第1話 花冠の歌
謎満ちた小国ブラオエルシュタイン。
山脈が拒みしこの国は、龍の守護により他国の侵攻をも撥ね退け続けてきた。
今ここに剥がれ落ちた鱗が一枚、静かな水面に波紋を落とす。その揺らぎに誘われるまま、目覚めゆくのは神の裁きか、誰がための欲望か。
鳥の籠が壊されるとき、十理の秘文が白日の下に晒される。
ここに映すのは、龍に試されし者たちの名もなき愛の物語――
眼下に深く広がる渓谷の合間に、立ち込めた雲海が渦巻きながら流れていく。
幻想的なその景色を、ジークヴァルトに支えられた馬上からリーゼロッテはじっと眺めていた。
崖沿いの曲りくねった道はあちこち岩が覗き、徐々に先細りしていっている。足場の悪さに乗る馬も歩きづらそうだ。
手綱を短くしたジークヴァルトが、坂の途中で馬の歩みを止めた。険しい表情のまま、まだ続く先をしばし無言で見つめ続ける。
「これ以上馬で進むのは無理だ」
先に馬を降りたジークヴァルトが両手を差し伸べてくる。
鞍の上で一度腹ばいになったリーゼロッテは、力強い支えで危なげなく地面へ降り立った。
「この子はここに置いていくのですか?」
「問題ない。辺りには水も草もある。いざとなれば勝手に人里へ降りるだろう」
この場所に戻って来られるかも分からない状況だ。
自由にした馬と別れ、進むべき道へと意識を向ける。
「行けるか?」
「はい、わたくし大丈夫ですわ」
不思議と不安は湧いてこなかった。
ジークヴァルトと一緒なら、何があろうと立ち向かっていける。
根拠のない自信を胸に、ジークヴァルトとともにリーゼロッテは自らの足で歩き出した。
この先にあの神官がいる。
何があってもやり遂げなくてはならなかった。
奪われた何もかもを、この国に取り戻すために――。
◇
小鳥たちのさえずりで目覚め、リーゼロッテは朝日が顔をのぞかせたばかりの庭へ出た。
高い塀に囲まれたラウエンシュタイン城の敷地は思った以上に広大だ。城周辺には整えられた庭があり、跳ね橋のある反対側は森や草原、丘などが広がっている。
箱庭と呼ぶには手つかずの自然が多い。ありのままの生態系の営みが、美しい調和を作り出しているようにリーゼロッテの目には映った。
「今日はことさらいい天気ね」
清浄な空気を胸いっぱい吸い込んだ。
異形の者もいないため、外へも気ままにひとり出歩ける。こんな解放感はいつぶりだろうか。
クリスティーナのいた東宮でも庭には出られたが、どこか閉塞感がつき纏っていたように思う。
いつも通る石畳を進み、幅広の階段を降りて行く。この奥にある小さな花畑で花を摘むのがリーゼロッテの朝の日課となっていた。
「今朝も少しだけ摘ませてね」
誰ともなしに語りかけると、花畑から小さな光の玉が湧き上がるように乱舞した。歓迎のサインと受け取って、ありがとうと微笑み返す。
幼いころ、この光たちを花の妖精と呼んでいた。ラウエンシュタインで過ごすうちに、昔の記憶がところどころ思い出されてきたリーゼロッテだ。
少しでもルチアを元気づけたくて、毎日のように彩とりどりの花を届けている。
こんなことしかできない自分がもどかしいが、何もやらないでいるよりかはましだろう。
「今日、力を貸してくれるのはだぁれ?」
問いかけて小首をかしげた。不思議な話だが、こう聞くと我こそはという花がまるで立候補しているように光輝いて見えてくる。
手を上げてくれたのは小さなプリムラだ。鮮やかに彩づく赤い花びらは、まさにルチアぴったりに思えた。
「今朝はあなたたちね。いつも本当にありがとう」
お礼の言葉とともに数本だけ摘み取った。
ルチアのため、儚い命を目一杯輝かせてほしい。この思いはリーゼロッテのエゴでしかないのだろうけれど。
(それでも――)
少しでもルチアの力になりたいと、プリムラを胸に花畑をあとにした。
来た道を戻っていって、幅広の階段下に差しかかる。ここから見上げては、リーゼロッテはいつもジークヴァルトと初めて会った日を思い出していた。
「ちょうどあの辺りにヴァルト様が立っていたっけ」
あれは初秋の季節のことだった。階段の縁に立ち、少年ジークヴァルトは無表情でじっとこちらを見下ろしていた。
春風に蜂蜜色の髪が攫われる中、ふふと唇が自然と弧を描く。しかし会いたい気持ちがどうしようもなく膨らんで、すぐにしゅんと俯いた。
手紙でのやりとりはしているが、週一で届けばいい方だ。
ラウエンシュタインはフーゲンベルク領からかなり離れた場所にある。
頻繁に家令のルルに頼むのもためらわれて、返事が届いたらゆっくり文をしたためる程度にとどめているリーゼロッテだった。
下唇を噛みしめ小さく首を振る。ふっと息を吐き、無理やりに沈む気持ちを切り替えた。
(今はルチア様とベッティのことだけ考えよう)
でないとここに来た意味がない。
春めいて来た今頃は、王都では頻繁に茶会や夜会が開かれていることだろう。本当だったらリーゼロッテも公爵夫人として社交に精を出しているはずだった。
その大事な役目を放棄してまで、我が儘を言って公爵領を飛び出したのだ。
(しっかりしなさい、リーゼロッテ!)
弱音など吐いている場合ではないと、そう自分を戒めた。
顔を上げ、石畳を進む。
建物に入る手前でふと視線を感じ、何とは無しに二階のバルコニーを仰ぎ見た。
そこにいた人物と目が合って、リーゼロッテは自然体の笑顔を向けた。
「おはようございます、父様」
「おう、おはよう」
手すりに背を預けたイグナーツが、軽く片手を上げてくる。
「にしても早いな、リーゼロッテ」
「ルチア様にこれをと思って」
摘んだ花を控えめに掲げて見せた。
ここに来てからイグナーツとは毎食のように食卓を囲んでいる。
実父と過ごす時間は思いがけない贈り物だった。お陰でリーゼロッテも精神的に随分と救われていた。
「そうか。ロッテは昔もそうやってよく花を摘んでいたな」
「ええ、わたくしもよく覚えていますわ」
あの頃は小鬼を引きつれて花畑に通っていた気がする。
(そう言えばそうよね。今ここに異形はひとりも見かけないけれど……)
小鬼が無邪気にはしゃぎ回る姿は、見ていて本当に心が和む。
フーゲンベルク家での日常が思い起こされて、リーゼロッテの顔に再び影が差した。
「どうした、ロッテ?」
声音を変えたイグナーツが、バルコニーから身を乗り出して覗き込んでくる。
実の父とは言え、弱い自分をさらけ出すにはイグナーツとの距離が掴み切れていなかった。単にやさしく聡明な娘だと、そう思われたいだけなのかもしれないが。
どの道心配をかけてはいけないと、リーゼロッテは誤魔化し笑いを返そうとした。
「いいえ、何でもありませ……」
「よっと」
「あっ、イグナーツ父様!」
手すりを飛び越えたイグナーツが、いきなり二階から降ってきた。
華麗とは言い難い着地に、リーゼロッテは慌てて駆け寄っていく。
「だ、大丈夫ですか、父様」
「なぁに、心配いらねぇよ。こんなもん昔から慣れっこだからな。まぁ、なんつーか夜這いの賜物ってやつだ」
「よばい……?」
「あ、いやいや、違う。ヤバイだ、ヤバイ。つまりヤバイ山登り的な?」
「まぁ! そうですわよね、父様は毎年の登山でお体を鍛えていらっしゃいますものね!」
瞳を輝かせ、掛け値なしに尊敬の眼差しを向ける。
一瞬微妙な表情になったイグナーツが、呆れたような、感極まったような、そんなおかしな顔をした。
「……ロッテは本当に無垢で純真な娘に育ったなぁ」
感嘆交じりに言われ、戸惑いで小首をかしげた。
確かにいい子に見られたいとは思っているが、これは言い過ぎとしか思えない。
「わたくし別にそんなことは……」
「いいや、本当にロッテは昔から変わらねぇよ」
ふっと父親の顔で笑ったイグナーツは、リーゼロッテの頭をやさしく撫でてきた。
ジークヴァルトとは違う触れ方は、どこかダーミッシュの義父を思い出させる。
血の繋がりとは不思議なものだ。イグナーツとはずっと離れて過ごしていたのに、どこかくすぐったいような照れくさいような、リーゼロッテはそんな感覚に陥った。
「すっかりなくなっちまったな……」
「え?」
今度は寂しげに言われるも、脈絡のない言葉にリーゼロッテは困惑を返すしかなかった。
文脈が掴めずに黙っていると、イグナーツはやはり寂しそうな声で漏らした。
「マルグリットの気配だ」
真っすぐに真剣な顔を向けられる。そこに父の気配は見い出せず、ただ愛する者への渇望と喪失だけが伝わってきた。
後ろめたさと共に感じた居心地の悪さに、思わずリーゼロッテは顔を俯かせた。
「母様の力はこの前の騒ぎで完全に消えてしまって……」
「そうか……マルグリットは最後までリーゼロッテを守り切ったんだな」
「ごめんなさい、わたくしが不甲斐ないせいで」
「謝ることはねぇ。ロッテを守ることこそが、マルグリットが一番に望んでいたことだ」
「父様……」
再び父親の顔をのぞかせたイグナーツに、リーゼロッテは瞳を潤ませた。
「やっぱりロッテは、ダーミッシュ家に行って正解だったな」
どこか遠い目になったイグナーツがぽつりと漏らす。
正解と言った割にはイグナーツの瞳は苦しげに細められ、リーゼロッテへの自責の念が垣間見えた。
(そう言えば前にルルが教えてくれたっけ。わたしがダーミッシュ家の養子になったのは、父様がディートリヒ王に頼んだからだって……)
ふいにセピア色の思い出が頭を過ぎった。
膝をついたイグナーツが、幼いリーゼロッテを苦しいくらいに抱きしめている。
『お前を捨てていくオレを許してくれ』
耳元で聞こえる声は、苦渋に満ちたものだ。
今なら分かる。龍の御許に行った母を取り戻すため、イグナーツはリーゼロッテを置いて旅立ったのだと。
「父様は……なぜわたくしを養子に出したのですか?」
気づけばそう尋ねていた。
ルルに世話を任せれば、ここラウエンシュタイン城で自分を育ててもよかったろうに。
「あ、父様を責めているわけではないのです! わたくし、純粋に疑問に思っただけで……」
「親の温もりも知らないまま、ロッテがこの空虚な城で成長するのかと思うと……オレはお前をここに独り残して行くことはできなかった」
そこまで言うと、イグナーツは自嘲気味に笑みを浮かべた。
「何を言ってもただの自己満足だな。最後に父親らしいことをと思ってお前を養子に出したが、オレがロッテを捨てたことに変わりはねぇ」
確かに養子に行った先で不遇な目にでも合っていたら、リーゼロッテもイグナーツを恨んだだろう。
だがダーミッシュ家での思い出はどれも温かい。フーゴとクリスタはルカと分け隔てなく、リーゼロッテを本当の娘のように育ててくれた。
「許してくれなんて言える立場じゃないのは分かっているが……リーゼロッテ、本当にすまなかった」
悔いた声のイグナーツは唇を噛みしめ頭を垂れた。
そっと手を引いて、その顔を上げさせる。
「わたくし、イグナーツ父様のことひとつも恨んでおりません。以前にも申し上げましたが、父様とマルグリット母様の温もりはちゃんと覚えておりますわ」
「リーゼロッテ……」
「むしろわたくしはしあわせ者ですわね。父様に母様、ダーミッシュ家の両親、それにジークフリート様にディートリンデ様……こんなにもたくさん両親がいるんですもの」
嘘偽りのない笑顔を向けると、イグナーツの瞳から滂沱のごとく涙が溢れ出た。
「おぉおうおぅおう、ロッテぇ! なんて、なんていい子に育ったんだぁっ」
「と、父様、花がつぶれてしまいますわ」
ガバっと抱きしめられて、もらい泣きしつつも胸に抱くプリムラを何とか死守した。
綺麗に形を保ったままの花束にほっと息をつく。
「おっと、わりぃ。つい感動しちまってな」
「いえ、大丈夫ですわ。花はちゃんと無事でしたから」
春風に揺れる赤い花びらから、キラキラと光の粒が放たれた。
花たちがイグナーツと心の距離が縮まったことを祝福してくれている。なんとなくリーゼロッテはそんなふうに思った。
「おふたりとも、こちらにいらっしゃいましたか」
「おはよう、ルル」
「おはようございます、リーゼロッテ様」
やって来た家令のルルに笑顔を向ける。
裏腹に、イグナーツの空気がどことなく硬くなった。
「イグナーツ様、お部屋にいらっしゃらないようでしたので、お探ししておりました」
「ああ、それはいらない手間を、かけさせてしまいましたね。すみません」
「勿体ないお言葉です。朝食前に目を通していただきたい書類がございますので、お伝えに上がりました」
「分かりました、すぐにでも」
イグナーツに向かって定規のように腰を折ると、次いでルルはリーゼロッテに向き直った。
「リーゼロッテ様もそろそろお部屋にお戻りになった方がよろしいかと存じます。春先とはいえまだ外はお寒うございますから」
「ありがとう、わたくしもすぐに戻るわ。あ、ルル。今日もこれをお願いしてもいいかしら?」
「もちろんでございます。責任をもってルチア様にお届けいたします」
プリムラの束を受け取ると、ルルはぴしりとした姿勢のまま先に戻って行った。
「ふぅ、やれやれ。貴族言葉はどうにも肩が凝って仕方ねぇ」
「ふふ、そのお気持ち良く分かりますわ」
何気なく笑ったリーゼロッテに、イグナーツはおどけるように肩をすくめた。
「悪ぃな、締まりのねぇ父親で」
「いいえ、そのようなことはまったく。それにしても父様はそんなふうにもお話しできたのですね」
「マルグリットに、恥をかかせたくなかったもので」
「まぁ、母様のために?」
「ええ、絶対にそれだけはしたくないと、若い時分、死に物狂いで、習得、したのですよ」
神妙な顔つきで、イグナーツはゆっくりと言葉を並べていく。
間違った言い回しをしないよう、考えながらしゃべっているのだろう。
「昔は、もっとスムーズに、話せていたのですが。最近は市井にいる、時間の方が長くて、つい練習をさぼりがちになって、いけませんね」
「でもどこもおかしく感じませんわ。むしろゆっくりと話してくださるから、とてもやさしい印象を受けますもの」
「そうか! ロッテにそう言われると自信が持てるな!」
途端に瞳を輝かせイグナーツは少年のような笑顔となった。
この短い時間にも、イグナーツの表情はころころと変わっていく。時に父親を覗かせて、時に知らない男の顔を見せ、そして今みたいに子供のようになり。
そのあまりの変化に初めは戸惑いもした。しかし一緒に過ごすうち、その理由がだんだんと分かってきたリーゼロッテだ。
(父様は……自分に正直なんだわ)
偽りのない気持ちを表に現し、思ったことをそのまま口にして、その時々でしたいように行動する。
ついつい周囲の顔色を伺ってしまうリーゼロッテとは大違いだ。
常に気を遣って我慢している立場としては、その自由奔放さが羨ましくもあり、ずるいとさえ思ってしまう気持ちもなくはなかった。
だが他人への気遣いがないのではなく、イグナーツは単に人の目をまったく気にしていないのだろう。
「じゃあまたあとでな」
「はい、父様」
片手を上げると、イグナーツは器用に柱をするすると登っていった。
(でもわたくしが泣き上戸なのは、きっと父様譲りね)
そう思うと、どこか心の奥がくすぐったくなる。
無事バルコニーに降り立った姿を見届けてから、リーゼロッテも部屋へと戻ったのだった。
◇
ぼんやりと姿見の前で座るルチアの髪を、ベッティは鼻歌交じりに結っていた。
仕上げにサテンのリボンを結ぶ。光沢のある琥珀色が赤毛に良く似合っていて、その出来映えにベッティは満足げに頷いた。
「さぁ、できましたよぅ。今日のルチア様も超絶可愛らしいですぅ」
手に持てる大きさの三面鏡を後ろに掲げ、ルチアから見えるよう姿見に映す。様々な角度から見せたあと、ベッティは鏡越しに金色の瞳を覗き込んだ。
「いかがですかぁ? これならあの方もきっと喜んでくださいますよぅ」
「ほんとう? だったらうれしい」
ルチアは無垢な少女のようにはにかんだ。そのまま鏡に映る姿を、にこにことうれしそうに眺めている。
どこか地に足つかない様子なのは、ルチアに鎮静作用のある薬草を煎じて飲ませているからだ。
先日の野外への脱走事件以来、ベッティはこっそりとルチアの食事に混ぜ込んで食べさせるようになった。
ラウエンシュタイン城の敷地は驚くほど自然豊かだ。ちょっと奥まった森まで行けば、様々な薬草が取り放題となっている。
(いつまでも……ってわけにはいきませんけどぉ)
とりあえずルチアを見ていられない間だけ、適量を盛るようにしているベッティだ。
夢の国に行き過ぎて、カイのことを忘れられても困ってしまう。匙加減が難しいが、ルチアの精神が落ち着くまではそれで乗り切るしかないだろう。
「朝食はいかがなさいますかぁ? たまにはリーゼロッテ様とご一緒してもぉ」
「ここで食べる」
「承知いたしましたぁ。お部屋にお運びしますのでぇ、ルチア様はこちらを飲んでお待ちくださいませねぇ」
追加で鎮静剤入りのハーブティーを飲ませてから、ベッティは部屋を離れようとした。
そのタイミングで扉が叩かれる。やって来たのはラウエンシュタイン家の家令のルルだ。
「エリザベス様、おはようございます。本日もルチア様にとリーゼロッテ様からこちらをお預かりして参りました」
「ああ、今日は真っ赤なプリムラなんですねぇ。なんだかルチア様にぴったりですぅ」
花瓶を受け取ろうとすると、ルルはやんわりとそれを止めてくる。
「エリザベス様のお手を煩わせるわけには参りません。わたしがお運びいたします」
すっと躱されて、ベッティの手が中途半端にさまよった。
口から文句が出かかるも、しかし美しく活けられた花瓶が置かれた場所も、見栄えのする花の角度も、いちゃもんひとつ付ける隙がない。
「じゃあわたしはルチア様の朝食を取ってきますねぇ。今朝も部屋でいただきたいとのことですのでぇ」
「ではすぐにでもこちらにご用意させていただきます。エリザベス様はこのままお部屋でお待ちください」
すぐさますん、と返されて、ベッティの顔が若干ひきつった。
「エリザベス様もこちらでご一緒なさいますか?」
「まぁ、そうしようかと思ってますがぁ、わたしはルチア様の侍女の身なもんでぇ……端っこの方でちょこっとつまむ感じで十分ですよぅ」
「ラウエンシュタイン家の名にかけて、そのようなことは出来かねます」
何を言ってもルルは毅然とした態度を崩さない。
この城に来てからというもの、ベッティは暇を持て余しまくっていた。侍女としてやるべきことを取り上げられては尚更だ。
(ぐぬぬぅ……この状況はいくらなんでもあんまりですよぅ、カイ坊ちゃまぁ)
脳内でカイがしてやったりとウィンクを返してくる。
しかも笑いを堪えた仕様でいるから始末に悪い。
「エリザベス様をラウエンシュタイン公爵家にお迎えしたからには、誠心誠意尽くさせていただくのがわたしどもの務め。何卒お聞き入れをお願いしたく存じます」
定規のように腰を折ると、昨日飾った花瓶を手にルルはさっさと行ってしまった。
お願いと言いつつそんなものは形ばかりだ。強制的な決定事項に、ベッティは人目を憚らずに歯噛みした。
ルルの言う「お迎えした」とは、決して客人としての待遇ではない。
そう、ベッティは今、歴とした公爵家の者としてこの城に住んでいる。ルチア共々、ラウエンシュタイン家の養子となって。
これから父と呼ぶべき人間は、よりにもよってあのイグナーツ・ラウエンシュタインだ。
デルプフェルト侯爵の異常者ぶりと、クズ男代表イグナーツのちゃらんぽらんさを天秤にかけ、どちらがいいかと問われたら。
もちろんどっちも嫌だと即答するベッティだ。
カイの出した宿題に対して、確かにベッティはこのままルチアの元にいたいと答えを出した。それが何としたことか、蓋を開けたらこの状況だ。
ラウエンシュタイン家の養子にするならするで、別にルチアひとりでよかったはずだ。さすがのベッティも、文句のひとつも言いたくなってしまう。
頭の中のカイは腹を抱えて大爆笑していた。そして涙まで浮かべた琥珀の瞳を細め、いい子いい子とベッティの頭を撫でてくる。
「もう、分かりましたよぅ」
ルチアをよろしくね。つまりはそういうことだろう。
デルプフェルト家に籍を置いたままでは、永遠にルチアの侍女でいることは難しかったかもしれない。
いっそ姉妹になってしまえば、逆に縁を切る方が難しくなると言うものだ。
(それをあっさり受け入れたイグナーツ様もホントどうかしてると思いますけどねぇ)
あの男のことだ。きっと何も考えていないに違いない。
このあとベッティは、開き直ってルチアと同じ食卓で豪華な朝食をいただいた。
そして侍女服の替えを所望したところ、どっさりと令嬢向けの華やかなドレスを届けられ、膝から崩れ落ちるしかないベッティだった。
◇
雨降りの今日は少し肌寒い。
炎が踊る暖炉の前で寛いでいると、ルチアを連れたベッティがやってきた。ふたりの出で立ちは、どちらも可憐な令嬢仕様だ。
「リーゼロッテ様ぁ、おはようございますぅ」
「おはよう、ベッティ」
このところルチアはちょこちょこ部屋から出て来るようになった。
どこかぼんやりとしているが、初日に会ったときに比べ血色もずっとよくなってきている。
「よかった。ルチア様、今日はお加減が良さそうね」
「少しは歩いていただこうと思ってここまでお連れしましたぁ。籠りきりだと体力も落ちてしまいますからねぇ」
そのルチアはと言うと、毛足の長い絨毯にぺたりと直に座り込んだ。
返事をするでもなく、そのまま心ここにあらずな様子で揺れる炎を見つめている。
「最近のルチア様はぁ、暖炉の前がお気に入りのようでしてぇ」
「火って見ていてなんだか落ち着くものね」
「ああ、それはありますねぇ」
言いながらベッティは、膝立ちで後ろからルチアの髪をブラシで梳きだした。燃え盛る炎に照らされて、ルチアの赤毛がいっそう美しく艶めいて見える。
ふと鼻をついた不思議な香りに、リーゼロッテは眉根を寄せた。どこかで嗅いだことがあるような気がするが、この匂いはなんだか嫌な気持ちにさせられる。
次の瞬間、脳裏に浮かんできたのは、格子の嵌った窓から見える針葉樹の雪景色だ。
不安。空腹。季節外れのすっぱい林檎。
次々と思い出された負の記憶に、はっとしてリーゼロッテはベッティを見た。
「ベッティ、この匂いって……」
「ああ、お気づきになりましたかぁ? ルチア様の薬湯にハリィエンジュも加えてありますからぁ」
攫われた神殿で食事に盛られていたぼんやりする成分だ。
囚われの恐怖の日々が蘇り、思わずリーゼロッテは自身の体を抱きしめた。
「ルチア様にあれを使っているの?」
「ほんの少量ですよぅ。効果も気持ちが穏やかになる程度なんでご安心くださいましぃ」
「そう……」
使い方を間違えなければ毒も薬となるということか。
ふいに盲目の神官の顔が過ぎるも、今のルチアには必要な措置なのだとリーゼロッテは無理やりに嫌な記憶を打ち消した。
(あのことはもう忘れよう……わたしはちゃんとジークヴァルト様の元に帰れたんだから)
意識を逸らすため、何か楽しいことはないかと考えを巡らせる。
それでも良さげなことがなかなか思い浮かばない。しばらくの間リーゼロッテはルチアの髪に通されるブラシの動きを目で追った。
「ねぇ、ベッティ。わたくしもやってみてもいい?」
「それは構いませんがぁ……」
戸惑いつつもベッティはブラシを手渡そうとしてくる。
その瞳はどこか恨みがましそうだ。ベッティのことだから、暇なのに仕事を取るなと言ったところだろう。
「違うわ。ベッティはそのままルチア様にやってあげて。わたくしはベッティの髪をとかすから」
「わたしの髪をぉ? リーゼロッテ様がぁ!?」
「いいのよ。わたくしたち、もう家族でしょう?」
くすくすと笑いながら予備のブラシを手に取った。ベッティの背後に立ち、真っ白な髪を梳いていく。
どういった経緯かは知らないが、ベッティもルチアもラウエンシュタイン家の養子となっていた。そうイグナーツに聞かされたとき、リーゼロッテはそれはそれは驚いた。
だがルチアは王族の落とし胤だ。市井育ちの彼女は子爵令嬢から段階を踏んで、身分を上げる必要があったのかもしれない。
「まったくぅ。ルチア様だけで十分なのにぃ、どうしてわたしなんかまでぇ」
「いいじゃない。ベッティは元々侯爵令嬢なんだし、そのドレスも良く似合ってるわ。ふふ、何よりもわたくしは三姉妹になれてうれしいの」
「こんなにも似てない姉妹だなんてぇ、ツッコミどころ満載ですけどねぇ」
ルチアは赤毛だし、ベッティの地毛は白髪だ。そしてリーゼロッテは蜂蜜色した金髪。確かに姉妹と言うには彩りが豊かかもしれない。
その三人が並んで髪をといている。弟しかいないリーゼロッテにしてみれば、姉と妹が同時にできたことが新鮮に思えて仕方がなかった。
(これでツェツィーリアが加われば……)
黒髪の彼女もいれば完璧だろう。四姉妹なら若草物語ができそうな勢いだ。
(ベスはエリザベスの愛称だからやっぱりベッティかしら? でもしっかり者のベッティは長女のメグが似合いそう……)
末っ子のエイミーはツェツィーリアでいいとして、むしろリーゼロッテの方が病弱なベスっぽい。
「それに活発なジョーはアデライーデ様に演じて欲しいわね」
「アデライーデ様がどうかされたんですかぁ?」
「えっ、な、なんでもないの。ただの独り言よ」
表に出してはいけない脳内思考が、うっかり口から漏れ出てしまったようだ。
危ない危ないと思いつつ、これは自白剤の効果もあるあの香りを嗅いだせいだと再び気分が下がりそうになった。
慌ててリーゼロッテは首を振る。とにかくたのしい会話を続けなくては。
「ねぇ、ベッティ。腹話術ってどうやったらうまくできるのかしら? コツを教えてもらえない?」
「腹話術ぅ? なんでまたそんなことぉ」
「ほら、あのときアルフレート二世でやってくれたでしょう?」
毒舌のもふもふを思い浮かべる。
話題がいまいち神殿から離れ切れていないが、腹話術はジークヴァルトとのうれし恥ずかしな記憶に上書きされた。怖いことは何もない。
「そんなものぉ、口を動かさずにしゃべればいいだけですよぅ」
「それがなかなか難しくって」
「えぇ? アレをご自分でおやりになったんですかぁ?」
「えっ、ええ、まぁ、ちょっとした戯れよ」
さすがに仲良く夫婦そろって嗜んでいるとは言い出せない。
そのとき雷鳴が大きく轟いた。驚いて窓を見やると、滝のような雨の中で稲光が眩しく一瞬明滅した。
間を置かず雷が鳴り響く。地響きのような振動にリーゼロッテは身をすくませた。
「今のは大きかったですねぇ」
手を止めていたリーゼロッテと違い、ベッティはルチアの髪を梳き続けている。ルチアもぼんやりとしたままだ。
「近くに落ちたのかしら」
「かもですねぇ。でもようやく春が来たって感じがしますぅ」
春雷はこの国にとって風物詩のようなものだ。気候は全く違うのに、そんなところは日本とよく似ていた。
ここ数年はなかなか雪が解けず、春の訪れが遅れる年が続いている。雪深い土地ほど冬の備蓄に苦慮していると、リーゼロッテは耳にしていた。
「雷のあとは植物がよく育つって言うから……今年は豊作になると良いのだけれど」
「へぇ、そうなんですねぇ。単純に雨が降るからって思ってましたがぁ。さすがリーゼロッテ様、物知りですぅ」
(あっ、いけない。これは日本での知識だったかしら)
日本での常識がこの世界に当てはまるとは限らない。
異世界生活も長くなってきたせいか、記憶の境界線が曖昧になってきている今日この頃だ。
「ただの受け売りよ。いつかどこかで聞いただけだから。今度花を摘みに行くときにどんな感じか確かめてくるわ」
「ああ、いつもお花をありがとうございますぅ。ルチア様の寝室に飾らせていただいてるんですよぅ」
「そう、よかったわ。少しでもお部屋が明るくなればと思って」
「お気遣い痛み入りますぅ。ところであの花はどこで摘まれてるんですかぁ?」
「庭の裏手に階段があるでしょう? あの奥に花畑があるの」
そこでリーゼロッテはぽんと両手を合わせ、いいことを思いついたと瞳を輝かせた。
「ね、お天気が回復したら、みんなで花畑に行ってみない? ルチア様も良い気分転換になるんじゃないかしら?」
「ああ、それはいいですねぇ。運動にもなりますしぃ、夜の寝つきも良くなってぇ薬湯の量も減らせるかもですぅ」
◇
そんな会話をした数日後、リーゼロッテたちは花畑にやってきていた。
ゆっくり歩いても十分もかからない距離だったが、バスケットに軽食を詰め込んで気分はちょっとしたピクニックだ。
「わぁ、こんなところがあったんですねぇ」
「ええ、ここは子供のころからのお気に入りの場所なの」
さわやかな風が吹き、あちこちで小鳥たちがさえずっている。雨上がりのせいか雷効果か、植物たちは生き生きと新芽を伸ばしていた。
ルチアを伺うと、ぼんやりと景色を眺めている。石畳に佇んで、今自分がどこにいるかも分かっていない様子に思えた。
「ねぇ、ベッティ。今日もルチア様に薬湯を……?」
「昨夜に少し大きめの癇癪を起されましてぇ。仕方なくいつもより多めに飲んでいただきましたぁ」
「そう……」
ルチアの症状には波があるようだ。
(時間が解決してくれると思いたいけれど……)
こればかりは予想がつけ難い。ルチアの心の問題である以上、リーゼロッテにできることは何もなかった。
強めに吹いた春風に乗って、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
その風に背を押されるように、ルチアは花畑に足を踏み入れた。綺麗に咲く花を気にせず進む姿に、リーゼロッテは止めるべきかと手を伸ばしかけた。
しかしルチアが歩くたび、花々から光の玉が湧き上がる。その様は夢見るように美しく、ルチアはさながらおとぎの国のお姫様だ。
(よかった。妖精たちはルチア様を歓迎してるみたい)
ほっとしていると、ルチアは花畑の真ん中あたりでぺたりと座り込んだ。かと思うと目の前に咲く小さな花を、次から次に摘み取っていく。
むやみやたらにちぎっているのかと思ったら、ルチアは熱心に花を編み出した。器用な手つきを見つめているうちに、編まれる花はどんどん長くなる。
「あ……ルチア様は花冠を作っているのかしら?」
「みたいですねぇ」
最後に輪っかに仕上げると、可愛らしい花冠ができ上がる。
それを自分の膝に置き、ルチアはまた次を編み出した。
(ルチア様、笑ってる)
無邪気な少女のような笑みを口元に浮かべ、ルチアは何か歌を口ずさみ始めた。
耳に届く旋律は、リーゼロッテの知らないものだ。
「なんて曲かしら? ね、ベッティは知っている?」
「わたしも曲名は知らないんですがぁ、どうやら昔母親に教えてもらったみたいですよぅ」
「お母様に?」
「母親の故郷かどこかぁ、地方に伝わる唱かもですねぇ」
確かに独特な感じがする。故郷を懐かしむ唱歌なのだろうか。
「故郷は遠きにありて思うもの。そして悲しく歌うもの……」
そのフレーズが、無意識のままリーゼロッテの口をつく。
「詩か何かの一節ですかぁ? リーゼロッテ様はほんと教養がおありですねぇ」
「え、ええ、まぁ、うろ覚えなのだけれど」
日本の詩人とは言い出せず、慌てて愛想笑いでごまかした。
その間にも、ルチアの歌声は花畑にのびやかに響いていく。
「確かにどこか郷愁を誘うメロディですねぇ」
そう言って、ベッティは見守るような視線をルチアへ静かに落とした。
ルチアの髪が風に舞い踊るたび、妖精たちが絡みつくように乱舞する。
いくつも花冠を編みながら、ルチアは繰り返しその歌を口ずさみ続けた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。穏やかに過ぎる日々の中、心が揺れ動くルチア様。イグナーツ父様の言葉に、ある決意を固めたようで? そんなときわたしは父様にとある人物と引き会わされて……。
次回、7章第2話「心赴くまま」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!




