21-5
「あの、ヴァルト様。わたくしもう大丈夫です」
そう言って立ち上がろうとすると、じっと見下ろしていたジークヴァルトが、リーゼロッテの頬に手を添えた。そのまま親指ですいと下唇をなぞり、リーゼロッテの唇に残っていたチョコをぬぐい取った。
一瞬何が起きたかわからずに、リーゼロッテは指の感覚が残る唇をかすかにふるわせた。ジークヴァルトの親指につく、ぬぐい取られたチョコを凝視する。
ジークヴァルトはなぞった親指の腹を、先ほど同じようにぺろりと舐め、「やはり甘いな」とつぶやいた。
「――……っ!」
たまらずリーゼロッテはジークヴァルトの膝からはじかれるように立ち上がった。動揺で顔が赤くなっているのが自分でもわかる。
勢いよく立ち上がりすぎて後ろに倒れそうになったリーゼロッテは、ジークヴァルトに手と腰をつかまれてぐいと引き寄せられた。
「急に立つな」
下からくぐもったようなジークヴァルトの声がする。気づくとリーゼロッテは、膝立ちのままジークヴァルトのあぐらの上に乗り上げて、その頭を抱え込むようにしがみついていた。
(ぐはっ、余計恥ずかしい格好になっているっ)
慌てて手を放して離れようとするが、ジークヴァルトの腕が腰に回されていて身動きが取れない。リーゼロッテは背中を反らせた姿勢で、仕方なしに距離が取れるようジークヴァルトの肩に手を置いた。
「あの、ヴァルト様……わたくしもう大丈夫ですので離してくださいませんか?」
「大丈夫のようには見えないが」
赤くなったままの顔でジークヴァルトを見下ろしながら言うと上目遣いで返された。
意味も分からず心臓の鼓動がドクドクと音を立てている。ジークヴァルトを真上から見下ろすなど、今までにない貴重なアングルだが、この姿勢は耐えられそうになかった。
「先ほどよろけたのは、土に足が取られただけです。ですからもう問題ないですわ」
リーゼロッテが動揺を隠してそう言うと、ジークヴァルトはリーゼロッテの背後を覗き込むようにして、膝立ちになっているリーゼロッテの足先を見た。
普段はドレスで隠れている足がくるぶしから先だけスカートの裾から覗いており、ヒールのある靴が土で汚れているのが目に入る。
何を思ったのかジークヴァルトは座った姿勢のまま、リーゼロッテの背中を支えて膝裏をもう片方の腕ですくいあげた。
「ひゃっ」とリーゼロッテから再び淑女にあるまじき声が出た。
気づくとリーゼロッテは横抱きにされた状態で、ジークヴァルトの膝の上にいた。つまるところ、初めの体勢に戻っただけだ。
次にジークヴァルトは腕を伸ばして、リーゼロッテの片足から靴を脱がせた。薄い靴下は履いていたが、足先に風があたりすうっとした解放感を感じる。
「小さいな」
リーゼロッテの靴を手にそうつぶやくと、ジークヴァルトは靴についた土を取り出した布切れでさっと掃った。そして、自分の手のひらをリーゼロッテの足に添えると、それをもう一度リーゼロッテの足に丁寧に履かせた。すかさずもう片方の靴も脱がせて、土を掃ってから同じように履かせていった。
(おかん……おかんなんだわ)
ジークヴァルトの一連の動作をぽかんと見守っていたリーゼロッテは、突如そんなことを思った。
ジークヴァルトはまったくもって自分のことを女として見ていないのだ。これはもう疑いようがない。
突拍子もなく思えるジークヴァルトのこういった行動は、まぎれもなく子供に対するそれなのだ。子供の口にチョコがついていたら、それはぬぐってあげたくなるだろう。靴に泥がついていたら、きれいにするのも当然だ。
(――だって、おかんなのだもの)
人の言うことを全く聞かない暴挙っぷりは、八郎の母ちゃんばりだ。よく言って、母性本能溢れる保父さんだろうか?
こんな無表情で威圧しまくる保育士がいたら空恐ろしいような気もするが、リーゼロッテにしてみれば、小鬼に憑かれていたときに見えた黒いモヤを思えば可愛いものである。
ジークヴァルトは、ただ過保護で世話好きなのだ。そう思えば腹も立たない。その結論に至ると、いちいち動揺するのが馬鹿らしくなって、リーゼロッテはその体からふっと力を抜いた。




