6-3
場の雰囲気を変えるかのように、灰色の髪の少年が冷めた紅茶を下げ、新しい紅茶をリーゼロッテの前のテーブルへと差し出した。
「よろしければどうぞ」
琥珀色の目を細めてリーゼロッテに笑みを残すと、少年はそのままテーブルの端をみやり、何かを目で追うように視線を彷徨わせた。
テーブルの端から真ん中を通りすぎて、リーゼロッテに提供したティーカップのあたりで、視線が一度止まる。そして、またリーゼロッテの顔をみやった。かと思うと、またカップに視線を戻す。
リーゼロッテもつられて少年の目線の先を追うが、とくに虫など何かがいる様子も見えなかった。
「ときにリーゼロッテ嬢」
ハインリヒの声に、リーゼロッテははっと顔を上げる。
「そこにいるソレは、見えているかい?」
先ほどと打って変わって、明るい口調で問われた。そこにいるソレ、と王子が手袋をはめた指先で指し示した先にあるのは、くだんのティーカップであった。淹れたての紅茶が、湯気を立てている。
「そこには、紅茶がございます」
ティーカップを見つめながら、リーゼロッテはそう答えた。遠慮せずに、飲めということだろうか?
戸惑いつつもリーゼロッテが手を伸ばそうとしたとき、誰も触れていないカップがかちりと鳴って、紅い水面に波紋が広がった。
がしっ
頭頂部に衝撃を受けたリーゼロッテは、隣で沈黙を守っていたジークヴァルトに、いきなり頭を鷲掴みにされていた。ぶわっと、胸のあざが熱を持つ。そう感じた矢先、リーゼロッテの眼前が一変した。
「!!」
目の前で芳しく湯気をあげているティーカップの周りに、何か異形の、あまり見目よろしくない小人のようなものが、わさわさとうごめいていた。紅茶の入ったカップの縁にしがみつき、がちゃがちゃとカップをゆらしている。
「んふやっ」
よくわからない声をあげて、リーゼロッテは反射的に、横にいたジークヴァルトにしがみついた。見ると、スカートの裾にも異形の者がまとわりついて、その醜い小さな手で裾先をつかんで引っ張ろうとしている。
さっと裾をひき、令嬢のたしなみも忘れてリーゼロッテは、両足をソファにのせ、いわゆる体育座りの格好でジークヴァルトに身を寄せた。震える手で騎士服をぎゅっとつかむ。
見ようによっては、ちょこんと座るリーゼロッテを、ジークヴァルトが頭から包み込むように大事に守っているようにも見えた。その大きな手がリーゼロッテの頭頂部を鷲掴んでさえなければの話だが。
「ななな、なんですの、あれは」
涙目でかたかたと震えるリーゼロッテを見て、灰色の髪の少年が、突如ぷっと噴き出した。
「リーゼロッテ嬢、まじで視えてなかったんだ! そんだけ力持ってんのに、何も視えてないなんて、すんげー、宝の持ち腐れ!」
そのあとは大爆笑だった。
まじであり得ないとか、かえってそんけーするとか、今までよく無事だったなとか、なんだか言いたい放題にされている。琥珀色の瞳に涙まで浮かべて腹を抱えて笑っている彼の頭を、ハインリヒ王子が、背後から小気味よくはたき落とした。
「カイ、いくら何でも笑いすぎだ」
そう言った王子の口元も、笑いをこらえるかのように歪んでいるのを、リーゼロッテは見逃さなかった。肩をふるふると震わせ、口元に手を当てて、ふすりと息が漏れるのを必死にこらえている。
「ひどい」
涙目になって思わずぽつりと漏らしてしまう。それをとがめるでもなくハインリヒ王子はリーゼロッテに続けて言った。
「ふ、大丈夫。その首に下げた石があれば、ぷっ、小鬼はそうそう、はっ、寄ってはこられないからっ」
途中途中に、変な息をはさむハインリヒに、そんなにおかしいなら遠慮なく笑えばいいのにと、恨みがましく思ったリーゼロッテだった。
ひとしきり笑った後、カイと呼ばれた灰色の髪の少年が口を開いた。
「その守り石はジークヴァルト様のですよねー。さすがだなー、オレ、こんなにキレーに力込められないですもん」
リーゼロッテの胸元のペンダントをのぞき込むようにまじまじと見る。
「とにかく、守り石は肌身離さず身に着けておいた方がよさそうだな」
「いや、これは、オレが子供の時に作ったできそこないだ。ないよりはましだろうが」
ハインリヒの言葉にジークヴァルトが即座に返した。
「え? これはジークフリート様からいただいたのです」
リーゼロッテが驚いたように顔を向けると、ジークヴァルトは一瞬、怪訝な顔をした。
しかし、あの日、自分が作ったものを父親であるジークフリートが手渡したのだから、リーゼロッテの言うことが間違っているわけではない。
そう結論づけると「ああ、そうだな」とだけ答えて、特に否定はしなかった。
(え? 何? ……もしかしてこのペンダントはジークヴァルト様からのプレゼントだったの……?)
否定されなかったものの、リーゼロッテは逆に混乱していた。
「ダーミッシュ嬢、どうしてあれを身につけて来なかった?」
先ほどした質問を、ジークヴァルトが再び問うた。
ジークヴァルトから贈られた首飾りと耳飾りには、大ぶりの青い石がついているとエラが言っていた。
よくはわからないが、それはきっとこのペンダントと同じように、ジークヴァルトが力を込めた守り石と言われるものだったのかもしれない。
ぐっと言葉に困ったリーゼロッテは、しばらく逡巡したのち、心を決めた。今さら隠しても仕方がない。
「あの、実はわたくし、初めてお会したときからジークヴァルト様のことが……」
何やら愛の告白がはじまりそうな台詞だが、リーゼロッテの口からそんなものが紡がれるはずもなく――
「黒いモヤモヤをまとう魔王に見えて、とっても恐ろしかったのです! いただいた贈り物の何もかも、怖くて触れることも見ることもかないませんでしたっ」
一気に捲したてたリーゼロッテのその言葉に、部屋がしん、と静まり返る。
「り、リーゼロッテ嬢、予想外すぎてオレ、もうムリっ」
その沈黙を破ったのは、やはりカイの大爆笑であった。
「……ああ、もしかしたら、周りにいる小鬼の波動に同調して、ヴァルトの力に恐怖を感じてしまっていたのかもしれないね」
ハインリヒがそう言った横で、カイはいまだに腹を抱えて身をよじらせている。そんなカイをあきれたように一瞥してから、「お前はいい加減笑いすぎだ」とハインリヒはもう一度カイの頭を軽くはたき落とした。
「ときにリーゼロッテ嬢、今はどう思っているの? ……ヴァルトは怖い?」
ハインリヒの問いに、リーゼロッテはきょとんとする。いまだジークヴァルトの腕の中にいたリーゼロッテは、上目遣いでジークヴァルトの青い瞳をじっとみつめた。
「ジークヴァルト様は、とっても綺麗です」
――それこそ、この守り石のように。
リーゼロッテは答えになっているようでなってないような、そんな言葉を返す。無言で見つめ合っているふたりに、ハインリヒがわざとらしく咳ばらいをした。
「それ以上はふたりきりの時にやってくれ」
意味不明なことを言われ、リーゼロッテは訝し気に小さく首をかしげた。