教室には負けていられないですからね。ま、とにかく、タッグを組んでやってきましょう!」
誠は、窓を開けて、ツーリングワゴンをアパートに向かって走らせた。初夏の乾いた空気が、スウッーと車に入り込んでくる。あれから、一年か。誠は、ツツジが満開だったあの公園での律子との時間を思い出していた。明日は、久しぶりに東京に出かけよう。誠は、またあの武蔵野の森を訪ねるつもりだった。
誠は、久しぶりに電車に乗っていた。久しぶりに電車の空気も味わいたかったからだ。電車が、山の手の一つ一つの駅に停車してゆく。誠は一つ一つの駅名を確認するように、じっと東京の町並みを眺めていた。電車が渋谷を通り過ぎる。渋谷か。誠は呟いた。律子は、まだここを通っているのだろうか。原宿を過ぎ、電車が新宿に着いた。ここで、乗換えだ。誠は雑踏を避けるかのように、早足で、中央線の乗り換えホームに急いでいた。早く、吉祥寺に行きたい。
ドッと、肩がぶつかった。
「ごめんなさい!」栗毛色の美しい髪の女性だ。
「律子!」誠が叫んだ。
「誠君?、誠君じゃないの!」律子が絶句する。
「髪、染めたのか?」誠が言った。
「ええ」
「まだ、あの学校にいるのか?」
「誠君、ごめん、今ちょっと急いでいるから…」
「そうか、律子、これ」誠は、早書きで、携帯の番号をメモした。
「こんなこと、出来る筋合いじゃないけど」誠がメモを差し出す。
「いいのよ、誠君。びっくりしたけど、嬉しいわ」律子がメモを受け取る。
「おーい、律子。」律子の後ろから、中背の男が声をかけた。
「待たせたね。うん?この人誰?」男が怪訝に尋ねた。背格好は誠と同じ。洋服の趣味も似ている。
「あ、この人、学生時代の同級生。ばったり出くわしたの」律子が男に言った。
「そっか、偶然だね。これだけ人がいるのにね」男が、誠に向けて、少し会釈した。
「それじゃ、また同窓会で会えるといいね」律子が誠に言った。
「そうだね。いつかね」誠は、事のおおよそを理解して、足早にホームに向かった。
一年という月日は、こんなに人を変えるものなのか。そう言う自分も、あまりにも勝手気ままに生きすぎた。律子を囲む環境も、あの時と全く違った、新しいものになっているのだ。誠は自分に言い聞かせた。自分もそうなのだ。
久しぶりに会った先生は、言葉少なだった。事の流れを、ひとつ、ひとつ、頷いて聞いて下さったが、沈鬱な面持ちだった。
「少し痩せましたね」先生が言った。
「はい、また一人になったものですから」誠も、あまり言葉が見つからなかった。
「律子さんですか。いつか、相談に乗ってあげられると、いいですね」先生がジッと目を閉じながら、言った。
「はい、そのような時が、本当に来るのなら」誠は、律子とはもう会えない気がしたが、そう言った。
密壇の部屋に、夏至の夕方の太陽の長い光が低く差し込んでいた。
誠は、一心不乱に、仕事に精を出していた。夏休みに入り、夏期講習が始っていた。一日七コマも入るハードスケジュールだ。むしろ、忙しいことが、誠にとっては、嬉しかった。仕事以外、何も考えなくてもすむ。一ヶ月間、あっという間に時間は過ぎ去った。
八月も終わりに近づき、夏期講習も実力テストを残すのみとなった。
今日は、爺の命日か。九十七歳で天寿を全うした爺。明日は、誠の誕生日だった。誕生日が近づくと、爺の事が思い出される。久しぶりの休日に、誠は、隣の林の中にポッツリと残されている小さな公園のベンチで、爺の事を思い出していた。明日は、誕生日か。人生で初めて誰にも祝い事をされない日がやってきそうだな。誠はそう思っていた。アパートに帰り、誠は久しぶりに早い時間に床に入った。
早朝六時、誠は目が覚めた。畳の上に直に置かれた、十四インチの小さなテレビの電源のスイッチを押した。昨日の夜、関東一円に降った豪雨のニュースが流されていた。それを、じっと見つめていた誠の携帯が急に鳴った。母親かな。誠はそう思って、携帯を手に取った。見知らぬ番号だ。
「はい、北条です」
「誠君?」少しかすれた女性の声だ。
「どちらさまでしょうか?」
「私」
「律子か!?」誠は驚いて、携帯を持ち替えた。
「そう。朝早くごめんなさい。あれから何の連絡もしないで、ごめんね」律子が言った。
「いいんだよ。びっくりした」
「今日誕生日でしょ。」律子が言った。
「覚えててくれたのか」
「誠君、地元に帰った後、携帯変えたでしょ。色々話したかったし、相談にも乗ってほしかったの。きっと帰ってきてくれるって、思ってたんだけど。でも、いいの。こうやってまた話ができるようになったし」
「ごめんな。でも、律子のことは…」誠は、うかつには、ものを言うまいと、とっさに思った。
「あれから、どうだい?まだあの学校で勤めているのか?」誠は言った。
「いいえ、今年の三月で任期が切れちゃってね。常勤講師としても、教諭としても、継続されなかったの」律子が淋しそうに言った。
「そうか。じゃあ、今は?」誠が尋ねた。
「今はね、実家の不動産を閉めるために、その整理をしてるの。今年の二月、母親が亡くなっちゃってね。三年前からずっと病気だったの。いくつかのマンションも、誰も管理をする人がいなくなっちゃったから、私一人で、やってるの。でも、明日には全部終わるわ。」
「お母さんが!?父親とか、親戚は?」誠が言った。
「父親は、私が小学生の時、事故で亡くなっちゃってね。親戚もずっと遠くにいて、小さなころから、あまり交流がないから」
うかつだった。律子の家族のことは、何も聞いていなかった。時々律子の背中に影を感じたのは、そんな理由だったのか。
「私、もう誰も頼る人がいないの」律子が泣きじゃくる。
「新宿で会ったあの人は?」誠が尋ねる。
「私、ずっと誠君のこと忘れられなくて、誠君に似た人ばっかり探していたの。彼、優しかったから、誠君に似てたし。でも、彼、優しすぎて、とても不動産の手伝いはお願いできなかったし、それに、私、もう東京にはいたくないの。産まれてから私ずっと東京でしょ。東京にいると、両親のこと、ずっと思い出しちゃうし、それに、彼は、東京から出られない人だから」
「じゃあ」
「そうなの」
律子は、別れ話の細かいいきさつは、誠には話さなかった。
「誠君、私、そっちに行ってもいいかな?」律子の強い念いが電話ごしに伝わってきた。
「わかった」
誠は、全てを受け入れるつもりだった。彼女の為に生きよう。もう、悲しい思いはさせたくない。誠はそう思った。
八日後、律子が流鐘の誠の元にやって来た。小さなバックを片手に持って、額にうっすらと汗をにじませながら。長い髪は、ばっさりと切られ、あの栗毛色の髪は、黒く染め直されていた。律子が額の汗を拭う。汗を拭うあの友禅染のハンカチは、ずっと使われていたのか、柔らかな風合いに変わり、律子の手にしっかりと握られていた。
「誠君、ただいま」
「おかえり」誠が答える。二ヶ月しか一緒に生活していなかったのに、まるで、夫婦のように二人には感じられた。
「律子、よくがんばったね」誠が優しく声をかける。
「誠君、ありがとう…」律子の目には涙が、にじんでいた。
「少し、疲れただろう。しばらくここで休んで」開け放たれた二階のアパートの窓から、秋の気配を含んだ乾いた風が、サーッと吹き込んできた。
「誠君の車に乗りたいわ」日が陰り出した林のあちこちから蝉しぐれの音が聞こえてくる。
「少し、ドライブしようか」誠が言った。
「たのしみだわ」律子が微笑む。
大学周辺の並木道は、ことさらに美しい。車が、ケヤキ並木の隙間からこぼれる光のトンネルをくぐっで、ゆっくりと進んでいく。
「ここは、僕が一番好きな所だったんだ」誠が言った。
「そうなの?本当に、別世界に来たみたいだわ。それに、わたし、男の人と二人っきりで、車に乗るのは、初めてなの」律子が少し顔を赤らめて言った。
「そっか、そうなんだね」誠はそう言って頷いた。
ケヤキ並木のトンネルを抜けると、背の高い針葉樹、メタセコイアの並木道へと変わる。車がゆっくりと左カーブを描いていく。たくさんの手のひらのような黄色い葉を茂らせている、スズカケの木々が美しい。長い直線をまた左にカーブすると、水連の花に彩られた瑠璃色の池が右手に見えてくる。あちこちに飛び交っている赤とんぼが、秋の到来を予感させた。
「ほんとうに、素敵なところね。こんな所で、誠君、六年間も過ごしたのね。わたし、もうここを離れたくないわ」律子がジッと誠の横顔を見た。
誠は、律子の視線だけを、ただ感じながら、車を走らせた。
流れ来て 鐘の鳴る地に ただ二人
瑠璃の色にぞ 染められにけり
誠は、ふっと、そんな歌を心の中で、詠んだ。
太陽が、流鐘の地平線にゆっくりと沈み、茜色に染まった夕焼け雲が、二人の目の前に、悠然と広がっていた
「律子さん、誠君のこと、しっかりつかまえてなくちゃ、ダメよ」
学生以来、久しぶりに誠に会った江美が、律子に言う。江美が律子と会うのは初めてだった。一緒に来ていた旦那の久直が、喫茶店の外で、子供と遊んでいる。
「誠君、結構、無鉄砲なところあるんだから。いつどこに飛び出していっちゃうか、わからないのよ。それにね、学生時代、結構たくさんの女の子が、誠君のこと好きだったのに、誠君、気づかないっていうか、気づいてるのに、無愛想な態度とるっていうか、私も、誠君のこと、結構気に入ってたのに、誠君、ぜんぜん相手にしてくれないんだから。だから、私、あの人と、結婚したのよ。ねえ、誠君」江美が、少し意地悪そうに誠を見た。
「そうだったっけ…」誠はバツが悪そうに、律子を見た。
「久~、もうこっち入ったら~?」江美が久直を呼んだ。
「ほんと久しぶりだな、誠」久直が、子供の手を連れて、店内に戻ってきた。
「誠も、結構大人になったんじゃない?顔つきも少しかわったな。学生時代は、女の話なんか、ぜんぜんしてくれなかったよな。いつも、どうだ、どうだって、聞いていたのに、ぜんぜん女っ気がなかったよな。その誠が、こんな素敵な彼女連れてくるなんて、びっくりしたよ」久直が、誠に言った。
「律子さん、わたしたちね、ホテルのフロントの仕事仲間だったの。わたしが勤めてるホテルに、誠君が最初にバイトで入ってきてね。そのうち半年もしないうちに、この人辞めちゃうんだから。その代わりに誠君の紹介で入ってきたのが、久直なの。いわば、誠君、キューピットよね。たしか、その他にも、誠君関係で、付き合い始めた人たちもいたわよね。それが、誠君にとって、良かったのか、悪かったのか。律子さん、しっかり誠君のこと、つかまえとくのよ」
「はい、ちゃんとそばから離れないようにします」律子が言った。
久直と江美の子供は、もうすぐ三歳になろうとしていた。無邪気な動作と笑顔が、誠にとっても、律子にとっても微笑ましかった。
「そろそろ、私たち、東京に帰らなくちゃ。もう電車の時間だわ」江美が言った。江美の姉が久直と江美を車で迎えに来ていた。
「それじゃ、誠君、律子さん、また会えるの、楽しみにしてるわ」江美が、微笑む。
「誠、元気でな。律子さんも、誠のこと、支えてあげてくださいね」久直が言った。
律子がしっかりと頷いた。
誠は思った。自分たちも久直と江美のような家族になれるのだろうか。まだ想像はつかなかったが、律子のことを大切にする気持ちだけは、変わらなかった。
律子が流鐘に来て一年、誠の仕事は相変わらず忙しかった。律子は、大学近くのチャイルド・ランドという喫茶店で働いていた。近くにいくつか保育園と幼稚園があるせいか、親子連れの客足が絶えない。律子はそんな環境で働くことが嬉しかった。いつか、私たちも、こんな家族になれるのかしら。律子はいつもそう思っていた。
「誠君、私、誠君の子供が欲しいの」秋も深まった夜、律子が誠に言った。季節はずれの雷雲が、近くに迫ってきていた。誠は悩んでいた。仕事もようやく軌道に乗ったばかりで、心の準備ができていない。それに、二人はまだ籍を入れているわけではなかった。もちろん、そのことを念頭において、古いアパートを引き払い、3LDKの比較的新しい新居に移ってはいた。
「そうだね…」
落雷が近づいてくる。急に稲光が光った。それと同時に、大きな雷音と共に、アパートが大きく揺れた。
「近いな」誠が呟く。
「ねえ、誠君?」律子が誠の顔を覗いた。
「そうだね、そろそろかもしれないね」誠が言った。
律子は誠の肩に頭をもたげながら、優しく誠の右手を握った。
静かに眠りに就いた律子の顔は、まるで天女の美しさのように透き通っていた。
翌朝目覚めた律子は、急激な頭の痛みを訴えた。
「誠君、頭がとても痛いの。何か詰まっているような感じがして…」
「律子、大丈夫か?」誠が心配そうに律子の様子を見つめた。「一応、念のために、病院にいこう」誠が言った。
「そうね、また少し痛みが増してきたわ」律子が不安げに答えた。
近くに大きな大学病院があることは幸いだった。徹底的に検査してもらおう。誠は思った。
「北条さん、正直に申し上げますが、律子さんの脳の一部の血管が、
溢血をおこしています」専門の先生が誠に告げた。「かなり深刻な状態です」
律子は、大学病院の一室で、静かに眠りについている。手術してもらおう。誠は、先生に手術をお願いした。十時間に及ぶ大きな手術だった「北条さん、最善を尽くしましたが、あとは慎重に経過を見守るだけです」執刀医の先生が、誠に言った。
手術後、律子は静かに眠りに就いていた。母親と同じ病気だった。誠は、眠りにつく律子の顔をジッと見つめていた。律子が時々、うわ言で、何か言葉を言ったか、誠には、分からなかった。個室の机には、あの青磁の一輪ざしが置かれてあった。
七日後、律子は、苦しむ様子もなく、静かに息を引き取った。「北条さん、最善を尽くしましたが、誠に残念です」。執刀医の先生が、誠に言った。
「律子… お前は、あまりにも悲しすぎたんじゃないか。お前のために生きようと心に決めたのに、お前は、あまりにも、あまりにも…」誠は泣いていた。人生で、こんなに苦しいことが…
「誠君、泣かないで。わたし、短かったけど、幸せだったのよ」そんな律子のことばが、そっと、誠の耳元に、聞こえたような気がした。
「先生、律子は本当に幸せだったのでしょうか?」誠は吉祥寺のあの庵の密壇の部屋で、先生と向き合っていた。
「北条君、人生には、避けられない苦しみがある。それは愛する者との別れだ。それを愛別離苦という。その苦しみは、人をして、悲しみの淵へと追いやる。しかし、その苦しみを昇華し、他に向ける真実の愛に目覚めた者は、まさに、覚者と言われるのだ。ここで、しっかり祈ってください」
誠は、崩れ落ちそうになる心をおさえて、秘密の真言を唱え始めた。ひとつひとつ、確かめるように唱える真言のスピードが、少しずつ速さを増してゆく。そして、般若心経、観音経へと移った。
観音経を唱え終わったその直後、部屋の全体の景色がゆらゆらと、陽炎のように変化してゆく。密壇を囲む十二神将の屏風の一つ一つの護法神が、くっきりと姿を現し、円陣を組んで誠の周りをまわり始めた。誠の身体から、炎の如く霊気が上がる。十二の護法神が、誠にことばを発する。
「我、大日如来の化身、招杜羅大将なり。諸仏如来のすべての功徳を成就する最高の威神力をもって、汝を彼岸に渡らしめるべし」
「我、釈迦如来の化身、毘羯羅大将なり。涅槃密奥の功徳力をもって、汝を守護すべし」
「我、阿弥陀如来の化身、迷企羅大将なり。西方極楽仏土のすべての諸菩薩・天人の力をもって、汝を悟らしめるべし」
「我、勢至菩薩の化身、伐折羅大将なり。仏界におけるすべての菩薩を従えて、汝を常に外護し給わん」
「我、観音菩薩の化身、安底羅大将なり。勢至菩薩と共に、慈悲の甲冑を身にまとい、真の慈悲を汝に垂れ給わん」
「我、虚空蔵菩薩の化身、珊底羅大将なり。真実の空、虚空の如き穢れなき智慧を汝に授け給わん」
「我、如意輪観音菩薩の化身、頞儞羅大将なり。我が手に持つ如意宝珠をもって、汝の心の穢れを除き給わん」
「我、地蔵菩薩の化身、因達羅大将なり。獄苦代受、即ち、衆生の苦しみを代わりに受けるその誓願をもって、汝の迷いを断ち切らしめるべし」
「我、文殊菩薩の化身、波夷羅大将なり。仏の智慧にも勝る智慧波羅密の力を汝に与え給わん」
「我、普賢菩薩の化身、真達羅大将なり。普くの慈悲の門戸を開き、文殊菩薩と共に、汝を守護すべし」
「我、大威徳明王の化身、摩虎羅大将なり。煩悩の薪を焼き尽くす智慧の炎をもって、自在に汝の菩提心を増長せしむるべし」
「そして、我は、汝自身の化身、宮毘羅大将なり。汝が祈るところ、陰日向、常に汝を守護し、一切衆生に真実の愛、友愛の慈悲を垂れ給わん」
十二神将のすべての護法神が、誠にすべての誓願を告げた瞬間、十二神将は円陣を解いて、即座に誠の身体に吸い込まれていった。
その時、誠は、突如として、深い祈りに入った。
「我、人をして、真実の道を覚知せしめ、もって、一切のよるべとなるべし」
自分とは思えない言葉が、自然に誠の口から発せられる。
先生が見守る。
「ようし、一切衆生の真実仏性を、開顕せしむるべし!」先生が祈りを込める。
誠の身体から発する霊気の炎は勢いを増してゆく。その炎の霊気は、部屋の中だけでは収まらない大きなものとなっていく。
「そこまでよ!」女性の声が天界より響いた。
「律子か!?」誠が我に返る。
「先生、わたしは……」
「そうです。北条君……。いずれ、あなたをして、明らかにするべき時が、やってくるでしょう」
誠は、ジッと、あの天女の舞う、友禅染のハンカチを見つめた。誠、二十七歳の秋、十一月十五日、律子、二十六歳の誕生日だった。
北条君、これからどうされるのですか?」先生が尋ねる。
「はい、律子が亡くなってしまった今、流鐘にいる理由が、もう見つかりません。彼女と、生涯平凡ではあっても、幸せな家庭をそこで築こうと思っていたものですから。それに、友人たちが去ってしまった流鐘は、僕にとっては、あまりにも淋しすぎるのです」誠が答える。
「そうですか」先生が少し淋しそうに言った。
「それでは…」
「はい、実家に戻ろうと考えております。その先はまだ考えていません。先生の仰っていた『あなたをして、あなたを自覚せしめる風景』というものが何なのか、もう一度、確かめに行きたいと思っております」誠に迷いはなかった。
「そうですか。あなたが今密かにお気づきになっている事、あなた自身は、信じられない思いもしているかもしれませんが、あなたにとって、それを確信ならしめることは、私自身も望んでいるところです。その時、それほど時を経ずして、大いなる功徳がこの混迷社会に光をもたらしてくれることでしょう。気をつけてお帰りになってください」
祈り始めてから、長い時間が経っていた。冬も近づき、冷え込みの増した密壇の部屋には、いまだ律子の声の響きと共に、先生と過ごした濃密で長い空気の余韻が漂っていた。青黒の不動明王は、固い岩に座しながらも、誠には、何か涙を流しているようにも感じられた。
「先生、ほんとうにありがとうございました」誠は深々と頭を下げた。
「北条君、本当にご苦労様でした。またあなたに会える日を唯一の楽しみに、私も過ごしていきますよ」先生の眼にも光るものが、ひとすじ、頬ににじんでいた。
誠は吉祥寺の駅に降り立った。これから中央線でまっすぐ東京駅に向かおう。
電車が走り出す。「次は中野、中野です」中野。一度も立ち寄ることはできなかった。誠は思った。彼女の痕跡も、もう中野には何一つない。誠の目に涙がにじんできた。律子。お前は、生涯俺の人生の中で生き続けるんだ。それが、お前が生きた証なんだ。お前の髪も、お前の抜けるような白い肌も、そしてお前の純粋なつぶらな瞳も。
お前を思い出すとき、まるで生きているように、俺の中で生き生きと息をするんだ。なあ、そうだろう。誠は心の中で、律子の名前を何度も呼んだ。「次は終点、東京です」
さあ、帰ろう。お前も一緒に。
「誠さん、おかえりなさい」少し憔悴し切った様子で、母が駅に迎えに来てくれていた。「長旅で疲れたでしょう。ゆっくり休んでちょうだい」母はそれ以上何も言わなかった。
「おふくろ、ありがとう。いつもどんな時も、心から思う通りの道をあゆませてくれたのは、おふくろだけだよ。こうやって迎えに来てくれるのも。人生にはどうしようもないやるせない苦しみがある。でも、まわりを見てごらん。苦しんでいる人はあちこちにいるんだ。明日になんのあてもない生活を余儀なくされている人たちがたくさんいる。食べ物も、着る物も、泊まるところさえもない人たちがたくさんいるんだ。だからどんな苦しいことがあったって、我慢できるじゃないか。そんな人たちの為にも、僕はこれから生きていくつもりなんだ。それがどんな道かは、今はわからないけれど、きっと見つけ出す。そう決めてるんだ」誠は母に心からの感謝の気持ちを込めて、そう言った。
車が青竜川に架かる大橋の上を走る。河川敷一面に、ススキの穂がまるで美しい華のように咲きほこっている。「きれいだね。まるで、
花みたいだ」誠が言った。「そうね、この時期は、いつもこうなのね」母が言った。
律子、見えているか?このきれいな風景が。
「ええ、見えているわよ。私は、ずっと誠君と一緒なんだから。誠君の見るもの、手にするもの、みんなとっても大切に思うのよ」そんな声が誠には聞こえたように思えたが、空耳なのだろう。彼女に対する思いが深すぎるからなんだ、そう思った。
誠は、ありとあらゆる仏教書を読みあさっていた。自分とは何者なのか?自分は他の人とは何か違う存在なのか?ただの普通の一個の人間として生きてきた自分が、先生に会って、不思議に何か覚知し始めた。誠は一つ一つの仏、一つ一つの菩薩を丹念に調べていった。大仏教辞典のあるページに差し掛かった時、誠の目に、ハッとするものが映った。「龍華樹」。誠の目は釘付けになった。釈迦が入滅してから、五十六億七千万年後に、下生して、三会の説法で、釈迦の救いに漏れたすべての衆生を救うという。弥勒菩薩だ。「龍華樹」。
鬱蒼と茂る青竜川の樹々。そこに咲く華のようなススキたち。微妙な一致だ。そして、そこには、「友愛の菩薩」とある。「友愛」これも目にしたものだ。そう、三六中学校での校訓の最後。それは、「友愛」だった。そして、三六を言い換えると、「みろく」
弥勒菩薩だ。すべてがパズルのように一気に組合されてゆく。誠は凝視し続けた。しかし…先生の部屋で、あのような不思議な現象が現れたとしても、自分が弥勒だとは、にわかには信じがたい。しかも、五十六億七千万年後といえば、今の自分が生きている時代とはかけ離れすぎている。しかも、自分は、到底仏になるような器ではないのではないか…
しかし、先生は仰っていたことがある。「私はね、弥勒の下生を!と祈り続けてきたのですよ」と。誠にとっては、さまざまな不思議な一致よりも、今となっては、先生のその言葉が決定的すぎる存在としてずっしりと心に響いてきた。そんなことが…
誠は一ヶ月間、地元の色々な名勝地をまわりながら、ぐるぐると考え続けていた。「そんなことが。いや、でも。いや、でもそんなことが…」
そんな時、急に電話が鳴った。「北条、久しぶりだな」。「福間じゃないか?ほんと久しぶりだな。突然どうしたんだ?」福間は大学時代の同級生だった。「いや、今、知り合いの友達が社会科の先生を探していてな。覚えてるか?山田」。「ああ、覚えてるよ、一度だけ、夜遅く一緒に家に遊びに来たよな?」「そうなんだよ。あいつの父親が東京の学校の教頭をしててな。色々探してるんだけど、経験もあって、若くて、レベルの高い授業をしてくれる適任者がいないんだよ。一応、カトリックの名門の女子校なんだけどな。採用担当は、シスター綿引という方になってる。その方に電話だけでもしてくれないか?」
かなり一方的な電話だったが、誠は了承した。「わかった。ありがとう。しばらくしたら、かけてみるよ」
こんな話が舞い込んでくるとは誠自身、想像だにしていなかった。また東京か。でも、先生ともまた会えるな。まだ決まってもいないのに、誠はそう思った。
二、三日後、誠は、シスター綿引に電話をかけた。
「北条と申します。シスター綿引様のお電話でよろしかったでしょうか?」
「はい、綿引です。北条さんですね。お電話お待ちしておりました。突然ですけれども、北条先生は、何がご専門ですか?」
「はい、世界史です」
「そうですか。その他には、何か教えられるご教科はありますでしょうか?」
「はい、一応、中学、高校と社会科の免許はすべて取得しているものですから、資格的には、すべて可能です。ただ、高校地理と、高校日本史は、専門外です」
「そうですか。実は今、高校経済を教えて下さる方を探しているのですが、経済のほうはいかかがですか?」
「はい、専門ではありませんが、少々復習するお時間をいただければ、幸いです」
「そうですか。それはよかったです。何しろ、名門大学を出てらっしゃることですし、もし、こちらにきていたたければ、幸いです」
「ありがとうございます!」
「今、教科の関係で何かとバタバタしていまして、改めて正式にこちらからご連絡するのは、一ヶ月ほどかかりますが、それで、よろしいですか?」
「はい、大丈夫です。その間に経済の方も、勉強を進めておきます」
「そうですか。大変うれしゅうございます。それでは、追って、ご連絡さしあげます。よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
何か明るい兆しが、誠の脳裏をよぎる。苦しい日々を過ごしてきたが、今は、弥勒であろうと、弥勒でなかろうと、新しい生活に準備を万端にして、新たな生活に一歩を踏み出そう。誠はそう決意した。何より、子供と接することは、誠にとっても喜びであった。
まもなく、シスター綿引から電話があった。
「一応、面接をさせていただいて、それから、新しい学校生活を始めてもらえるようにしていただきたいと思います。試験は免除させていただきます」
教頭の子息の山田は、シスターの父親に、英語の個人授業もしていただいたご縁のある方だ。その山田も、誠のことを推してくれていていたようだった。宗派は違っても、信仰の根付いた高校で、教員として、再出発できることは、誠にとっては、大いな喜びだった。そして、また東京に戻れる。父、母は複雑な心境だったかもしれないが、伝統のある高校での生活が始るということで、売ってしまったツーリングワゴンの替わりに、新しい車を購入した。1800cc。同じ車種の新型ツーリングワゴン。色は変わらず、ブラック。満員電車の二の舞は踏みたくなかった。
誠は中央道をひたすら走っていた。新しい車が、存分にその力を発揮してくれていた。カーブや起伏の多い中央道も難なく乗り過ごし、八王子に入った。律子を乗せたあのツーリングワゴンも売ってしまたが、彼女との思い出を忘れずに心に刻み続けるために、同じ車種を購入したのだった。律子が助手席に乗っているような感覚さえ、誠は感じていた。
東京に入り、誠は新しい新居に最小限の荷物を運び込んだ。明日は面接だ。内定をもらっているだけに、誠に不安はなかった。
面接はスムーズに進んだ。シスター綿引は初年度から教諭として勤務してもらうことを校長に打診していたが、期待とははずれて、講師としての出発だった。それも無理はないのだろう。海のものとも山のものとも分からない一青年を、最初から教諭として採用することは、無理があったに違いない。それでも、専任の教諭ともあまり変わらないほどのコマ数を担当することになった。経済を教えることになっていたが、蓋を開けてみると、中三の公民を担当することになっていた。かなり教えていた経験もあり、むしろ、その方が、誠としては、滑り出しとしては、幸先が良かった。担当する生徒は、180人を超えていた。
その日の夜は、シスター綿引宅にご招待になっていた。遠く地方から来た誠のための歓迎会だった。
「ようこそ、いらっしゃいました」シスターが誠を歓迎した。シスターと会うのはこれで二回目だ。新居の選定の時、色々とお世話してくださった。「校長の名前出しちゃっていいのよ」シスターが言ってくださった通りに、校長の名前を出して、その紹介だと説明すると、不動産の担当者が、恐縮して、最適の物件を紹介してくださったのだった。
「さ、お召し上がりになってください」シスターが誠に言った。季節の山菜をはじめとして、さまざまな新鮮な食材が食卓に所狭しと並べられていた。お手伝いに来てくださっていた社会科の芦屋先生が、手際よく、それらを揚げ物にしてくださった。芦屋先生は、シスターの説明によると、社会科ベテランのシスターの秘蔵っ子らしい。口数は多くはないが、とても気の利くてきぱきとした方だ。緊張するも、楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。
「さ、明日も早いことでしょうし、今日は、ゆっくりお休みください」シスターが誠に言った。最初は緊張していたせいもあり、シスターのお部屋の様子は、はっきりとは見ていなかったが、書籍の戸棚には、ぎっしりと無数の宗教的書籍が並べられている。信仰を持つ者の姿勢は、こうあるべきなのだ。誠は、初めての食事会で、そのことが、とくに印象に残った。勿論、信仰に根ざした、シスターの心細やかな心配り、柔らかな物腰のなかにも、芯の通ったひとつひとつの言葉も心に刻まれたのだった。明日は早いといっても、学校での新人歓迎会は、午前中には終わる。明日は、久しぶりに吉祥寺の先生の所にご挨拶に行こう。誠はそう決めていた。
新人歓迎会は、滞りなく終わった。ひとりひとりの新人の個性あふれる挨拶の言葉には、自然に笑みがこぼれた。さあ、これから吉祥寺だ。
誠は、再び吉祥寺の駅に降り立った。中野を通り過ぎたが、もはや、大きな悲しみは、山を越えたように思った。律子が僕の中に確かに根を張って生きている。誠はそう思った。鬱蒼とした武蔵野の森をゆっくり誠はくぐり抜けた。
「待っていましたよ。北条君」。先生が満面の笑みを浮かべて誠を歓迎してくれた。「あれから随分と長い時間が経ったように思いますが、こうしてまた北条君と顔を合わせることができるのは、本当におおきな喜びです。再び東京に、と祈り続けた甲斐があったかもしれませんね。しかし、カトリックとは、私自身も、想像していませんでしたよ」
「はい、僕も正直信じられない思いでした」誠が言った。
「しかし、カトリックという伝統ある宗教の中に身を置くことも、北条君にとっては、大きな肥やしになるのかもしれませんね。なにしろ、今は、宗教間の対立も顕著になっている時代です。あなたが、そこに身を置くことで、他宗教の教義や、その風土も吸収し、この対立の時代に、融和の世界を思い描く、あるいは、融和の世界をこの世に顕現せしめる、そのような使命が、北条君にはあるような気がしてなりません」先生が、力強く誠に語りかける。
「はい、先生のような大きな理想、崇高な理念を実現できるかどうかわかりませんが、精一杯生徒の将来のために、身を費やそうと思っています」誠が答える。
「そしてね、律子さんがお亡くなりになってから、私も毎日、廻向の祈りを捧げてきたのです。今は、律子さんも本当に救われているような気がしてなりません。北条君の清清しい顔を見ていても、そのように感じざるを得ないのです」先生が言った。
先生は、ここまで僕のことや律子のことを思っていてくださっている。「仏は一切衆生をわが子と見る」と仏典にもあるが、先生のお姿は、まさにそれを現しているようだ。誠は、突き上げる感激とともに、先生を仰ぎ見た。
密壇の部屋には、4月の明るい昼下がりの太陽の光が差し込んでいた。
「先生、これは何でしょう?」誠が先生に尋ねる。十二神将の屏風の脇には、新しい仏像が一体、安置されていた。
「ええ、これは、北条君が東京を離れてから、私が刻んだものです。白檀の観世音菩薩です。一鑿一鑿に、仏に捧げる最高の儀礼、三礼の思いをもって刻んだものです。北条君には、不動明王よりも、菩薩の慈悲のみこころのほうが、深く魂に刻まれるのではないかと思いましてね。北条君と再会できるまでに、刻み終えることができたのも、み仏のお導きだと感じています」先生が嬉しそうに言った。その菩薩のお顔は、まるで律子の面影を映しているかのように誠には感じられた。
初年度の重要な職員会議も一通り終わり、入学式の日を迎えた。校門から続く心臓破りの坂を、初々しい新入生と共に、多くの生徒が必死になってのぼってゆく。別名「大根坂」だ。登校するたびごとに、大根足になってゆく生徒の中から長い間呼び親しまれた名前らしい。
しかし、のぼってゆく生徒の両脇には、校舎の入り口まで、美しいソメイヨシノの木々が薄紅色のトンネルで、生徒達を彩っている。誠は思い出した。初めての目黒川の桜並木を。しかし、新しい息吹を与えられた桜の木々は、その時とは違った新しい生命を宿している。誠の目にも、その桜の美しさは、何か新しい生命の誕生を誠自身の心にも宿してくれているように感じられた。
式が始まり、校歌が歌われてゆく。信仰を基にした格調高い詞と曲だ。そして賛美歌へと移ってゆく。体育館の窓の外に見える白亜のマリア像も、生徒の新しい出発に、あたたかな賛美の眼差しを向けている。光に照らされたマリア像は、太陽の光を反射して、淡い白い光を体育館の式場の中にまで届けている。美しい。誠は賛美歌を聴きながら、ただ無心にそう感じた。
式が終わり、新入生オリエンテーションも一通り終わった。式の三日後、誠の新しい授業が幕を開けた。誠は職員室の横を通り過ぎ、足早に三階へと上っていく。誠の目にカトリックの祈りの言葉が飛び込んできた。
「祈りたいと思うこと、それ自体が祈りなのだ」。誠はしばし足を止めて、その詩を味わった。味わったというより、誠の心に何の違和感もなく、強烈に、そしてストレートにそのことばが入り込んできた。小さな祈りも、それもまた可憐な花の如く美しい祈りなのだ。誠はそう思った。誠が教室のドアを開ける。教壇に立ち、挨拶をしようと思ったその刹那、可愛らしくも、強烈な歓迎が誠を待ち受けていた。「地震だーー!!」教室の机と椅子が、一斉にガタガタと大きな音を立てた。
やれやれ、初めというものは、いつもこうなのかもしれないな。誠は、三六中学での、ひっかかった足の階段幅跳びを急に思い出した。初めが肝心だ。誠はそう思って、ことばを発した。
「みなさん、それが、初めての先生を迎える祝いの歓迎のしきたりですか?この名門の中高に通って、多くを学び、三年目を迎える生徒がやることではありません。それに、この中には、決してこんなことをしたいと思っている生徒だけではないはずです。いやいやながら、この場に参加せざるを得なくなった、他の生徒達の気持ちも考えなさい。このことは、ちゃんと担任の先生に伝えておきますから、主体になった生徒は、覚悟しておくように」。一気に教室が静まり返る。嵐のあとの静けさで、その後は、すんなりと事が運んだ。午後になって、そのクラスの担任の熊谷先生が誠の所にお詫びにきた。「北条先生、本当に申し訳ありませんでした。生徒が、北条先生が何か言ってきませんでしたか?と言って来たものですから、何があったか、はっきり言いなさい!と言ったところ、生徒が白状しました。今後、このようなことがないようにしますので、よろしくお願いいたします」
熊谷先生に言うつもりは全くなかった誠だったが、ほんとうに、まだまだ中学三年生だな、と誠は微笑ましくも、そう思った。
さあ、今日始めての授業も、あとは、今日はCクラスだけだな。誠は、午前中そういうことがあったせいか、多少緊張しながら、再び三階へと上っていった。教室のドアを開ける。何か暖かな雰囲気のある教室だな。誠は直感的にそう思った。
「皆さんの授業を一年間担当することになりました北条といいます。みなさん、よろしくおねがいします。」誠が言った。
「よろしくおねがいしまーす」教室の何人かがそう誠に答えた。
「先生、下のお名前は何とおっしゃるんですか?」生徒が質問する。
「そうだね、それでは、黒板に書きましょう。」板書には、誠は慣れている。さーっと名前を書き、ふりがなをふった。
「誠先生とおっしゃるんですね!北条先生、または、誠先生でもいいですか?」カトリックの質実剛健とした学校風土のなかで育ったとは思えないフランクリーさだ。女子校で、若干27歳の若い男の先生に授業を持ってもらうことも少ないのか、生徒もかなり高揚、あるいは、興奮しているように、誠には感じられた。
「さ、では、早速ですが、授業を始めます。みなさんにとって、公民という授業は初めてでしょうから、今日は、難しい話は抜きにして、『公民って何?』というところからはじめましょうね」誠は優しく言った。
授業も終盤になったが、誠にとっては、特にずっと気になっている子が一人いた。教室の後方、初めから終わりまで、誠の目をずっと離さず、説明にもニコニコした笑顔で、ひとつひとつ頷いてくれている子だった。教壇に立つと、生徒の様子が一目瞭然に分かる。眠そうな生徒、興味があまりなさそうな生徒、やる気に満ちて、真剣に聞こうとしている生徒。様々だが、このクラスは、全体的に志気が高い。誠はそう思った。
「それでは、最後に質問になりますが、えー、後ろの席の前広さん、今日の感想はどうでしたか?」誠は座席表を見ながら、最初から気になっていたあの子に質問した。
「はい、先生の話し方も、お上手ですし、板書もとてもきれいです。公民という科目がどんなものか少しワクワクしていましたが、先生の導入の授業をきいて、ますます興味がもてました。これからしっかり勉強していきます」前広さんが満面の笑顔で答えた。
可愛らしい子だな。誠はそう思った。何かあるとき、必ず助け舟を出してくれるのは、こういう子だ。
誠は社会科研究室に缶詰になっていた。講師採用ということで、職員室ではなく、研究室での仕事となっていた。教材は、オリジナルのものを一からつくらなければならない。名門の女子校ということもあって、公立中学で教える内容よりも、かなりハイレベルな内容の教材を誠は作りあげていた。集中して作っている時が、幸せな時でもあった。若いころは自分では自覚していなかったが、研究肌なのだろう。そんな時、時々研究室の扉が少しだけ開くのだった。
「ああー、いたー!」最初は誰かと思ったが、聞いてみると、高一の仲良し二人組みだった。「先生、いつもここで仕事されてるんですか?」
休み時間になると、時々やってくる。「そうだよ」誠は答えた。「名前はなんていうの?」誠が尋ねた。「はい、私は森田です」「はい、そしてわたしが堀川です」ふたりが漫才のように答える。ひょうきんな子達だ。
「そうなのね、あんまりいたずらしちゃだめよ」誠が言った。「ハーイ、時々また来てもいいですか?私たち、この研究室の隣の教室が、掃除当番なんです」「いいよ。だけど、掃除の時間はだめだよ」「ハーイ!じゃ、失礼しまーす!」
森田に堀川か、これから、「森堀さん」と呼ぼう。誠は、すこし嬉しそうにそう決めた。
第一回テストも終わり、第二回テスト期間に入った。自宅に帰り、持ち帰りの仕事をしている時、急に電話が鳴った。「はい、北条です。」
「北条先生ですか?」「はい、そうですよ」「3年C組の不二田です。今日の授業でちょっと分からない所があってお電話しました」「そうですか」誠は、正直面食らった。というのも、第二回テストが間近になっても、180人のすべての生徒の顔と名前がまだ完全に一致していなかったからだ。「どんな内容かな?」誠は丁寧に質問に答えた。質問の内容からして、かなり成績上位の、頭の良い生徒だということはわかった。「夜分遅く、すみませんでした。ありがとうございました」話し方からするととても控えめな感じの子だ。だから、まだ名前と顔が一致していなかったのだろう。
次の日、翌朝早く出勤した誠は、購買室のジュースを買いに行った。生徒はほとんど登校していない早朝の校舎だ。ジュースを買い終わり、研究室に戻ろうとすると、中3の教室へ上がる階段の踊り場から、二人の女の子の声が聞こえてきた。「ええー!どうして!?ふじちゃん、わたし、北条先生の事好きだって、先にふじちゃんにちゃんと言ってたじゃない!」あの前広さんの声だ。「ふじちゃんとは大親友なんだし、これからずっといっしょにがんばっていきたいの!だから、お願いだから、もう北条先生には電話しないで!」「ごめんね、前ちゃん、わたしも結構先生の事、素敵だなあって思ってて…もう電話しないね。」「ふじちゃん、言い過ぎちゃったけど、これからもずっと仲良しだからね!」「わかったよ、前ちゃん」不二田さんが小さな声で言った。
第二回テストが始まり、職員室は生徒入室禁止となっていた。いつもに増して、校舎は静寂な空気を漂わせていた。テストが終わり、成績が出揃った。誠は少し驚いた。第一回テストでは、4クラスほとんど差がなかった平均点だったが、今回、Cクラスだけが突出していた。前広さんと不二田さんのいるクラスだ。平均点で、他の3クラスを6点以上も上回っている。授業で特別なことをしたという訳でもない。6点といえば、一クラスの合計点で、他のクラスを270点も上回っていることになる。当然、成績上位者も、このクラスに偏っていた。
採点ミスの修正を求めて、研究室に生徒が何人か押し寄せていた。ひとり、ひとり修正し終わり、最後の生徒になった。「はい、次は…」
「はい、私です」前広さんだ。「先生、一点上がります」好成績だったにもかかわらず、一点採点ミスを犯していた。「どれ、見せてごらん。ん、ほんとだね。また一点上がったね。よかったね。ということは、98点…」誠は驚いた。不二田さんと同じ点数だ。しかも、クラスで二人ともトップ。学年では、同点で、上から二番目だった。ほかの生徒は、退出し、前広さんと二人きりになった。前広さんが、何かうつむいている。「どうしたの?」誠が声をかけた。前広さんがブラウスの袖で目頭を拭っている。「先生、私嬉しいです。今まで中一、中二と、こんな点数とったことがないんです。まわりはみんなできる子ばっかりで、正直わたし、落ちこぼれだったんです。いつも、どの教科も50点、60点ばっかりで…だから、第一回テストは、悔しかったです。がんばったのに、80点そこそこしかとれなくて。でも、今回は、もっと、もっと頑張りました」前広さんが少し照れくさそうにクシャクシャになりながら、誠を見つめる。「そうだったんだね。よくがんばったね。先生もうれしいですよ。ありがとう」誠は優しく声をかけた。「でも驚いたな。このクラスだけ他のクラスよりすごく点数が高いんだ。いったいどういうマジックがあるのかな?前広さん」誠には大体予想はついていた。こういうときは、必ずといっていいほど…「はい、先生。実はみんなで頑張って、休み時間になると、公民の問題を出し合いっこして競争したんです。みんな燃えてましたよ」「そうだったんだね」誠は微笑んで、前広さんを見つめた。「それにね、君はクラスでトップ。学年でも上から2番目だったんだよ」「そうだったんですか!先生、ほんとうれしいです!これで、両親にも自慢できます。これからもがんばりますね!」「はい、頑張ってくださ…」
「せんせーい!!私も!先生間違ってたでしょ!もう、4点も上がっちゃいますよ!」元気すぎるほど元気な女の子だ。「あ、あれ、前ちゃんもきてたのね」Aクラスの佐古さんだ。あの最初の授業で「地震」をやらかしたクラスのなかでも、特に元気な女の子だ。「先生、私、がんばりましたよ!」佐古さんが言う。誠は少したじろぎそうになったが、平静を保って、修正し直した。「はい、これで4点上がりましたよ」「もう、先生、私少しびっくりしましたよ。ええ?なんでこんなに点数低いの~って。合ってる所、二つもバツにされてたんだから~。これからちゃんとしてくださいね!」「ごめんね、これからは、ちゃんと間違えないようにしますね」誠が言った。元気そうに見えるこの子も、ちょうど思春期なのだろう。思春期特有の悩みを持っていることは、密かに誠は把握していた。それが何なのか、一講師である以上、事細かに詳しくは分からなかったが、彼女なりに悩みはあるようだった。「前ちゃん、行こ」「先生、ありがとうございました!」二人声をそろえて言った。二人が去っていった研究室は、嵐の後の放課後の静かな余韻が漂っていた。
テストが終わり、通常授業も一通り終わって、夏休みに入った。誠は、頻繁にシスター綿引のご自宅に招待されるようになっていた。
「北条先生、ごめんなさいね。いつもこんなに散らかっていて」シスターが言った。誠には、散らかっているようには見えなかったが、机の上には、また新しい宗教書が数冊並べられていた。「北条先生、改めてですけれど、一学期が終わっていかがでしたか?」「はい、ようやく学校にも慣れてきたところです」誠が言った。「そう、それはよかったわ。急に地方からお呼び出ししたのに、講師からの出発で、本当にごめんなさいね。でも、来年は間違いなく専任だわ。校長もそう思ってくださっているはずよ。講師からこのコマ数を担当してくださっていることですし、授業も見させてもらいましたけれど、たいした腕前だわ。校長にもそう言ってあるのよ。」シスターが確信を込めて、うれしそうにそう言った。「さ、もうすぐ数学の西田先生もお見えになる頃ね」西田先生は、誠と同郷だった。誠より一まわり上の女性の方だ。「失礼いたします」西田先生が、お見えになった。「ご招待いただきまして、まことにありがとございます」西田先生が、シスターに言った。「いいのよ、いいのよ、ま、お座りになって」「失礼いたします」西田先生が恐縮して椅子に座る。「こんなシスターのご自宅にご招待いただくなんて、ほんと、北条先生のおかげだわ。私、何か緊張しちゃって」西田先生が誠に言った。「そんなに緊張しなくたって、いいのよ。今日は、北条先生にしっかり食べてもらうために、お手伝いしていただくわよ」シスターが西田先生に言った。少し前、同じ社会科の谷川先生がおっしゃっていたが、シスターのご自宅にご招待していただけることは、稀すぎることらしい。それなのに、誠は、この一週間に、一日と置かず、招待されていた。谷川先生がいわく、シスター綿引は、次期校長になる方らしい。
「さ、さ、つくりましょ、西田先生。北条先生は、ゆっくりなさって。もしよければ、カトリックの本がほとんどですけれど、お好きなもの、お読みになって」シスターが言った。誠は机の上の本に目をやった。遠藤周作著。初めて目にする本だ。『人生には何ひとつ無駄なものはない』誠は興味深くその本に手をやった。
手作りの豪華な食事が終わり、夜も更けていった。「さ、今日は、お二人とも、急にお呼び出ししちゃって、すみませんでしたね。私は、とても楽しかったわ。西田先生もほんとうにありがとうございました。また北条先生の為にお呼び出しするかもしれませんが、その時は、どうぞ、よろしくね」「はい、恐縮ですが、またよろしくお願いいたします」西田先生が誠に密かにウィンクした。
暑い夏はあっという間に過ぎ去った。その間、シスターの秘蔵っ子、芦屋先生も何度か、誠の為にシスターのご自宅に招待されていた。
その間、シスターは何度も手作りの夕食をご馳走してくださった。まるで、母親のようだ。誠は思った。宗教家というものは、こんなにまでしてくれるものなのか。宗教は違ったが、シスターの姿と、吉祥寺の先生の姿が誠には一つに重なって見えていた。
二学期に入り、恒例の英作文コンテストも終わり、学校は体育祭の本番を迎えていた。まだ残暑の続く抜けるような秋晴れの天気が校庭を包み込んでいた。ひとりひとり先生の名前が紹介されてゆく。恒例の、先生・生徒対抗リレーだ。生徒は50メートル、先生は100メートル走らなければならない。若い男性教諭を中心に足の速い先生がずらりとならんでいる。誠もその中に入っていた。「次は、谷川先生です」生徒のアナウンスが流れる。生徒からざわめきが起こる。「先生、がんばってー!」社会科の谷川先生は、誠より二つ上、人気の先生だ。次は誠の番だった。「次は、北条先生です」アナウンスが流れた瞬間、谷川先生以上のざわめきと声援が、校庭中に響きわたった。「北条先生――!!」「誠先生――!!」「がんばってーー!!」「先生、かっこいいーー!!」誠は驚いた。こんなにまで女子だけの声援を受けるのは、初めてのことだった。いや、高校時代、クラス代表をしていた時、学園祭の折、女子生徒から受けた声援もあったが、その数倍、いや、十倍近い大きな声援だった。保護者席からもざわめきが起こる。そのざわめきは、次の先生が紹介される間もしばらく続いていた。誠は全速力で走った。一人の生徒を抜き、次の生徒に迫っていた。運動部なのか、なかなか足が速い。抜けそうで抜けない。「先生、がんばってーー!!」大きな声援が誠の右側から届けられる。誠は右手を突き上げて、なんとかそれに応えた。
走り終えた誠の元に生徒が群がってきた。「先生、速かったです!」「先生、運動部だったんですか!?」生徒が矢継ぎ早に声をかけてくる。「先生、こけろーって、聞こえました?」中にはこんな質問もあったが、誠は聞こえた振りをして、「もう、あぶなかったな、こけそうになったよ」と、答えた。生徒から笑いが漏れた。
体育祭が終わり、通常授業が始まり、校舎はまた静寂を取り戻していた。二学期最初の第三回テストが終わり、誠の仕事にもますます熱がこもってきていた。来年は専任か。今年中にしっかり学ぶべき所は学んで、本格的な教員生活に備えなければならないな。誠はそう思っていた。季節は晩秋に近づき、誠は、律子のことを思い出していた。11月15日ももうすぐだな。律子、お前も、もうすぐ27歳か。俺も一つまた歳を重ねたよ。誠は心の中で律子に話しかけていた。「早いわね。もうそんなになるのね。こっちじゃ、そっちよりも時間が経つのが遅いのよ。だから、あの時より、私、ほとんど歳をとっていないの」律子の笑顔が誠のまぶたに浮かんだ。
「北条先生、ちょっと来ていただけませんか?」午後の授業も終わり、帰ろうとしていた誠の元に、教頭と、社会科主任でもある谷川先生が、やってきた。誠は、来賓室に案内された。不安がよぎる。
「先生、急にお呼出しして、大変申し訳ありません。急な話ですが、前置きはあえて省かせていただきます。単刀直入に申し上げます。実は、色々な事情が絡んで、来年の先生の専任としての更新ができなくなりました。残念ながら、講師としても、こちらにいていただく事が出来なくなりました。真に申し訳ありません」二人が深々と頭を下げる。「先生は当然ながら、こちらにずっと、とお思いになられていらっしゃったのですよね」教頭が話しかける。教頭は誠が講師として採用されたこの年の4月に、新しい教頭に替わっていた。
前教頭の退職を受けての人事だった。「はい、もちろん、そのつもりで来させていただきました」誠が答える。「そうですか…。実は、以前にも、このような事態を招いてしまった過去がありまして…。ただ、先生の場合は、こちらから請うてお呼出しした事ですし、年を越えて急にお話しするのも大変失礼と思いまして、この早い時期に、お伝えしなければ、と思った次第です。先生の今後の事も考えまして、代わりといっては大変失礼ですが、実は、深い交流のある都内の名門高校に移っていただけないかと思い、内々にその高校に打診した所です。その高校の了承をうけまして、今日、早速に先生にお話し申し上げた次第です。いかがでいらしゃいますでしょうか?」教頭が言った。誠は突然で狼狽しかけたが、スッと、毅然として応えた。「了承いたしました」「ありがとうございます!」二人が再び深々と頭を下げた。「立つ鳥 後を濁さず」97歳で他界した爺の言葉が脳裏をよぎっていた。爺、ありがとう。「北条先生!」教頭が部屋を出た後、谷川先生が誠を呼び止めた。「北条先生、本当に、ありがとうございます!どうなることかと、うろたえていましたが、先生がはっきりと承諾してくださって、ホッとしています。実は、以前にもこのようなことがあり、大変その方ともめた事もありまして…。すみません。これで、安心しました」谷川先生が頭を下げる。「先生、頭を上げてください。僕も、講師として、最後までしっかりとやり抜きます」「そうですか!ありがとうございます!」
シスター綿引と、芦屋先生は、珍しく激高していた。「どういうことですか!?校長!!」芦屋先生が校長に直談判していた。「同じく新しく入った同じ歳の専任の稲山先生より、北条先生のほうが、生徒に対する接し方も、仕事の真面目さも、上じゃないですか!稲山先生を下げて、北条先生を残してください!」シスターに連れられて一緒に来た誠は事の成り行きを見守っていた。シスターも食い下がる。しかし、結果は覆らなかった。
「北条先生、本当に申し訳ありません!間違いなく来年は専任だと思って、高枕でいたわたくしです。どうぞ、お許しください」シスターが、頭を擦りつけ、謝る。その夜、シスターのご自宅に呼ばれた誠だったが、誠自身は冷静だった。「シスター、どうぞ、頭を上げてください」誠が言った。しばらく話し込んだが、誠はゆっくり休みたかった。「それでは、失礼いたします」「北条先生、今日は、どうぞ、ゆっくりお休み下さい。何でしたら、明日は学校をお休みになっても…」「とんでもございません。必ず出勤いたします」誠はそう言って、シスターの自宅を後にした。夜の秋の風に吹かれ、誠は自転車をアパートに向かって走らせた。誠は思い出していた。初めての目黒での教員生活、地元公立での講師生活、律子と共にした予備校生活。そして、このカトリックの高校。この数年間、あまりにも目まぐるしく走り続けた。こんな事が、これからも続くのだろうか…。先生がおっしゃっていたことがある「北条君、人は生まれながらにして、因縁を背負って生まれてくるのです。それは運命とも、言い得られましょう。良い因縁もあれば、悪い因縁もある。人はさながらに知らずして、その運命に左右されるものなのです」
先生、私の命は、どこに運ぶべきものなのでしょうか?誠は吉祥寺の空に向かって、問いかけていた。
週末、一つの思いの元に、誠は吉祥寺に向かっていた。先生にご指導を仰ごう。先生は事の成り行きを見透していらっしゃったのか、真剣な面持ちで、誠を庵に迎え入れた。
「そうでしたか…。そのような事があったのですね。シスター綿引、その方はすばらしい方だ。師としてこれから仰いでいかれても、良いでしょう。しかし…」先生がことばを詰まらせる。「しかし、律子さんも、お母さまと同じ病気で亡くなられた。それも一つの因縁なのかもしれません。そして、北条君、あなたの中に、律子さんは今も生き続けている。それも、宿命と申しましょうか…。そのような運命が、過去世からあったのかもしれません」先生が今度ははっきりと言った。「先生、僕は一つの思いを決めてこちらに伺いました」「おおよその事は、察しがついていますよ、北条君」
「はい、これから、どこかは分かりませんが、仏道の道に出家として身を投じたいと思っています」誠が先生に言った。「そうですか。そちらにあなたの『命』を『運』ぶのですね」。先生が真剣な眼差しで、まっすぐに誠を見つめ返した。煩悩を断ち切る不動明王の智慧の利剣が、キラリと光ったように誠には感じられた。観音菩薩の慈悲あふれるお顔は、まるで律子が微笑んでいるかのように誠には感じられた。
「先生、僕は、出家すると申し上げましたが、ほんとうでしたら、先生の弟子となって、一心に修行したい気持ちもあります。しかし、先生も以前おっしゃっていました。私にはその資格がないのです、と。先生と出会って、自分が仏教的修行を身に行じるべき運命があるのではないかと思うにいたりましたが、先生、自分は、どこに縁を結ぶべきか、まだ見当がつきません。しかし、なにか、密教的寺院において、秘密の修行を重ねるのが適しているのではないかと、先生のお導きによって、思うようになりました」誠が先生に言った。
「そうですか、それが適している、というより、密教は仏教においても、最高峰の教えでありますから、それがよいかもしれません。
だだ、前にも申し上げたとおり、私は自ら自分のお山を下りた身です。そこでの修行は難しいと思います。ただ、京都に、親交のあるお山がありますから、そこに、なんとしてでも、道をつけさせていただきますよ」先生が言った。
「先生、ありがとうございます!」誠が深々と頭を下げた。
月曜日、誠は、教頭と谷川先生に、紹介していただいた高校の話を謝辞し、この学校の勤務が終えたら、出家して、仏道の道に入ることを伝えた。先方の学校にも内々に承諾を得ていただけに、谷川先生のお口添えもあり、誠は「一身上の都合」ということで、その話を謝辞する文書を送った。
誠は、シスターのご自宅に伺い、今後のことについて、短く端的に説明申し上げた。「やっぱりそうだったのですね。最初にお会いした時から、何らかの深い信仰をお持ちではないのかと、お察し申しあげていましたが…そのような道に…」帰り際、入り口のドアを開けて、シスターのご自宅を後にしようとした時、突然、大きな声でシスターが誠の後ろから声をかけた。必死の思いが伝わってくる。
「北条先生、カトリックの神父さんになっていただけませんか!!」
シスターがたびたびご自宅に呼んでくださったことも、まるで息子のように接してくださったことも、誠は感謝していた。あるいは、最初からそのようなお気持ちがあったのかもしれない。しかし、誠の気持ちは変わらなかった。「シスター、すみません。深く考えて下した結論なものですから。しかし、シスターのお気持ちは、深く心にとどめて、それも糧として、これからすごしていきたいと思います」誠は言った。
誠は思った。もし、先生より先に、シスターと出会っていたら、神父になっていたのではないかと。それほど深くシスターと、カトリックの信仰の素晴らしさに、心うたれた日々だった。
例年になく厳しい冬を迎え、3年ぶりに都内では、数センチの積雪を記録していた。冷え切った校舎に静寂な時間が流れていった。
高校ではセンター試験も終わり、自由登校となっていた。2月にはいり、中学最後の第5回テストを間近に控え、構内は少しざわめいているように誠には感じられた。聖バレンタイン。生徒にとっても楽しみのひと時だ。
2月14日、Aクラスの授業を終え、教室を後にしようとした誠の元に、一人の女子生徒が走りよってきた。佐古さんだ。「先生、これ!」
サッと手渡し、照れるように、足早に教室に戻っていった。研究室には、放課後、前広さんが訪れていた。「先生、がんばって作りました!食べてください!」「ありがとう。大切に食べさせてもらうよ」誠が言った。その他にも照れるように渡してくれた生徒もいた。
佐古さんか。彼女もやっぱり、女の子らしい女の子なんだな。帰宅した誠は、大切にハートのリボンをほどいた。中には、大きなピンクのハートのチョコレート。そして、前広さんは、チョコパウダーにまぶした小ぶりの数種類のチョコを、ひとつひとつ丁寧に花柄のラップに包んでくれていた。誠は感謝の気持ちを込めて、大切に食べた。ホワイトデーには何かお返しをしなければいけないな。この高校も最後になる。少し値のはるものを贈ろう。まことは、そう決めていた。
テストが終わり、生徒の最終的な一年間の成績が出揃った。前広さんはじめ、佐古さん、不二田さんは、学年でも、成績上位者となっていた。3月14日、誠は、プレゼントしてくれたひとりひとりに、高価なボールペンをプレゼントした。誠もお気に入りのCROSSの銀色のボールペンだった。一つ一つの箱の中に誠は、感謝の気持ちをこめて、言葉を添えた。前広さんには、affectionという言葉を贈った。「愛着、愛情」という意味だった。まだ中学3年生には分からない単語だった。
一年間も本当に早かったな。誠はそう思った。今日で最後の授業か。最後の授業に、まことは、「世界の宗教」と題して、キリスト教、イスラム教、儒教、そして、仏教の4つを用意していた。自ずと、仏教には力がはいった。
「お釈迦様は、この世は苦に満ちているとおっしゃいました。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、そして、死の苦しみです。そして、それに加え、憎むものと出会わなければならない苦しみ、求めるものが得られない苦しみ、物事がおもいどおりにいかない苦しみ、そして、「愛別離苦」、愛する者と別れなければならない苦しみです。この生老病死の四つと、残りの四つを合わせて、四苦八苦とします。四苦八苦という言葉は、仏教から由来している言葉です。しかし、人は、真実の信仰を持つことによって、それを乗り越えることが出来る。先生は、そう思っています」誠は、熱を込めて、滔々と語った。
誠は最後に、自分がこの学校を去り、出家の道に進むことも生徒に伝えた。生徒達から、どよめきがおこる。学年最後のアンケートには様々な生徒の感謝と驚きの声が満ちていた。
中学卒業式が終わり、下級生からの花束を持った生徒達が、白亜のマリア像の前に、先生への感謝をこめて、ずらりと並んでいた。誠が、その前を進んでゆく「先生!」佐古さんだ。「先生!!」佐古さんが泣き崩れて、誠の前にしゃがみこんだ。「先生、先生きっと今年は、テニスの顧問になってくれる思って、私、テニス部に入ったのに!なんでー!!」佐古さんがすすり泣く。「先生、わたし、これいらないから、先生にあげる!」佐古さんが、花束を誠に渡した。「ごめんね、佐古さん、さあ、立って」誠はそう言って、手を差し伸べることしかできなかった。前広さん、不二田さん、その他の生徒が、写真撮影をもとめて、駆け寄ってきた。「先生、記念に!」そういって、皆精一杯の笑顔を振りまいてくれた。
自宅に帰った誠は今後の事を考えて、祈りに集中していた。そんな時、急に電話が鳴った。「先生、わたしです」聞き覚えのある声だ。「前広さん!?」「はい」前広さんが小声で言った。「先生にどうしても、もう一度会いたくて、お電話しました。こんなこと、校則でもだめだってわかっているけど、もう一度だけ、直接会って、お話したいんです!おねがいします!」
彼女には、この一年間、どれだけ助けられたかしれない。やんちゃな生徒の間にも割って入ってくれた。そして、一番といっていいほど、誠に対する思いが深かった子だ。「わかりましたよ」誠が言った。
彼女の自宅は国分寺だ。「昭和公園はどうかな?」「はい、わかりまいした。ありがとうございます!」
学校も春休みを迎え、誠は前広さんと、昭和公園の目立たない木陰のベンチに並んで座っていた。「先生、プレゼントのお返しの中にあった、affectionって、調べてみました。「愛情」って意味なんですね。先生、嬉しかったです。先生の為に、M.Hのイニシャルの入った飾り腕輪買ってきました。受け取ってください!」「前広さん、ありがとう」前広さんが、泣いている。「先生、先生に最後に言わせてください」前広さんが少し震えている。「先生、わたし、先生のことが好きでした!」前広さんが告白する。「そうだったんだね。ありがとう」「先生、先生と別れるのが、ほんとに辛いです!先生、愛別離苦って、こんなに苦しいものなんですね」
誠は思った。こんな小さな少女にも、そんな深い事が、彼女なりに分かるものなのか。でも、彼女の情熱的であっても、淡い恋心は、大人になるにつれて薄れていくだろう。誠はそう思って声をかけた。
「さ、これが最後の別れじゃないよ。いつかまた会える日も、やってくるかもしれない。さ、泣かないで」誠は、律子からもらった友禅染のハンカチで、前広さんの涙を拭った。
「北条先生!」春休みの校舎で最後の片付けをしていた誠の元に、二学期以降になってから知り合い、良くして下さった、国語の上原先生がやってきた。「先生にご案内したいところがあります。どうぞ、いらしてください」上原先生が五階の音楽室に案内してくれた。美しい3月の光が、教室中いっぱいに注がれている。
「どうぞ、これを聴いてください」流麗な旋律のショパンのノクターンが演奏されてゆく。誠は、夜の枕に頭をもたげるかのように、静かに聴き入った。「さあ、これで、先生とも一時のお別れです。お礼といってはなんですが、このお手紙も」上原先生が、モノトーンのショパンの顔の図柄が入った封筒を誠に渡してくれた。
西の都へ 旅立つ友の 貴き志に
吾も近づかむ 感謝とともに
別れにし 春のなごりは 尽きねども
君が行く手に 光満ちなむ
長文の手紙に、短歌が二句添えられていた。ありがとうございます、上原先生。誠は感謝と共に、その手紙をカバンにしまった。
「北条先生!」帰り際、シスターが修道院の入り口で待ってくれていた。「少しはお時間がおありになるのでしょう?どうぞ、中へ」誠は誘われるままに、修道院の中へと踏み入った。祈りに満ちた修道院の清らかな霊気が誠の身体に染み渡っていった。誠は修道院の屋上へ案内された。「ここから見える都内の景色は最高なのよ」シスターが言った。「そしてね、この鐘なんですけれど、何年も鳴らしていないの。北条先生のこれからの前途のお祝いに、鳴らさせていただきましょう」古い古い鐘だ。戦後、復興の鐘として、また信仰の鐘として鳴らされてきたものだ。鐘が厳かに、しかし、高い響きをもって、光に照らされた修道院の朱色の屋根の空へと響き渡った。
誠は愛車のツーリングワゴンを実家に残し、京都に向かっていた。静かに祈りの中に先生の手紙を読む。「北条君、いよいよですね。あなたの真実の祈りをもって、この世に、光溢れる曼荼羅世界を現出せしめてください」先生、ありがとうございます!誠は、しっかりとその手紙を両手の中に握りしめた。
誠は、深き深山の大いなる山門をくぐりぬけた。律子、生涯かかるか、何年かかるかわからないけど、お前と一緒に新しい一歩を踏み出したよ。
「誠さん、よかったわね。私は、いつもあなたと一緒よ。私もあなたと出会って、真実の愛に目覚めたの。私は、ずっと、ずっと、誠君のそばにいるからね」律子のはっきりとした声が誠の心耳に響いてきた。深山は新緑の季節を迎えていた。