5-2
◇
王妃の離宮を出て、迷うことなく王城内を進む。
王太子用の執務室横の応接室にたどり着くと、ジークヴァルトは、リーゼロッテを抱き上げたまま、器用にその扉を開けた。
一人がけのソファに、抱えていたリーゼロッテをそっと下す。ぽすん、とソファに収まったリーゼロッテだったが、まだぼんやりとしている様子だった。
ふいに、リーゼロッテのおなかが、くぅ~きゅるると可愛らしい音をたてた。
(力を使うと確かに腹が減る)
子供のころに覚えのある感覚に思い当たると、ジークヴァルトは、テーブルの上に置いてあった菓子の中から、クッキーを一枚、手に取った。それをいまだ放心状態のリーゼロッテの口元にもっていこうとして、ジークヴァルトはその手を一度止めた。
ぽきりとクッキーを半分に割って小さくする。割ったクッキーをリーゼロッテの口元に差し入れると、小さな口の中にするするとクッキーが入っていった。
しばらくもくもくと口を動かしていたリーゼロッテは、クッキーが口の中になくなったのか、動きをぴたりと止めた。再びクッキーを差し入れる。
もくもくもくもく
けんめいにクッキーを食むリーゼロッテを、リスか何か小動物のようだとジークヴァルトはじっとながめていた。
リーゼロッテからの手紙には食べ物の事ばかり書いてあったので、ジークヴァルトは何となく、食べることが好きな、どちらかというと、ふくよかな令嬢になっていると勝手に想像していた自分に気づく。
最近では、形式ばった手紙しかよこさないので、彼女も大人になったのだろうと思っていたのだが。今、目の前にいるのは、痩せっぽちの小さな令嬢だった。
先ほど背負っていた異形の数を見ると、常に力を消費していたということか。だとしたら、さっさと浄化してしまえばいい。
彼女なら、そのくらいの力を持っているはずだ。それなのに、なぜあんなになるまで、放置していたのだろうか?
ジークヴァルトは自分の婚約者にまつわる噂話を、それほど気には留めていなかった。
だが、あの『悪魔の令嬢』という不可解なふたつ名は、おそらく異形の姿が見える者が言い出したのだろう。確かに、あの姿を目撃したなら、そう呼ばれても無理からぬことであった。
(――不手際だ)
言い訳のしようもない。
リーゼロッテが十五歳になるまで、不測の事態以外は一切接触しないよう、ラウエンシュタイン家から条件が出されていた。だが、それでも調べようはあったはずだ。ジークヴァルトは無意識に舌打ちをした。
皿の上のクッキーが半分ほどなくなったころ、呆けていたリーゼロッテがふいに視線を上げた。
うすぼんやりした意識のリーゼロッテの目の前には、自分の唇にクッキーを押し付けている、無表情の黒髪の騎士がいた。青い瞳と視線が合う。
「じーくヴぁると、さま……?」
緑の瞳を見開いて、リーゼロッテは不思議そうに、こてん、と首をかしげた。
手に持っていたクッキーを皿に戻すと、ジークヴァルトは小さな顎を片手ですくい、リーゼロッテを上向かせた。
「それでお前は、どうしてそんなことになったのだ?」
覆いかぶさるようにリーゼロッテを一人がけのソファに閉じ込めて、ジークヴァルトは背筋が凍りそうな魔王の笑みを、その口元に浮かべた。
「どう、して、そんなこと、に、なったの、だ……?」
状況が把握できないリーゼロッテは、ジークヴァルトの言葉をそのままオウム返しにした。
「それに、あれはどうした? 身に着けるように言ったはずだ」
「あれ……でございますか……?」
「先日、首飾りを贈っただろう」
そう言われて、いつか送られてきた、首飾りと耳飾りのことだと思い当たる。
「申し訳ございません……高価なものに、その、とても気後れをしてしまって……」
理由は違ったが、気後れしたのは確かである。意識がずいぶんとはっきりしてきたリーゼロッテは、今なぜ、こんな状況になっているのか、皆目見当がつかなかった。
(ここはどこなの? どうしてジークヴァルト様が? それにお茶会はどうなったの……?)
先ほどまで、王妃の庭園にいたはずだった。黒いモヤを纏ったジークヴァルトに腕をつかまれたところまでは覚えている。
(この方が、ジークヴァルト様……なのよね。お顔も、ジークフリート様に似ているし……)
記憶の中のジークヴァルトは、まだ子供で、黒いモヤのかかった得体のしれないものだった。想像が膨らんで、リーゼロッテにとっては恐怖の大魔王のような存在となっていたのだが。
今、目の前にいるジークヴァルトは、黒い笑みを浮かべているものの、整った顔の普通の青年に見えた。
「しかも、随分と懐かしいものをつけている」
不意にジークヴァルトがリーゼロッテの胸元のペンダントを掴んで引きよせた。
「ぁふっ」
胸元にジークヴァルトの指がわずかに触れて、リーゼロッテの口から変な声がとびだした。
ジークヴァルトはそのままの流れで、ペンダントの石に唇を寄せていく。ペンダントの鎖はそれほど長くはないため、ジークヴァルトの黒髪が、リーゼロッテの頬や首筋、鎖骨のあたりをくすぐった。
整髪料か何かだろうか? ジークヴァルトのなでつけられた髪からふわりと香りが立つ。義父とも義弟とも違う男性的な匂いにリーゼロッテの心臓がどきりとはねた。
逃れようと身をよじったリーゼロッテは、バランスを崩してジークヴァルトのつむじにキスをおとしそうになる。とっさにジークヴァルトの肩をつかみ、つっぱるようにして距離を取った。ペンダントを掴まれているので、わずかな距離しか開かなかったが。
石に唇をよせているジークヴァルトの吐息が、リーゼロッテの鎖骨の真ん中あたりにあたる。
(近いです! 近いです! 近すぎます! 魔王様!!!)
心の叫びは絶叫に近かったが、実際には、はくはくと浅い呼吸をくりかえすので精一杯だった。
胸の真ん中が熱を帯びて熱くなる。ジークヴァルトに腕をつかまれたときに感じた、あの熱だ。
ジークヴァルトが顔を上げペンダントから手を離すと、ころんと石が、リーゼロッテのデコルテに転がった。見やると、そこには、青色の石がさん然と輝いていた。
たゆとうように、石の中の青がゆらめく。
「綺麗……」
青銅色だったペンダントの石は、幼い頃ジークフリートにもらったときのように澄みきった青色に輝き、くすんでいた濁りが消えていた。
無意識に、リーゼロッテがその石に手を伸ばそうとした瞬間――ジークヴァルトの人差し指が、つい、とリーゼロッテのデコルテをさまよい、それからパステルグリーンのドレスの襟元をぐいと下に押し下げた。
年頃の娘がちょっと頑張ってみた、という程度に胸があいたエラ力作のリメイクドレスであったが、ジークヴァルトの指によって、リーゼロッテのささやかな胸の谷間の部分があらわになる。
リーゼロッテのその場所には、生まれついたときからある、文様のようなあざがあった。ジークヴァルトは、そのあざをなぞるようにその人差し指を滑らせた。
驚きのあまり、リーゼロッテは声を出すことすらできずに固まっている。ジークヴァルトは胸元に頭をうずめ、そのあざに唇をよせていった。
スローモーションのように感じて、リーゼロッテはその動きを目で追った。ジークヴァルトの唇が、直接肌に触れる。温かい吐息を一瞬感じたかと思うと、あざを中心におびた熱が強くなる。
「ふ、ぁ」
声にならない声がリーゼロッテの口から漏れる。リーゼロッテは知らぬ間に、ジークヴァルトの頭を抱え込むようにしがみついていた。
一瞬とも永遠とも思えるような時間が過ぎて、ジークヴァルトはゆっくりと顔を上げた。
紅潮した頬で息を弾ませているリーゼロッテは、脱力して椅子の背もたれにもたれかかったままだ。押し下げた襟足をそっと戻すと、ジークヴァルトはその身を起こして立ち上がった。
「だいたいのことは把握した」
そう言うと、ジークヴァルトはリーゼロッテを見下ろした。
「お前、しばらくオレのそばを離れるな」
無表情でそう告げたジークヴァルトに、リーゼロッテは力なくその視線だけを返した。
「……このまま家には帰さない」
そう言うとジークヴァルトは、クッキーをひとかけら手に取り、再びリーゼロッテの口に押し込んだ。
「覚悟はいいな?」
(ちょ、それ、悪役のセリフですよ、魔王様!!!)
クッキーを詰め込まれた口の中で、リーゼロッテは声にならない悲鳴を上げたのだった。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。異世界令嬢業も楽じゃない! 魔王様に拉致られたと思ったら、今度は王子の尋問がはじまって? ドジっ娘令嬢の秘密がついに明らかになる!?
次回、第6話「龍の託宣」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!